06:顧氏関連

2020年5月 9日 (土)

顧承は「奮武将軍」

呉の顧承は字を子直といい、顧雍の孫、顧邵の子、顧譚の弟である。母は陸遜の姉妹と考えられ(「陸遜伝」)、妻は張温の妹と伝えられる(『文士伝』)。舅の陸瑁と共に召し出されて孫権に仕えたが、後に政争に巻き込まれて37歳で死去した。

若く亡くなったこともあってか顧承の記述はそう多くはないが、今回の記事では顧承が得た将軍号について考えてみたい。



1.顧承は奮威将軍ではなく「奮武将軍」だった?

この顧承について、正史『三国志』呉書(以下『呉志』)では奮威将軍になったことが記されている。

(『呉志』顧雍伝附顧承伝)

承字子直,嘉禾中與舅陸瑁俱以禮徵。權賜丞相雍書曰:「貴孫子直,令問休休,至與相見,過於所聞,為君嘉之。」拜騎都尉,領羽林兵。後為吳郡西部都尉,與諸葛恪等共平山越,別得精兵八千人,還屯軍章阬,拜昭義中郎將,入為侍中。芍陂之役,拜奮威將軍,出領京下督。

芍陂の役の論功行賞で顧承が雑号将軍に任ぜられたことは兄である顧譚の附伝にも記述がある。

(『呉志』顧雍伝附顧譚伝)

時論功行賞,以為駐敵之功大,退敵之功小,休、承並為雜號將軍,緒、端偏裨而已。

雑号将軍とはすなわち附顧承伝でいう奮威将軍を指すのだろう。この数年後、全琮父子に讒訴され交州へ流されたことを踏まえると、奮威将軍が顧承の最終官位と考えられる。
ここまで引用した各記述に不自然な点はない。


ところが実は、顧承は「奮武将軍」であったとする史料が別に存在する。

『初学記』巻十七

《吳先賢傳 奮武將軍顧承贊》曰:于鑠奮武,奕奕全德;在家必聞,鴻飛高陟。

『初学記』に『呉先賢伝』という書から引かれた賛があり、そこには「奮武将軍顧承」と記されているのである。
この記述は『呉志』の「顧承は奮威将軍を拝した」という記述と相違する。

可能性として、『呉先賢伝』の記述を『初学記』へ写す際に奮威を「奮武」と書き間違えたと考えることはできる。
だが、この『初学記』は唐の玄宗の勅命により編纂されたもので、諸皇子の参考書となる役目を担った類書なのだ。その背景を考えると撰者が粗末な仕事をしたとは考えにくく、さらに『初学記』は引用資料の精確さは『芸文類聚』に勝ると評価される史料でもある(『四庫全書総目提要』)。

引用記事そのものを見てみても、「奮武将軍顧承賛」「于鑠奮武」と二度も「奮武」という単語が出ており、そこに不一致はない。このことからも、撰者ははっきり「奮武将軍」と認識した上で書き写したと考えるのが自然だろう。

「奮武将軍顧承」とは『呉先賢伝』の時点でそう書かれていたのだ。だからこそ『初学記』にも「奮武」と書写されたのである。


※もちろん、『初学記』原本と現行テキストに文字の異同がある可能性も否定できない。だが、それを確認するのは困難を極める。『呉先賢伝』についても同様である。本記事では各原本から「奮武将軍」となっていたという前提のもと考えを進めていく。



2.『呉先賢伝』と陸凱と顧承

今回重要となる『呉先賢伝』とはいかなる書なのだろうか。『隋書』経籍志は以下のように記録する。

(『隋書』経籍志)

吳先賢傳四卷吳左丞相陸凱撰。

『呉先賢伝』は呉の左丞相陸凱が撰したという。

呉左丞相陸凱とは、三国呉に仕えた呉郡呉県の陸凱、字は敬風(198-269)のことだろう。
『呉志』陸凱伝によれば、彼は軍事に携わることになっても書物を手離さなかった。他にも太玄経注などを撰していることから、著述に精力的な人物だったのかもしれない。

この
陸凱が撰した『呉先賢伝』については、『初学記』に「奮武将軍顧承賛」「揚州別駕従事戴矯賛」「上虞令史胄賛」が逸文として残るだけであり、書の全容を知るのは非常に困難だ。ただその書名からして、呉の地に関わりの深い人物伝と推測される。詳細不明の戴矯と史胄はともかく、呉郡出身の顧承の記述が見られることはその傍証となる。

