04:江東豪族関連

2020年3月 5日 (木)

「与朱光禄書」の朱光禄とは誰か?

陸雲にはいくつかの書簡が残されている。兄・陸機に送った「与平原書」や上洛後に世話を受けた張華へのものとされる「与張光禄書」などがそれである。
それら複数伝わる陸雲の書簡の中に、「与朱光禄書」というものが存在する。この「朱光禄」について、佐藤利行先生は『晋書』顧衆伝の「光禄朱誕器之」という記述を引いてこの朱誕のことであろうかと指摘されている(※1)。

朱誕なる人物については前々から気になっていたので、この機会に少し調べてみた。



1.淮南内史の朱誕

「与朱光禄書」の朱光禄とは、陸雲が手紙を送ったわけであるから、当然ながら陸雲と接点のあった人物ということになる。朱光禄を朱誕と考えるならば、朱誕という名の人と陸雲とに接点があったということになるが、『晋書』陸雲伝にそれをうかがわせる記述がある。

(『晋書』巻54 陸雲伝附陸耽伝)

大將軍參軍孫惠與淮南內史朱誕書曰:「不意三陸相攜暗朝,一旦湮滅,道業淪喪,痛酷之深,荼毒難言。國喪俊望,悲豈一人!」其為州裏所痛悼如此。

陸雲が兄弟と共に殺害されると、彼らと同じ幕下にいた孫恵は「淮南内史の朱誕」に書を送り、陸雲らを失った悲憤を伝えた。その胸中を吐露することができるほど孫恵と朱誕は見知った仲であったことが推測される。

ただどれほど親密であったとしても、非業の最期を嘆く書を、陸雲らとまったく無関係の第三者へ送るのは、ありえなくはないにしても少々違和感がある。朱誕もまた陸雲らと見知った関係であるからこそ、気持ちを共有できる相手として孫恵は手紙を送ったのではないか。

淮南内史の朱誕が陸雲兄弟と面識があったことを想像させる記述はもう一つある。

(『太平御覽』巻602)

又曰:稽君道問二陸優劣。抱朴子曰:「朱淮南嘗言:二陸重規沓矩無多少也。(後略)…

『太平御覧』が引く『抱朴子』の逸文である。
抱朴子こと東晋の葛洪が、「朱淮南」がかつて述べた二陸評を引くのであるが、「朱淮南」とは「淮南内史の朱誕」を指すと見ていいだろう。これを見るに、朱誕は陸雲兄弟を知っていたのだ。

二陸について問われると、その返答の中に名前が出てくる。彼らが死ぬと、悲嘆の書を送られる。
朱誕とは、想像以上に陸雲たちと関係が深い人物なのかもしれない。少なくとも、「淮南内史の朱誕」は陸雲が書を送ってもおかしくない立ち位置の人物であったのだろう。

この「淮南内史の朱誕」についてもう少し詳しく知りたいところだが、あいにく『三国志』にも『晋書』にも立伝されていない。その他の史料でこの名が登場するのは、東晋の干宝が撰した『捜神記』である。

(『捜神記』第17)

吳孫皓世,淮南內史朱誕,字永長,為建安太守

『捜神記』によると、「呉の孫晧のとき、淮南内史の朱誕、字を永長は、建安太守となった」という。淮南内史の朱誕はかつて呉に仕えており建安太守に任ぜられた経歴を持つ人物であることがわかる。また、字は永長であるらしい。
これ以上の情報は『捜神記』の中には見られないが、「字が永長である朱誕」については『世説新語』の注に記述が見られるため、以下に引用する。

(『世説新語』賞誉 注引『蔡洪集』「与刺史周俊書」)

朱誕字永長,吳郡人。(中略)吳朝舉賢良,累遷議郎,今歸在家。

これは蔡洪という人物が旧呉の人について述べた書で、それによれば、「朱誕は字を永長といい、呉郡の人。呉朝で賢良に挙げられ、議郎に累遷した」。
『捜神記』の「淮南內史朱誕,字永長」と姓名、字が一致しており、呉に仕えていたことも共通する。建安太守であったかどうかはわからないものの、蔡洪が他に挙げた人物が、

