05:陸氏関連

2019年7月 9日 (火)

笑い上戸

陸雲の「笑疾」についてだが、陸雲は極度の笑い上戸だったのかもしれない。
なぜそう思うのかというと、私自身が笑い上戸なので思い当たる節があるからだ。自分の経験の中で最も性質の悪い笑いのパターンを挙げると、まったく笑う要素がないのにツボに入ってしまい、一度笑い出すと自分では止められないのでお腹が痛いのと呼吸が整えられない状態がずっと続き、それでも笑いがおさまらず、ガチの苦しさのあまりその場にうずくまる

文章だとわかりにくいし冗談のような話だけど真面目にきつくて笑いごとじゃない。笑ってるけど。
自分がこんなだから、陸雲の笑疾にまつわるエピソードは「あ~、あんな感じかな?」と想像しやすかったりする。
陸雲がこうした笑い上戸だったかはわからないし、理由はそれぞれ異なるかもしれないが、なぜか笑いが止まらなくなる人は実際にいるんだよと。
なので、笑疾の逸話を陸雲自身の人格に結び付けて問題があるのではという見方をするのにはなかなか頷き難いものがある。

おもしろエピソードを他人に話そうとするも思い出し笑いが止まらず結局話せないという厄介な現象も笑い上戸あるあるだと思う。陸雲もそういうことがあったかもしれない。
陸雲「この前おもしろいことがあったんです。実はwww士光がwwwwww」
陸機「…………」

2019年5月14日 (火)

陸氏は孫和を支持しなかった説

諸葛恪誅殺に関する記述や孫亮の鼠の話は複数の文献から引用されているため、『呉録』や『呉歴』、『江表伝』の記述に他との異同があることがわかる。
しかし、一つの史料のみに見られる記述については、他の史書との内容の比較ができない。

 

(陸凱伝注引『呉録』)
太子自懼黜廢,而魯王覬覦益甚。權時見楊竺,辟左右而論霸之才,竺深述霸有文武英姿,宜為嫡嗣,於是權乃許立焉。有給使伏于牀下,具聞之,以告太子。胤當至武昌,往辭太子。太子不見,而微服至其車上,與共密議,欲令陸遜表諫。既而遜有表極諫,權疑竺泄之,竺辭不服。權使竺出尋其由,竺白頃惟胤西行,必其所道。又遣問遜何由知之,遜言胤所述。召胤考問,胤為太子隱曰:「楊竺向臣道之。」遂共為獄。竺不勝痛毒,服是所道。初權疑竺泄之,及服,以為果然,乃斬竺。


上記の記述はその一つである。

他の史書との比較検討ができないため、この『呉録』の記述だけを見た上で気になる点を挙げてみる。

この記述について最も気になるのは、陸胤が孫和からどの程度の情報を与えられたかという点である。
『呉録』がいうには、孫権と楊竺の密談を聞いた給使が孫和に情報を伝え、恐れた孫和は人目につかないよう陸胤の元へ行き、ともに密議して、陸遜に止めてもらおうという話になったという。
これを見ると、陸胤は孫和からすべての事情を知らされたようにも受け取れる。
しかしそうすると、その後の陸胤の行動が不自然に感じる。相当な用心をしている孫和と比べて、陸胤はあまりにも警戒心が薄いように見えるのだ。

この一件で陸胤が生き延びたのはただの僥倖だった。
楊竺が嘘の自供をしたのは結果としてそうなっただけであって、それより先に陸胤が死んでいたかもしれないし、二人揃って殺される可能性もあった。たとえ釈放されたとしても、傷が原因で死んでいたかもしれない。陸胤は運良く助かったに過ぎず、はっきりと言えば死ぬ確率の方が高かった。
陸遜に諌止するよう伝えた陸胤は、その行動の結果、自分や陸遜が罪に問われることを予想していなかったのだろうか?