しかしそもそも、『呉先賢伝』のいう「奮武将軍顧承」は顧承(字子直)であると断じていいものか?
これに関しては『呉先賢伝』の逸文が賛しか残されていない以上、別人の可能性がゼロとは言い切れない。
とはいえ、顧承(字子直)は「奮○将軍」となったことが『呉志』に明記されており、彼以外に同条件の者は確認できない。
加えて陸凱の没年を考慮すれば、『呉先賢伝』で取り上げられたのは当然それ以前に存在した人物のはずなので、この点についても顧承はクリアしている。


それに、陸凱の側から見ても顧承(字子直)は呉の先賢として記述を残す対象足り得る人物だったように思う。

主な理由は、

・顧承には武官としての功績がある
・諸葛恪伝裴注『呉録』を見るに、顧承は兄の顧譚に劣らぬほどの評判があった
・顧承と陸凱はともに呉郡呉県の出身
・顧氏と陸氏は通婚を結んでおり関係が深い。特に顧承は陸氏の血を継いでいる
・顧承と陸凱は活動時期が重なることから面識があった可能性も高く、事績をよく知っていたと思われる。そうした情報を持っているがゆえに人物伝を書きやすい

などである。決定的な裏付けとはならないまでも、伝を残す理由として納得できるものではあるだろう。
同時代に活躍した同郷人で名声のあった人物ゆえに、事績を残しておきたかったのだ。
他に有力な候補がいない以上、陸凱が先賢伝の中に書いたのは顧承(字子直)と見てよかろう。

上で述べた通り、陸凱は顧承のことを知っていたに違いない。伝聞ではなく、直接会って人となりを知っていたとさえ考えられる。
その陸凱が『呉先賢伝』で顧承を「奮武将軍」と呼んでいるのだ。これを陸凱の誤りだと容易に判断してよいものだろうか。
私はそうは思わない。
呉には「奮武将軍」に任命された者として賀斉と朱桓がおり、実際に任命された者がいる以上は顧承もまた「奮武将軍」を拝した可能性は十分にあるのだから。



3.『呉志』の奮威将軍はミスという説

『呉志』では奮威将軍とし、『呉先賢伝』では「奮武将軍」とする。
『初学記』のミスではないという考えについてはすでに述べた。他に考えられるのは、『呉志』か『呉先賢伝』のどちらかが誤りという可能性である。
それについて、本記事では一つの仮説を立てて述べたいと思う。

『呉志』の奮威将軍が誤りとする説である。

その考えについて以下述べていく。


まず、肝心の『呉志』附顧承伝の記述を改めて見てみる。「拝奮威将軍」と
明記されているのがわかる。
ここで注目したいのは、正史『三国志』全体の中で顧承が奮威将軍であると書かれているのは実はこの一カ所だけしかないという点である。
その他の箇所で官位と共に顧承の名が登場するのは、同巻にある諸葛瑾伝裴松之注の中だ。

(『呉志』諸葛瑾伝附諸葛融伝に引く裴注『呉書』)

新都都尉陳表、吳郡都尉顧承各率所領人會佃毗陵,男女各數萬口。

これは芍陂の役より前の記事であるから、顧承はまだ雑号将軍を拝していない。

奮威将軍顧承の名は、正史『三国志』においては附顧承伝の一カ所に記されるのみなのだ。


つまり、『呉志』附顧承伝の一カ所で将軍号の表記ミスが発生していたとしたら、正史において他の記述との比較ができないために、それがミスだと気付くことも出来ないのである。
実際、『初学記』所引『呉先賢伝』の逸文を見るまでは何の疑問も抱かなかった。「奮武将軍」とする逸文が確認できたからこそ『呉志』のあの一カ所が誤りであるという疑問を抱くことが出来たわけだ。

それでは、その一カ所で表記ミスが起きていたとしたら、原因は何なのか?
本記事の仮説で最も重要なのは、その一カ所が『呉志』附顧承伝という場所に存在することだ。

一度、附顧承伝から目を離して『呉志』の構成を見てみる。
顧承伝が附される『呉志』顧雍伝(正史『三国志』巻52)は同巻に張昭や諸葛瑾らが立伝されており、順番としては、張昭伝→顧雍伝→諸葛瑾伝→歩騭伝。これで一つの巻となる形だ。