・呉で呉郡太守であった呉展
・呉で宛陵令であった厳隠

であることを考慮すると、彼らと並べられた朱誕もまた地方長官的役職についていた可能性はある。そうして呉が滅亡した後、蔡洪などの推薦を受けて晋に仕え淮南内史となったのだろう。

①孫恵が手紙を送った「淮南内史の朱誕」
②『捜神記』のいう「呉で建安太守となった淮南内史の朱誕(字永長)」
③蔡洪のいう「呉に仕えた呉郡の朱誕(字永長)」

①②③の朱誕はみな同一人物であると考えて問題なさそうだ。
呉国に仕えた呉郡出身者ならば、同じく呉国に仕えた呉郡出身者の陸雲と交流があったことは想像に難くない。


ここまでの情報をまとめると、

朱誕は字を永長といい、呉郡の人。呉朝で賢良に挙げられて議郎に累遷し、孫晧の治世では建安太守となった。後に晋に仕えて淮南内史をつとめた、陸雲と交流のあった人物

となる。正史に立伝される人物ではないながら意外と経歴は残っていた。生年まではわからないが、孫晧の時代に太守であったことから、世代的には朱誕の方が陸雲より上かもしれない。

ちなみに「呉郡の朱誕」という文言は『晋書』賀循伝にも見える。

(『晋書』巻68 賀循伝)

惟循與吳郡朱誕不豫其事。

※『呉志』賀邵伝の裴注では「同郡朱誕」となっている。

この記述は陳敏の乱が起きた頃(305年~)のものなので、朱誕はその時期にも存命していたことがわかる。303年に陸雲兄弟が命を落としたとき、孫恵が彼に手紙を送ることは可能だったということである。



2.光禄の朱誕

「淮南内史の朱誕」が陸雲が書を送った「朱光禄」である可能性は高そうだ。
だが、まだ断定はしかねる。この朱誕が光禄になったかどうか、これまでの情報ではわからないからである。

ここで、冒頭で述べた佐藤先生が指摘するところの『晋書』顧衆伝を改めて見てみる。

(『晋書』巻76 顧衆伝)

顧衆,字長始,吳郡吳人,驃騎將軍榮之族弟也。父祕,交州刺史,有文武才幹。衆出後伯父,早終,事伯母以孝聞。光祿朱誕器之。

「光禄朱誕」と確かに書かれている。呼称は「朱光禄」となるだろう。「与”朱光禄”書」にぴたりと当てはまる。

これまで提示してきた史料に登場する「朱誕」が同一人物であると結論付けた以上、『晋書』顧衆伝に登場する「光禄朱誕」もそうであるととらえたいところだが、もう一押し欲しい。

その手助けとなりそうな情報が『芸文類聚』及び『太平御覧』にあった。

(『芸文類聚』 巻86)

吳錄.朱光〈○太平御覽九百六十六光下有祿字.〉為建安太守.有橘.冬月樹上覆裹之.

『呉録』からの引用のようだが、「朱光為建安太守」という一文がある。これにはどうやら脱字があるようで、「朱光」の部分が『太平御覧』では朱光禄」となっているらしい。

(『太平御覽』巻966)

《吳錄·地理志》曰:朱光祿為建安郡,中庭有橘,冬月樹上覆裹之。

なっていた。
建安郡とは建安太守と同じ意味だろうから、二つの引用文を合わせてまとめると、「朱光禄為建安太守」となる。

引用元の『呉録』は、呉の張儼の息子とされる晋の張勃が私撰した呉の歴史書を指すと思われる。つまり、上記の逸文は呉の時代の話だと考えられるのである。
「朱光禄」の光禄は本名ではなく官名なので、『呉録』の逸文は、「編纂当時には光禄となっていた朱某が呉の建安太守であったときの話」なのだ。『捜神記』の「吳孫皓世,淮南內史朱誕,字永長,為建安太守。」という書き方と同じ。