もしかすると陸胤は、孫和の情報が孫権と楊竺の密談を盗み聞きしたものだとは知らされていなかった、という可能性があるのではないか。
その可能性について考えてみたい。

『呉録』では、陸遜に諌止してもらうという話になったのは武昌に向かう陸胤の車上でとなっている。
陸胤の武昌行きは以前から予定されていたことであり、諌止の件はこの車上で決まった副次的な理由だったのだろう。
これから
都を離れてしまう陸胤に、なぜ孫和はリスクをおかしてまで会いに行く必要があったのか。

陸胤を通して陸遜を動かそうと考えていたからではないかと思われる。

つまり、陸胤と協議した結果陸遜に諌止してもらう結論になったのではなく、孫和ははじめから陸遜に諌止させるつもりだった。だから、武昌に行こうとする陸胤に微服してまで会いに行き話を持ちかけたのである。
こう考えると、このときの孫和の注意深さも腑に落ちる。彼は人前で陸胤に見えることをせず、その車上に赴く際も微服して細心の注意を払っている。すべての事情を知っている孫和は、自分の情報によってなされるであろう陸遜の諌止という行動と自身を結びつける要素を出来る限り取り除いておきたかったのだろう。

これから武昌に行く陸胤には情報収集をする時間はなかったろうから、孫和の情報をそのまま西へ運んだはずだが、問題なのは孫和が陸胤にどこまで話したかである。
切羽詰まっていたであろう孫和はどうにかして陸遜に動いてもらいたかったに違いない。孫権が孫覇を立てるのを許したと聞き、窮地に立たされた孫和は、孫権を止めるにはどうすればいいか、誰なら止められるかを考えたはずである。そうして考えた末に陸遜を頼みの綱としたのだ。

しかし、もし情報の出所も含めてすべての事情を説明したならば、警戒して動いてくれない可能性も考えられた。それは崖っぷちに立った孫和にとって非常にまずい。
そのために孫和は、どういう経緯で知ったのかは伏せた上で陸胤を説得した という風にも考えることができるのである。

孫和としては太子を変えることを止めてくれさえすれば良いのだから、ひょっとしたら孫権の存在は伏せて、楊竺の名前くらいしか出さなかったかもしれない。
肝心の『呉録』は陸遜が極諫したと記すも実際の上表文は引用しておらず、どんな内容であったかを知ることはできない。そのため内容は想像するしかないのだが、もし仮に「魯王が太子になるのではないかという噂が流れているようですが」くらいの触れ方であったとしても、”孫覇を”嫡嗣とする意思を楊竺との密談以外で示したことがなければ、孫権は楊竺が情報を漏らしたのではないかと疑ってもおかしくはないのである。

陸胤は召されて考問される事態となって初めてまずいものを掴まされたと察したのだろう。自身が考問を受けた時点で、孫和の名を出せば事態がかなり厄介なことになる想像はできたはずである。楊竺の名前を出したのは、孫和から楊竺の動きについては聞かされていたからで、孫和の名前を出すことはできなかったため、咄嗟に名前を出してしまったのだろう。事情を把握していなかったとすれば陸胤も相当混乱したに違いない。

 

(陸凱伝附陸胤伝)
會全寄、楊竺等阿附魯王霸,與和分爭,陰相譖搆,胤坐收下獄,楚毒備至,終無他辭。

 

廃嫡を懼れて情報を漏らしたのは、孫和である。陸胤は経緯を知らなかったにも関わらず犯人として捕らわれたが、孫和が漏らしたのだとは一切口にしなかった。ゆえに、他言なし、と。

陸遜や陸胤が被害を受ける事態は孫和としても予想外だったかもしれない。孫権の決定を聞いた上で陸遜に頼ろうという発想になる孫和であるから、孫権が陸遜らにああ出るとは思ってもみなかったのではないか。陸遜が止めれば孫権も考え直すかもと期待しての孫和の行動であろうから。