ポイントは、顧雍伝の前が張昭伝という構成にある。
張昭
伝には息子の張承の附伝があり、そこには次のように記される。

(『呉志』張昭伝附張承伝)

承字仲嗣,少以才學知名,與諸葛瑾、步騭、嚴畯相友善。權為驃騎將軍,辟西曹掾,出為長沙西部都尉。討平山寇,得精兵萬五千人。後為濡須都督、奮威將軍,封都鄉侯,領部曲五千人,…(後略)…

張承もまた奮威将軍に任ぜられたという。

彼が奮威将軍であったことは同巻に収録される周昭の論や別巻の呂岱伝に「張奮威」「奮威将軍張承」と記されることからも間違いないだろう。顧承の場合とは異なり、正史『三国志』内にある他の記述との比較により確認がとれる。張承は確かに奮威将軍であったのだ。

話を戻すと、先述の通り張昭伝→顧雍伝と続いていることから、顧承と張承の附伝も同巻内に続く形で存在し、そう離れて位置するわけではない。
また偶然にも二人は顧承、張承と同名である。
さらに顧承が「奮武将軍」であったならば、かたや「奮武将軍顧承」かたや奮威将軍張承と将軍号まで似通っていることになり、編纂する側からすれば紛らわしく感じるかもしれない。

もしかすると、正史『三国志』呉書では、張承の記述に引きずられて顧承の将軍号を間違えてしまったのではないだろうか。

顧承と張承の類似点は上記の他にもあって、

・活動時期や活動内容にかぶる部分がある
・張承には張休という弟がおり、張休と顧承にも浅からぬ縁がある(そのため附張休伝と附顧承伝に互いの名が登場する)

などである。

当然ながら顧承と張承は別の人間だ。
しかし、陳寿のように二人と馴染みのない者からすると、混同しかねない紛らわしい共通点があると言えそうである。
小さな、しかし複数の類似点が重なった結果、正史『三国志』において張承の奮威将軍と顧承の「奮武将軍」がごっちゃになってしまった。

『呉志』は韋昭『呉書』を参考にしたといわれているが、丸写ししたわけではないことは、裴松之が注に引く『呉書』の数々を見ればわかることだ。
特に顧氏の伝に関しては、顧雍の同母弟たる顧徽など韋昭『呉書』にあった記述が『呉志』では大幅に削られており(※1)、のみならず『呉志』にある顧雍、顧邵、顧譚、顧承の記述さえいくらか手を加えられた形跡が見られる(※2)。
おそらくは顧氏の伝を編集する作業中に顧承の将軍号「奮武」が奮威と勘違いされ、書き間違えられてしまったのだろう。



3.まとめ

以上が本記事で述べたかった仮説である。

付け加えるならば、顧雍伝に続く諸葛瑾伝にも奮威将軍という将軍号が出てくる。

(『呉志』諸葛瑾伝附諸葛融伝)

孫權薨,徙奮威將軍

諸葛融である。
彼についても別の箇所、朱然伝附朱績伝に「奮威将軍諸葛融」と記されることから奮威将軍だったことは間違いなかろう。

奮威将軍張承のみならず、奮威将軍諸葛融に挟まれたことも、顧承の将軍号が混同された原因の一つかもしれない。
さらに、諸葛瑾伝に続く歩騭伝の最後には周昭論が引かれており、その中では「奮威」という言葉が四回ほど登場する。

同巻に同名の者がおり、将軍号も似ていた。さらに奮威将軍となった者に挟まれて、巻の終わりには奮威という言葉が何度も出てくる。
顧承のことをよく知らぬ者が撰したならば、附顧承伝にある一カ所の「奮○将軍」を書き間違えたとしても無理からぬことであろう。