では、『呉録』のいう「朱光禄」なる朱某は何者なのか?
あつらえ向きに『呉録』の逸文は「朱光禄」が建安太守になった経歴を持つ人物であることを教えてくれている。

”朱”光禄と呼ばれ得る、呉のときには建安太守となり、のち晋に仕えた人物。
それは、「淮南内史の朱誕、字は永長」に他ならない。
顧衆(274~346)の活動時期を考えても、顧衆伝に出てくる「光禄朱誕」は呉郡の朱誕(字永長)と判断していいだろう。

ようやくすべての朱誕、そして「朱光禄」がつながった。彼は淮南内史をつとめた後、何らかの経緯を経て光禄に任ぜられたようだ。時期としては東晋に入った頃であろうか。



3.まとめ

改めて情報をまとめる。

朱誕は字を永長といい、呉郡の人。呉朝で賢良に挙げられて議郎に累遷し、孫晧の治世では建安太守となった。晋に仕えて淮南内史をつとめ、後に光禄にのぼった。陸雲や孫恵、顧衆らと交流があった。

以上のことから、陸雲の「与朱光禄書」が指す朱光禄とは、佐藤先生のご賢察の通り、顧衆伝に出てくる「光禄朱誕」のことであると考える。
朱誕に陸雲や孫恵、顧衆らとの繋がりがあるのも同郷だからなのだ。故国を失い苦境に立たされた呉の者同士で助け合っていたのだろう。
さらに、東晋の干宝『捜神記』、葛洪『抱朴子』にも登場するあたり、当時は名の知れた重要人物だったのかもしれない。




参考文献:
(※1)佐藤利行「西晋文人関係論--陸雲と厳隠」広島大学大学院文学研究科論集.2001,第61巻,p1-8.

佐藤利行『陸雲研究』白帝社.1990.



(この記事は以前書いた記事「朱誕、字は永長」を書き直したものです。引用はすべて「維基文庫」から引きました)

2019年11月10日 (日)

呉の四姓の順番

細かい点だけど、某先生の本を読んでいて、「呉の四姓」を挙げる際に「陸、顧~」と陸氏を一番最初に挙げて書いているところが気になった。
私の知っている範囲の史料だと、「顧、陸~」と顧氏を陸氏より先に持ってきているイメージだったので。

『呉志』陸凱伝
「先帝外仗顧、陸、朱、張

『世説新語』政事
「檢校諸顧、陸役使官兵及(後略)」

同 賞誉
吳四姓舊目云:「張文、朱武、陸忠、顧厚。」
注、吳錄士林曰:「吳郡有顧、陸、朱、張,為四姓。(後略)」

『文選』巻28
呉趨行の注、張勃吳錄曰:(前略)四姓,朱、張、顧、陸也。

上に引いた5つの記述のうち、『世説新語』賞誉のものだけ「陸顧」の順番で(逆にすると顧陸朱張だ)、それ以外は「顧陸」という並べ方。顧氏を陸氏より先に挙げているものが多い。
この印象が残っていたから本での順番の違う書き方にちょっと違和感を覚えた。陸氏の人物の方が知名度が高いから~くらいの理
由かもしれないけど。

それと、順序が違うように見えて「顧&陸」「朱&張」という組み合わせはいじられていないね。たとえば「張、顧、朱、陸」みたいな順番は、引用したものの中には見られない。

これらの並べ方には意味があるんだろうか。
①家格の上下
②地理的な近さ
③ルーツの近さ
④語呂が良いから(発音などの関係)
等々、何かしらの理由がつけられるものなのかな。
たとえば親子兄弟も書くときはだいたい目上・目下の順だしちょっと気になる。


(この記事はツイッターで呟いたものをブログ用に一部加筆修正したものです。)

2019年9月23日 (月)

姚敷という人物

呉において太常の位までのぼった姚信。彼の父親の名を「姚敷」だとする出典はなんだろうと気になっていたんだけど『新唐書』かな。

(『新唐書』巻74下)

姚姓,虞舜生於姚墟,因以為姓。陳胡公裔孫敬仲仕齊為田氏,其後居魯,至田豐,王莽封為代睦侯,以奉舜後。子恢避莽亂,過江居吳郡,改姓為媯。五世孫敷,復改姓姚,居吳興武康。敷生信,吳選曹尚書。