また、孫和が人目につかないように動いたのは、陸遜らの行動に自分が関わっていることを知られたくなかったのもあるだろうが、そのほかにも以前、全公主から讒言されたのを鑑みて警戒するようになったのだとも思える。
給使から話を聞いてかなり動揺しただろうし、どうにかしなければという焦りも相当あっただろう。孫権の子供同士で貶め合う状況の中、藁にも縋る思いで行動していたのかもしれない。

ともあれ、結果的に孫和は陸氏を騙して利用する形となってしまった。

陸胤が孫和としっかり情報共有した上で行動した場合と、陸胤が孫和から正しい情報を与えられないまま行動した場合に違いはあるかというと、あると思う。
陸胤が生き延びたことによって、一連の出来事が彼の口から一族内に共有されることとなった。陸氏視点では、孫和はひとまず窮地を免れたかもしれないが、こちらは相当なダメージを負わされたと感じていたとしても不思議ではない。何しろ陸遜が亡くなってしまったので。
仮に陸胤自身は己の失態であると納得したとしても、はたして親族は同じ心境になれただろうか。

後年、孫和が廃嫡されることになると多くの人が反対した。
例として同郷出身者の名を挙げるならば、朱拠、張純(顧悌も?)などが廃嫡に反対したという。ところが、陸遜の死後、後継者問題に関する陸氏の動きは史書に一切確認できない。

あの事件があったため下手に動けなかったというのもあるだろう。中央から外されていたからというのも考えられるかもしれない。
ただ陸氏には、他家とは異なり、孫和個人を積極的に支持しない理由があったのかもしれない、ということである。


関連記事:
二宮の変の太子派について
陸遜と吾粲の行動について


2018年10月 2日 (火)

陸遜の娘=陸抗の姉妹

陸雲の「歳暮賦」という作品には姉と並んで姑という言葉が出てくる。これが姑(おば)=父親の姉妹を指すとすると、陸抗には姉か妹がいたことになる。

この「歳暮賦」は、序に永寧2年(302年)とあるためそれ以降の作と推測されるらしい。さらに故郷を離れてから6年経ったこと・姑と姉が亡くなったことが書いてあるそう。6年の間に2人が亡くなったということなのかな。
わからないが、とりあえずそう仮定すると、翌303年には陸雲自身が…なので、姑が亡くなった時期はさかのぼっても298年がギリギリのラインか。陸抗の生年226年を基準にすると298年時点で72歳。
それを考えると、どちらかというと妹かもしれない。同じ陸氏一族の陸凱や陸曄の享年が70歳代であることを見れば長命な姉の可能性もあるけども。
詳しいことは他の史料でも見つからない限り知りようもないが、陸抗と同母の姉妹だったら面白いね。

陸抗の姉妹ということは当然、陸遜の娘ということになる。
仮に陸抗の妹だとすると、陸遜死去時の年齢は、陸抗が19歳だったためそれより下の最高18歳。娘が当時ある程度長じていたとすれば、陸遜存命中に嫁いだ可能性ありだ。

気になるのはその嫁ぎ先だが、顧氏、張氏、姚氏といった土着の豪族かもしれないし、陸抗が張承の娘を娶った例からして呉朝の有力人士の子弟かもしれない。
もし陸抗が張承の娘を娶ったのと同時期に娘も嫁いだのだとしたら、張承周辺の誰かの妻となったと考えることもできるやも。
詳しいことは史料でも見つからない限り(略)


「歳暮賦」に姑と一緒に出てくる姉は”伯姉”と書かれている。一番上のお姉ちゃん=陸抗の長女という意味かな。顧栄の妻は何女だったんだろう。
それにしても、陸機も陸雲も親兄弟をはじめ親族に関する作品を残しているあたり仲が良かったんだろうな。姑も陸雲に慕われていたからこそ姉と共に死を嘆かれたのだと思うし。
陸遜と陸瑁なんて『呉志』陸瑁伝に陸遜の弟と書かれていなければ兄弟なのかもわからないレベルだからたまに自分の中で疎遠疑惑が浮上しかけるけど、子孫が親しいのを見るにまあこの二人も普通に(?)兄弟やってたんだろう。同じ行動をとってたりするし。兄ちゃんは西からやるからお前は東からやるんやで弟よというやりとりがあったのかもしれない。