その反面、陸凱は顧承本人を知っており、自身の持つ情報に基づいて顧承のことを記した。
ゆえに陸凱はその将軍号を間違えなかった。

陸凱にとって顧承は年下でありながら自分よりもはるかに早く死去した人物である。その顧承を呉の先賢と定め、敬意をこめて「奮武」と呼んだのだ。

顧承は「奮武将軍」なのである。




(※1)
顧雍伝裴注「吳書曰:雍母弟徽,字子歎,少游學,有脣吻。孫權統事,聞徽有才辯,召署主簿。嘗近出行,見營軍將一男子至巿行刑,問之何罪,云盜百錢,徽語使住。須臾,馳詣闕陳啟:「方今畜養士衆以圖北虜,視此兵丁壯健兒,且所盜少,愚乞哀原。」權許而嘉之。轉東曹掾。或傳曹公欲東,權謂徽曰:「卿孤腹心,今傳孟德懷異意,莫足使揣之,卿為吾行。」拜輔義都尉,到北與曹公相見。公具問境內消息,徽應對婉順,因說江東大豐,山藪宿惡,皆慕化為善,義出作兵。公笑曰:「孤與孫將軍一結婚姻,共輔漢室,義如一家,君何為道此?」徽曰:「正以明公與主將義固磐石,休戚共之,必欲知江表消息,是以及耳。」公厚待遣還。權問定云何,徽曰:「敵國隱情,卒難探察。然徽潛采聽,方與袁譚交爭,未有他意。」乃拜徽巴東太守,欲大用之,會卒。子裕,字季則,少知名,位至鎮東將軍。雍族人悌,字子通,以孝悌廉正聞於鄉黨。年十五為郡吏,除郎中,稍遷偏將軍。權末年,嫡庶不分,悌數與驃騎將軍朱據共陳禍福,言辭切直,朝廷憚之。待妻有禮,常夜入晨出,希見其面。嘗疾篤,妻出省之,悌命左右扶起,冠幘加襲,起對,趨令妻還,其貞潔不瀆如此。悌父向歷四縣令,年老致仕,悌每得父書,常灑掃,整衣服,更設几筵,舒書其上,拜跪讀之,每句應諾,畢,復再拜。若父有疾耗之問至,則臨書垂涕,聲語哽咽。父以壽終,悌飲漿不入口五日。權為作布衣一襲,皆摩絮著之,強令悌釋服。悌雖以公議自割,猶以不見父喪,常畫壁作棺柩象,設神座於下,每對之哭泣,服未闋而卒。悌四子:彥、禮、謙、祕。秘,晉交州刺史。祕子衆,尚書僕射。」顧徽や顧悌など大幅に削除されているのがわかる。

(※2)『呉志』附顧譚伝裴注「吳書曰:譚初踐官府,上疏陳事,權輟食稱善,以為過於徐詳。雅性高亮,不脩意氣,或以此望之。然權鑒其能,見待甚隆,數蒙賞賜,特見召請。」この内容は『呉志』には見られない。顧徽らとは異なり『呉志』に伝はあるものの記述の編集はされているようである。

(※3)清の洪飴孫『三國職官表』では奮威将軍を定員一名とする。これに準ずるならば、芍陂の役(241年)の論功行賞で顧承が奮威将軍になった場合、張承が244年に没するまで二人の奮威将軍が同時期に存在していたことになる。定員一名を前提とするならば、やはり顧承は「奮武将軍」と考えた方が筋は通る。ただし、諸葛融と陸抗もまた同時期に奮威将軍だったと思われることから、呉において奮威将軍が定員一名であったかはいまいち判然としない。(諸葛融は孫権が薨ずると奮威将軍になった。陸抗は建興元年に奮威将軍となった。どちらも252年である)

(※4)正史『三国志』が書写されていく中どこかの時代で奮威将軍と書かれた、もしくは『呉書』の時点で間違えられていたなどの可能性もあるだろう。




参考文献:
洪飴孫『三國職官表』
永田 拓治「漢晋期における「家伝」の流行と先賢」東洋学報 : 東洋文庫和文紀要 94(3), 233-266, 2012-12
永田 拓治「『汝南先賢傳』の編纂について」立命館文學 (619), 352-367, 2010-12
学研『漢字源』

テキスト引用及び確認元:
漢籍電子文献資料庫
中国哲学書電子化計画
寒泉
維基文庫



余談:
正史『三国志』の記述で顧承が「奮武将軍」だったと推測できる可能性ならあったかもしれない。
芍陂の役の論功行賞で張休・顧承と因縁があるのは全緒・全端だ。この全緒は裴注『呉書』によると揚武将軍になったらしい。
かの論功行賞で全緒・全端は偏・稗将軍になっただけと書かれる以上、全緒が揚武将軍になったのはそれ以降のことであり、なおかつ孫亮即位により鎮北将軍に遷ったことからそれ以前のことと時期を絞り込める。すなわち240年半ば~252年のどこかで揚武将軍となったのだ。
これは張休と顧承が全氏一族と対立して失脚した時期と重なる。
全緒がなった揚武将軍が、あの論功行賞で張休が拝した将軍号と同じものなのははたして偶然だろうか?
もし全端に「奮武将軍」になったという記述が『呉志』等にあったなら、それを顧承が「奮武将軍」であったことの裏付けと見ることもできたかもしれないが、残念ながら全端については詳細が不明である。

2019年6月10日 (月)

時系列と姚信のこと

1.姚信のこと
『呉志』陸遜伝には「而遜外生顧譚、顧承、姚信,並以親附太子,枉見流徙。」とある。
顧譚と顧承については顧雍伝に詳細が記されているがそこに姚信の名は見られず、他の伝を見ても彼の具体的な行動については記されていない。
姚信はなぜ南方へ流されることになったのだろうか。

はじめは論功行賞問題に姚信は無関係として楊穆と同時期に流されたのではないかと漠然と考えた。しかしそれでは孫権の陸抗や陸胤らへの対処の違いに説明がつかない。また近頃は陸遜が全琮に書を送ったのは論功行賞問題が関係していると考えるようになったこともあり、姚信は顧譚らと共に流されたとする方が陸遜伝の書き方を見ても筋が通ると認識を改めた。

姚信は、顧譚と共に張休・顧承を弁護した。これが原因で彼らと流されたのではないだろうか。

顧雍伝注引『呉録』と『江表伝』の記述には異同があり、前者に書いてあることが後者にはなく、後者に書いてあることが前者にはない。このため両書の記述が同じ時系列の出来事であるかは断定できず、それぞれを鵜呑みにするのは避けたいところではあるのだが、その上で考えられるのは、顧譚は二人のために弁明しようとしたという可能性だろうか。(※1)

そんな顧譚と意を同じくして張休や顧承のために抗弁したのが姚信だったのではないか。

姚信が陸遜の姉妹の子だとすれば、顧譚と顧承は彼にとって血を分けた従兄弟だったから。後年、一人だけ生き残った姚信はどんな思いで故郷の地を踏んだのだろう。

 

2.時系列
以前から述べている通り、陸氏・顧氏が全氏と敵対したのは芍陂の役の論功行賞問題に端を発する。
この問題により顧譚、顧承、姚信が配流された結果、陸遜が全琮父子に不満を抱くこととなった。陸遜が全琮に手紙を送ったのもこれが原因だろう。甥が三人も流されたというのに果たして何も感じずにいられるだろうか?
陸遜と全琮の仲違いは太子派と魯王派というスタンスがきっかけではないのである。

時系列としてはまず孫権が次期外戚として張氏を厚遇したことに全氏が反発し、その過程で太子孫和との間にも亀裂が走った。このまま孫和が皇帝となるのはまずいとして保身に走った全氏が魯王につく。そして、全氏の行動により太子や張氏に不信感を抱いた孫権は、自分が死ぬ前に現太子とその外戚を排除し、全氏に重きを置いた新たな政権を立てようとした。その一歩として張休を処罰したのである。
ここで顧譚・姚信が張休たちを庇った。彼らの姿勢は全氏を中心とする新政権への敵対行為と見なされ排除されたのだろう。

後継者問題に火がついたのは、孫権が魯王についた全琮父子の言をいれて太子の外戚である張休を排斥したことが影響したと思われる。

ところで、全氏に傾いた孫権がその全氏と対立した陸氏(陸遜)をそのままにしておくだろうか? すでに全氏のために顧氏を排斥した結果を出した以上は後戻りできたとは思えない。