とにかく二陸のおかげで史書ではわからない情報の一片を知れるのはありがたい。特に女性に関しては書かれないことの方が多いだろうが、姻戚関係が事件の重要な鍵であるケースも多々あるのだから、断片的にでも娘や姉妹の存在を掴めるのは大変に有用だ。持つべきものは優秀な子孫なんだなあ。



参考文献:
劉運好『陸士龍文集校注』鳳凰出版社,2010.


2018年7月31日 (火)

陸雲「与平原書」

陸雲の手紙に出てくる人名をまとめようかと思うけど、その人たちの事跡を辿るのは難しそうだなあ。
「与朱光録書」の朱光録候補である朱誕については前に書いたけどそれ以外の人物はどんなもんだろう。(→朱誕、字は永長

気になるのは顧令文(おそらく顧栄より目上の人)、公然(おそらく陸曄より目下の人)、陸典(手紙の内容の印象だと陸氏の中でも陸雲に近い立場の人な気がする)あたりなので何かしら史料に痕跡が残っていないものかな。

戴淵と二陸なんかも『世説新語』の逸話だけだとあまりにドラマチックだけども、手紙に「若思が最近しょんぼりしてる」なんて出てくるあたり本当にちゃんと接点があったんだなあと実感するから面白いね。

2018年7月20日 (金)

二陸の作品で気になるやつ

人名が出てくるもの。

 

 

<陸士衡文集>
愍思賦 …同生姉という言葉が出てくる。陸機の姉、陸抗の娘。
贈尚書郎顧彦先 …顧栄。顧雍の孫。陸機の姉の夫。
贈顧交趾公眞 …顧秘。
贈従兄車騎 …陸曄。陸瑁の孫。陸機のはとこ。
答張士然詩 …張悛。呉郡の人。親交があった。
贈馮文羆 …馮熊。同僚。
答潘尼 …潘尼。同僚。
贈潘尼
贈紀士
為陸思遠婦作
為顧彦先贈婦 …顧栄
為周夫人贈車騎 …陸曄?陸曄の妻は周氏?
吊蔡邕文
呉大帝誄 …孫権
呉貞献處士陸君誄 …陸玄?
呉丞相江陵侯陸公誄 …陸遜
呉大司馬陸公誄 …陸抗
晋劉處士參妻王氏夫人誄
呉大司馬陸公少女哀辭 …陸抗の娘。
贈顧令文為宜春令 …顧令文。陸雲の「与平原書」にも名前が出てくる。顧栄の兄か従兄?
贈武昌太守夏少明詩
贈斥丘令馮文羆詩 …馮熊
贈顧彦先詩 …顧栄
為顧彦先作詩 …顧栄
贈潘正叔 …潘尼
贈潘尼
贈馮文羆詩 …馮熊
贈顧尚書及征西大將軍詩
策問秀才紀瞻 …紀瞻。親交があった。陸機の遺児の面倒をみてくれたらしい。
贈潘岳詩
薦賀循郭訥表 …賀循。会稽の彦先。
與趙王倫牋進戴淵 …戴淵。若思。親交があった。陸機とのハートフルストーリーが『世説新語』にある。
薦張暢表 …張暢。
顧譚傳 …『呉志』裴注に引くあれ。
呉太常顧譚誄 …逸文。誄じゃなく↑の顧譚伝の一部かもしれない?
與長沙顧母書 …陸機の従祖弟・士璜という人物がいたらしい。その母が顧氏。いつもの顧陸。
與長沙夫人書
孫権誄
[田比]陵侯君誄
父誄
姊誄
呉丞相陸遜銘