楊竺が告発したという「遜二十事」が本当に楊竺の手によるものなのかも気になるところだ。実際に「遜二十事」で行動したのは楊竺ではなく孫権だからである。


(※1)『呉録』の記述について、信憑性は問わず私見を書く。

張休が投獄された状況と、投獄されていない状況とでは、顧譚の心境に与える影響はまったく異なる。彼の弟も張休と同じ理由で誣告の対象とされていたからだ。顧譚とて、張休が投獄されていなければもっと冷静に対応できたかもしれない。だが状況はそうではなかったのである。顧譚に孫権の心の中を読み取れというのは無茶な話であって、このとき彼に認識できたのは張休が繋獄されたという事実だけなのだ。どうにかしなければ張休や弟が殺されると焦りを抱いていたとしても何らおかしくはないだろう。ましてや顧譚には、丞相であった祖父の顧雍が呂壱によって処罰されかけた経験があるのだから(顧雍伝、潘濬伝)。そうしたことを無視して、まるですべて顧譚が悪いのだと断罪するような残酷な意見にはまったく賛同できない。


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ターゲットは顧譚ではなく張休

2018年12月15日 (土)

全氏のターゲットは顧譚ではなく張休

この記事は、顧譚の太子と魯王に関する上疏は二人が同じ宮殿に住んでいた時の群公の議(『呉志』孫和伝注引『通語』)であり、当時対立していたのは全寄というよりも全琮をはじめとした全氏一族という考えを前提に書いています。

(『呉志』張昭伝附張休伝)
為魯王霸友黨所譖,與顧譚、承俱以芍陂論功事,休、承與典軍陳恂通情,詐增其伐,並徙交州。

張昭伝には張休について、「芍陂の役の論功行賞問題で魯王派から讒訴され交州にうつされることになった」とある。
一見、顛末がしっかり記されているように見えるが、なぜ讒訴されるに至ったかの経緯が書かれていない。そのいきさつと思われる説明は、張昭伝の後に続く顧雍伝に詳細な記述がなされている。

(『呉志』顧雍伝附顧譚伝)
…由是霸與譚有隙。時長公主壻衞將軍全琮子寄為霸賓客,寄素傾邪,譚所不納。先是,譚弟承與張休俱北征壽春,全琮時為大都督,…(中略)…時論功行賞,以為駐敵之功大,退敵之功小,休、承並為雜號將軍,緒、端偏裨而已。寄父子益恨,共搆會譚。譚坐徙交州

それによると、顧譚が太子と王の待遇について上疏した結果魯王と不仲となり、さらに魯王の賓客となっていた全寄とも不仲で、芍陂の役の論功行賞のこともあってますます憎まれ、陥れられた顧譚は交州にうつされることになったというのである。

この記述を見る限り、一連の事件の主体は顧譚であるような印象を受ける。太子派である顧譚が魯王派と対立した結果として論功行賞の件で讒訴され張休は巻き添えをくった、という感じだ。
本来、芍陂の役に密接な関わりを持つのは顧譚よりも張休(と顧承)のはずだが、当該戦役について顧雍伝にその詳細が書かれ、前にある張昭伝で語られないのは、顧譚が主として魯王派(全氏一族)と対立したことが事件の発端だからという視点に立てば一応の納得はできる。

しかし、顧譚が擁護したという太子・孫和の伝を見ると、どうも事情が異なるように思われる。
理由は、孫和・王夫人母子と対立していたという全公主が行った讒言の対象には孫和・王夫人のみならず妃の実家も含まれているからである。
太子妃の実家とは張氏一族のことを指す。その張氏一族の人物として具体的に名前を挙げられたのがおそらく張休だった(孫和を出迎えたのは張休だから)。つまり、全公主は張休をも貶めているのである。

妃の実父である張承ではなく叔父の張休が対象とされたのは、張承はすでに死去していたためだろう。このことから、張休が全公主から讒言を受けたのは244年以降の出来事と想定できる。
そして、芍陂の役の論功行賞問題が起きた時期も『呉志』陸遜伝の記述や張休・顧譚らの享年から推測するに244年以降のことと考えられる。
要するに、そう離れていない期間に張休は全氏一族から内(全公主)からも外(全父子)からもやり玉にあげられているのである。
こうしたことから張休がただ巻き込まれただけとは思えない。むしろ、全氏一族のターゲットにされたのは張休だったのではという気さえしてくる。