<陸士龍文集>
歳暮賦 …姑(と姉)という言葉が出てくる。陸遜の娘で、陸抗の姉妹?
贈顧驃騎二首
従事中郎張彦明爲中護軍
贈汲郡太守
贈顧彦先 …顧栄
答顧秀才
答大將軍祭酒顧令文 …顧令文。「与平原書」にも顧栄と並んで名前が出ている。
答呉王上將軍顧處微
贈鄱陽府君張仲庸
答孫顯世 …孫丞。親交があった。陸兄弟と共に殺された。『文館詞林』に孫丞から陸雲へ贈った詩がある。
贈鄭曼季
爲顧彦先贈婦往返 …顧栄
答張士然 …張悛。陸機も同じ人に詩を贈っている。
呉故丞相陸公誄 …陸遜
晋故散騎常侍陸府君誄 …陸喜。陸瑁の子。
晋故豫章内史夏府君誄
張二侯頌 …張昭と張承。
與朱光禄書 …朱誕?朱誕は字を永長、呉郡の人。
與張光禄書 …張華。上洛後お世話になっていた。
與厳宛陵書 …厳隠?字は仲弼、呉郡の人。
與戴季甫書
與楊彦明書
與陸典書書 …同族の目上の人っぽい。
答車茂安書 …車永
弔陳永長書
弔陳伯華書
移書太常府薦張瞻 …張瞻。呉郡の人?
贈顧彦先詩 …顧栄

 

 

 

 

抜けがあるので後々追記予定。

 

顧栄に贈った詩が多いのは、共に上洛した身内で、数少ない心許せる相手だったからかななどと考えるとなんとも言えない気持ちになるな。

(2018.7.22追記)

2008年9月17日 (水)

陸景と陸機と陸曄

中国のサイトに「陸景・陸機・陸曄は三虎と呼ばれていた」と書いてあった。出典は何だろう?(陸曄は陸瑁の孫で陸英の息子。字は士光)

陸景は250年生まれで陸機は261年生まれ。
陸曄はというと、『晋書』本伝には74歳で死去したとあり、成帝紀には「(咸和九年=334年)九月戊寅,散騎常侍、衛将軍、江陵公陸曄卒。」と記されているので、逆算すると261年生まれということになる。陸機と同い年。
陸景については詳しくわからないが、後の二人については陸機が陸曄を褒めていたと陸曄伝には書かれている。また、陸機の作品「贈従兄車騎」の従兄車騎とは陸曄を指すと言われている。仲良かったのかな。

彼らや陸抗・陸喜などを見ていて常々思うのは、陸遜と陸瑁の関係はどうだったんだろうということ。処世は異なっているものの仲が悪いというわけではなさそうだというのが今のところの印象。

2008年6月16日 (月)

陸延

陸延はいつ頃亡くなったんだろう。
これといった確証はないが、陸延が夭折してから陸抗が誕生するまでの期間が長く空いている可能性はあまり考えていない。もしその期間が長かったならば、その間に養子をもらっていそうな気がするからだ。
次男の陸抗が生まれたときの陸遜は44歳というそれなりの年齢であるから尚更。子孫を絶やすのは当時の価値観だとまずいんだろうし。

陸遜の場合は弟の陸瑁に男児が多いので、彼の子を養子にするのはありえそう。
陸瑁の息子たちの生年は不明のため陸抗より先に生まれたとは断言できないが、少なくとも次男の陸喜は陸凱の上表文の書かれ方からして陸抗より年長と考えることはできるんじゃないかな。陸英は微妙だけど陸抗より年長と考えられないでもない。

諸葛亮や司馬師も兄弟の男児を養子にしているし、鍾会も兄の子を養っていたような記述がある。なので、陸延が死去したのは陸抗誕生のずっと前とは現時点では考えないかなー。