全氏一族は連動して内外から張休(=張氏一族)を失脚させようと画策した。
孫和・王夫人のみならず張休(張氏一族)にも不信感を抱いた孫権はそれに便乗した。
全公主の讒言によって孫権は王夫人にきつく当たるようになり、孫和への寵愛も衰えた。こんな事態となっていたのに、同じく謗りを受けた張休及び張妃に対して、なぜ孫権が何もしなかったなどと考えられるだろう?
最終的に張休は孫権から死を賜ったことや、張休だけが獄に繋がれたという『呉録』の記述が孫権の意思を物語っているのである。


やっぱ張休なんすわ。
顧雍伝の「寄父子益恨,共搆會」は顧譚ではなく張休のことやったんや。

ところが、『呉志』(あるいは韋昭『呉書』)ではそうとせず顧譚を主体として事件の経緯を書こうとした。
本来は顧譚(と顧承)が巻き込まれた側=副であるところを主とするためには顧譚個人が魯王派から狙われる理由付けが必要となる。そのために顧譚が魯王・全寄と不仲だったということにされたのではないか。(※1)

そしてさらに、張昭伝に結末(=論功行賞問題で交州行き)が書かれ、続く顧雍伝に発端と経緯(=芍陂の役の詳細と論功行賞及び魯王派との関係)が書いてあれば、張休がああなったのは顧譚がこうなったからなのねと読んでしまえるわけで、意図的にそう誘導されているのではないかという考え。
張昭伝に張休が讒訴された理由を書かなかったのは誘導の一環であり、騒動が起きたのは顧譚に端を発するという印象を強めるためだったのだ。

ではなぜ張休がメインで狙われたのではなく顧譚に巻き込まれたという形にする必要があったのか。
孫権を導いた孫呉の超名臣・俺たちの張昭さんの家を孫権が潰そうとしたとは臣下筆頭として張昭が立伝される『呉志』には書けなかったからかも。特に張昭伝はやばやばのやばだったのかも。『呉録』にあるように張休だけ繋獄したくだりも『呉志』は記さない。これも同様の理由。
顧譚についてはあれこれ理由をつけて罰するのを避けた節があるのとは対照的に、流放するだけに留まらず賜死という形で確実に命を奪う方法をとっていることからして、孫権は張休に関しては明確な意思をもって排除するつもりだったのだろう。

孫権が張氏一族を積極的に潰そうとしたとするのがまずいのかもしれない。張休の賜死については孫権の判断だろうが、そのまま記すのを回避した結果、詔書を起草したと思われる中書令・孫弘(別族)の仕業という書き方になったのでは。(そうなると朱拠や諸葛恪も?)

顧雍伝に顧雍の孫の問題みたく書くのはいいのかよって話だが張昭伝よりはマシだったんじゃないすかね(テキトー)
顧承ではなく顧譚にした理由は、顧譚は重職にあったり上疏の件もあったりで色々と都合が良かったため?


(2019.9.24追記)(※1)もし、例の上疏が原因で魯王孫覇が顧譚を憎むようになったとするならば、直接的に魯王を外に出すよう主張した魯王傅の是儀とは険悪な関係になっていそうなものだが、是儀伝にはそのような記述は見られない。陸遜についても同様である。
(2020.5.2 わかりにくい文章の加筆修正)



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2018年8月16日 (木)

陸凱の讃

『初学記』に引く『呉先賢伝』の中に顧承の讃がある。『呉先賢伝』は陸凱の書なので、陸凱が顧承の讃を書いたということになる。

『初学記』巻十七

《吳先賢傳 奮武將軍顧承贊》曰:于鑠奮武,奕奕全德;在家必聞,鴻飛高陟。

維基文庫より引用

現在残っている逸文を見てみると、顧承のことを奮武将軍と呼んでおり、『呉志』がいう奮威将軍とは異なる。これに関しては陸遜の荊州牧みたいな例もあるので『呉先賢伝』の間違いとは言い切れない。

※陸遜は、陸雲の誄や建康実録では郢州牧とされている。→建康実録の陸遜

顧承の他には揚州別駕從事だった戴矯や上虞令史胄という人物の讃もあるようなのだが、戴氏と聞いて思い浮かぶのは戴若思の一族。だが彼は広陵の人だという。陸凱の弟・陸胤に『広州先賢伝』という書があるのを見るに、『呉先賢伝』の呉とは国ではなく地域(おそらく呉郡)を指すのではと思うので、呉郡の戴氏がいたのかもしれない。

少し気になるのはどこかの過程で張承と顧承を間違えたわけじゃないよなという点なんだけど、張承は呉郡の人じゃないし、『呉録』にも子黙・子直(なぜか字表記)の評判は当時すごかったぜ!みたいに書いてあるし、陸凱が顧氏の人物を称えるのはおかしなことじゃないし、そう警戒しなくても大丈夫かな。
実は違う顧承の可能性もなくはないけれど、陸凱が生きていた時代に存在し将軍号を得た呉の顧承は子直であると考えて良いと思う。

顧承は残っている記録が少ないからこういうのを見つけると安心(?)する。生きとったんやな…。

2018年8月 2日 (木)

顧栄&譚

『太平御覧』に引く『晋書』の顧栄についての説明に「少有珪璋」という文言があって、『顧譚別伝』でも同じような言い回しで顧譚のことが説明されていたことを思い出した(「有圭璋」)。

『太平御覧』巻三百八十九 人事部三十

《顧譚別傳》曰:譚字子嘿,吳人。常慕賈誼之爲人,身長七尺八寸,少言笑,容貌矜整,有圭璋,威重,未常失色于物。非其人,或終日不言。

維基文庫より引用
『太平御覧』巻二百二十一 職官部十九

《晋書》曰︰顧榮,少有珪璋,符采朗澈,仕吳,弱冠舉賢良,爲黃門侍郎。當時後進盡相推謝,稱榮有天才令望。

維基文庫より引用。文字化け部分は中國哲學書電子化計劃を参考に補った。

表現として珍しい言葉ではないのだろうけど、従兄弟である二人のちょっとした共通点を発見して面白かった。
辞書を引くと「人柄の上品なことのたとえ」と出てくる。二人のイメージとして何となくわかる気がする。
顧栄はもちろん顧譚も杓子定規なイメージはあまりなくて、理由は親の服喪に関する意見や太子と王に関する上疏などを読んだときになるべく損をする人が出ないように考えてるのかもという印象を抱いたから。

2018年7月29日 (日)

宣太子の元四友

顧譚と張休は共に孫登の四友となって以来の付き合いで、四友は同じ場所で眠るなど、皆親しく交わったと記されている。
おおよそ20年近く交流が続いた友人同士であったのだろう。
それゆえ顧譚にとっては弟・顧承の問題にとどまらず、付き合いの長い友人・張休の問題でもあると認識されたのだ。だから、弟だけを許されたところでそれでよしとは顧譚には思えなかったのである。



前の記事で書いた陸機作顧譚伝について、陸機にとって顧譚は伝を作るにあたり情報を集めやすい人物だったのかもなーと思った。
顧栄(や彼の父親)をはじめ、もしかしたら実父・陸抗からも何か聞いていたかもしれない。と思うとわくわくするな。
陸機作顧譚伝の全文が発見されないかな。

2018年7月20日 (金)

裴注譚伝

陸機の顧譚伝が『呉志』顧雍伝附顧譚伝の裴注に引かれている。
陸機が作った顧譚関係の作品としてはもう一つ「呉太常顧譚誄」なるものが10文字そこらの一部分のみ残っているようだけど、漢詩が読めない私の印象で言うと、キラキラごてごてした文章じゃないので誄じゃなくて陸機作顧譚伝の一部なんじゃないかという感じがする。ただ、顧譚誄に序などがあってそこから引用された可能性もあるので何とも言えない。陸機は呉の人たちの誄を他にも残しているから顧譚のためにだって作っていても不思議ではないし。

この顧譚伝は陸機が作ろうとしていた呉書の一部なのか、それとも別個の、顧譚のために書いた私的なものなのか、どうなんだろうなあ。裴注に出てくる陸機が書いた○○伝は顧譚のだけというのも気になる。
個人的に後者なら面白いと思う。顧譚は陸遜の外甥で陸抗とは従兄弟関係だから陸機にとってもわりと近い親戚だし、姉の夫である顧栄も顧譚とは従兄弟だし、筆を執っても不思議じゃない気がする。(名誉回復的な意図もあるかもしれない?)

それと顧譚は『顧譚別伝』というものが逸文で残されているけど、これは陸機作顧譚伝と異なる作者によるものなのかな。いろいろ書いてもらえて良かったな~こたんたん!