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(08.06.18追記)

陸英が陸抗よりも年長かなと思った理由は以下の通り。

『新唐書』の表に、陸瑁には滂、喜、穎、英、偉、顏の六子がいたと書かれている。信憑性の程はわからないが、ここではこれを前提として考える。

陸瑁の息子の一人・
陸英については『晋書』陸曄伝にわずかな記述が残されるのみであるが、『新唐書』によると字は季子というらしい。
季の字を見て思い出すのは、「伯・仲・叔・季」という兄弟順を表す字の付け方だ。

この「伯・仲・叔・季」は長男・次男・三男・四男を表すものと思っていたのだけど、父方のいとこも兄弟同等の扱いをするとかで、その法則がきっちり当てはまるわけではないそうだ(→参考サイト )(2019.7.9現在はリンク切れ)。
張昭の子の張承が“”嗣なのはそのためか? それから“”は末っ子という意味もあるようで、「字に季がついてるから四男だ」となるわけでもないもよう。

陸瑁の息子たちの場合はどうだろう。
『新唐書』で陸瑁の子として二番目に名を挙げられる陸喜は『呉志』陸瑁伝裴注『呉録』に陸瑁の第二子と記される。この陸喜の字は恭(文)である。

そして、という字をもつ陸英は『新唐書』では陸瑁の息子として四番目に書かれている。書かれた名前の順番がそのまま兄弟順を意味するかについては疑問があるが、素直に受け取っていいのなら陸英は四男で、その下に弟と思しき者の名が続くことから末子ではないことになろう。

二子陸喜の字と四子(仮)陸英の字を並べてみるに、陸瑁の息子たちの場合は兄妹順に「伯・仲・叔・季」の文字がストレートにあてはめられたパターンと考えられそうである。

そこでふと、陸抗の字の“”の字も出生順を表すものなのだろうかと気になった。
幼というのも「伯・仲・叔・季」に続いてよく用いられる一字のようで、たとえば夏侯淵の息子は次男から仲権・叔権・季権ときて五男は幼権。五人兄弟で馬良(季常)の弟である馬謖の字も幼常。八人兄弟の司馬懿(仲達)の弟にも幼達という人物がいる(この人は五男じゃないのか)。

こうした例を見て、も同じパターンで“”の字が使われているのではないかと思った。
先に述べたように父方のいとこも兄弟同等の扱いをするというのが陸遜・陸瑁の息子たちにも当てはまるのなら、字の付け方から陸抗は父方のいとこの陸英より年少、つまり先には生まれていないと考えることが可能となるわけだ。

以上が陸英は陸抗より年長と考えられないでもないと書いた理由。陸英の字を知ってから即座に妄想したので粗がすごいのは見逃して。
ちなみにこの妄想は、陸延の字の有無はまるっきり無視している。陸延に字はあったのか、つける前に死去したのかはわからない。そもそも字は何歳でつけるんだろう。


(2019.7.9 わかりにくい部分を加筆修正)

2008年5月11日 (日)

陸雲の書簡

陸雲の書簡には当時活躍していた人物の名がちらほら出てくる。
彦先(顧栄)、士光(陸曄)、若思・望之(戴淵・戴バク)、ケイ紹など諸々。「このまえ彦先と会ったよ」とか「若思が落ち込んでいたよ」など当時の彼らの息遣いが聞こえてくるようで面白い。

兄・陸機への書簡「与平原書」では曹操も話題にのぼるが、読んでみると二陸は曹操に好意的なんだなあと感じる。
二陸と曹操といえば、陸機が「弔魏武帝文」を書いたりしている。どうも「弔魏武帝文」については、晋朝に迎合するために曹操を矮小化して書いているという説もあるらしい。たとえそうした偏向があったのだとしても、陸機個人としてはやはり曹操を尊敬していたのではないかなあ、そうだと面白いなあと思う。陸雲が陸機へ送ったという曹操のつまようじも大切に保管していたに違いない。


2008年2月11日 (月)

機雲兄弟と祖父

佐藤利行先生が『晋書』にある唐太宗の二陸評を訳しておられたので読んだ。
読後に様々な感情がない交ぜになるという、萌え的に悶絶ものの評だった。この萌えを共有したいがために、先生の訳を以下に引用させていただきます。

 


佐藤利行『陸雲研究』白帝社、1990年、p.75~76

 

「機・雲の行動を見るに、智は口ほどではなく、その文章の訓戒を見るに、なんと知るは易く行うは難きことか。(機・雲)みずからは、智は時勢を安定させるに十分であり、才は天命を補佐するに十分であり、名誉ある地位を保持し、先祖の基礎を恥ずかしめることのないようにと思っていた。(しかし)世は行きづまり、命運はまさに否に当たっていることがわからず、進んでは暗闇を切り開いて混乱を正すこともできず、退いては己の身を隠して生命を全うすることもできなかった。そうして滅びんとする国で力を奮い、凡庸な君主に心を尽くし、忠実な心を抱いても信じられず、無実の謗りによって疑われてしまった。」

 


「伯言謇謇,以道佐世。出能勤功,入亦獻替。謀寧社稷,解紛挫鋭。正以招疑,忠而獲戻。」


「陸遜はひたむきに道によって世に貢献しようとした。外に出ては勲功を挙げ、内に在っては、可否を進言した。国家安寧の計を考え、紛糾せる難問に身を挺した。正直でありながら疑われ、忠誠でありながら罪せられた。」

竹田晃『新釈漢文大系<83>文選 文章篇 中巻』明治書院、1998年、p.631

 

下に載せたのは東晋の袁宏による陸遜評(竹田晃先生訳)。
太宗の二陸評を読んだ時、この二つの評がなんとなく似ているような気がしたので、先生方の訳を引用させていただき並べてみた。

『晋書』陸雲伝を読むと、陸雲も兄と同じくらい危なっかしい人だと感じる。司馬晏や司馬潁を諫めることが多かったというのも、彼の実直さゆえのものだと思うけれど、読んでいてヒヤヒヤするんだよなあ~(^ ^;
郷党に憚られたという兄に比べたら穏やかそうなイメージのある陸雲も、やはり陸遜の孫なんだなと思う。
陸遜が晋に仕えていたら、あるいは陸雲が呉に仕えていたらこんな感じだったのかもしれないという想像が膨らむ。


(2020.4.30 文章を一部調整)

2008年1月21日 (月)

陸士衡と葛洪

高橋和巳先生の本に「葛洪は陸機(の文学)ファン」というようなことが書いてあった。
現存の『抱朴子』には残っていないものの、『太平御覧』等諸々の史料にある逸文に陸機(二陸)の話題がいくつか散見されるようである。『晋書』陸機伝にも「葛洪は陸機の文を賞賛した」とある。葛洪は283年生まれらしいので、面識があるかは別として陸機のことは当然知っていたはず。ちなみに陸機が刑死したとき葛洪は数え21歳。
高橋先生が引用されているが、『太平御覧』にある『抱朴子』の記述によれば、葛洪の門下生でかつて陸機の側近だった者が、処刑の前に残した彼の言葉を聞いていたそう。葛洪はそれを書き留めているのだけど、有名な「華亭の鶴云々」よりも生々しく感じるな。

『太平御覧』欲しい。顧雍が公孫淵の一件の際に「死を賭して反対します!」的な行動をとったという記述が載っているらしく、また他にも気になる記述があるようなのできちんと確かめたい。でも金銭的にキビシイ。顧雍の話なら一応は読んだ本に原文が引用されてはいるけど。あと『資治通鑑』の注も見たい。本文ならネット上で見られるけど注は見られない。探せばあるのかな。もしくは注だけ販売してたりとかないかな。そういや『三国志集解』も持ってないや。

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