維基文庫より引用


姚信の一族については姚察・姚思廉のことは知っていたが他にも名前のわかっている人がいるんだね。

「遜外生」が陸遜の姉妹の子を指すとすれば、陸遜の姉妹が嫁いだ相手はこの姚敷ということになる。陸遜や顧邵に近い年代の人なんだろうか? そうだとすれば、息子の姚信は顧譚・顧承兄弟と年が近かったとも考えられるかも。
また、『新唐書』のこの情報からは、姚敷が呉朝において官位を得ていたかどうかはわからない。仕えたけれど書かれていないのか、仕えていなかったのか、仕える前に亡くなったのか。

ところで、裴松之は姚信の集を引いて陸鬱生のことは紹介しているのに姚信自身の情報は残していない。孫弘や袁夫人らについては僅かとはいえ補足しているのになぜだろう。
興味がなかったか、うっかり忘れたか、実はちゃんと注釈を入れていたのがどこかで抜け落ちたか。
姚信の子孫は六朝時代を通して続いており、裴松之自身も姚信の集を史料として引っ張り出しているのだから、姚信本人の情報だけ見つけられなかったというのはないように思うが。そして姚信は字をいくつ持ってるんだ。



関連記事:
時系列と姚信のこと
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2019年6月10日 (月)

時系列と姚信のこと

1.姚信のこと
『呉志』陸遜伝には「而遜外生顧譚、顧承、姚信,並以親附太子,枉見流徙。」とある。
顧譚と顧承については顧雍伝に詳細が記されているがそこに姚信の名は見られず、他の伝を見ても彼の具体的な行動については記されていない。
姚信はなぜ南方へ流されることになったのだろうか。

はじめは論功行賞問題に姚信は無関係として楊穆と同時期に流されたのではないかと漠然と考えた。しかしそれでは孫権の陸抗や陸胤らへの対処の違いに説明がつかない。また近頃は陸遜が全琮に書を送ったのは論功行賞問題が関係していると考えるようになったこともあり、姚信は顧譚らと共に流されたとする方が陸遜伝の書き方を見ても筋が通ると認識を改めた。

姚信は、顧譚と共に張休・顧承を弁護した。これが原因で彼らと流されたのではないだろうか。

顧雍伝注引『呉録』と『江表伝』の記述には異同があり、前者に書いてあることが後者にはなく、後者に書いてあることが前者にはない。このため両書の記述が同じ時系列の出来事であるかは断定できず、それぞれを鵜呑みにするのは避けたいところではあるのだが、その上で考えられるのは、顧譚は二人のために弁明しようとしたという可能性だろうか。(※1)

そんな顧譚と意を同じくして張休や顧承のために抗弁したのが姚信だったのではないか。

姚信が陸遜の姉妹の子だとすれば、顧譚と顧承は彼にとって血を分けた従兄弟だったから。後年、一人だけ生き残った姚信はどんな思いで故郷の地を踏んだのだろう。

 

2.時系列
以前から述べている通り、陸氏・顧氏が全氏と敵対したのは芍陂の役の論功行賞問題に端を発する。
この問題により顧譚、顧承、姚信が配流された結果、陸遜が全琮父子に不満を抱くこととなった。陸遜が全琮に手紙を送ったのもこれが原因だろう。甥が三人も流されたというのに果たして何も感じずにいられるだろうか?
陸遜と全琮の仲違いは太子派と魯王派というスタンスがきっかけではないのである。

時系列としてはまず孫権が次期外戚として張氏を厚遇したことに全氏が反発し、その過程で太子孫和との間にも亀裂が走った。このまま孫和が皇帝となるのはまずいとして保身に走った全氏が魯王につく。そして、全氏の行動により太子や張氏に不信感を抱いた孫権は、自分が死ぬ前に現太子とその外戚を排除し、全氏に重きを置いた新たな政権を立てようとした。その一歩として張休を処罰したのである。
ここで顧譚・姚信が張休たちを庇った。彼らの姿勢は全氏を中心とする新政権への敵対行為と見なされ排除されたのだろう。

後継者問題に火がついたのは、孫権が魯王についた全琮父子の言をいれて太子の外戚である張休を排斥したことが影響したと思われる。

ところで、全氏に傾いた孫権がその全氏と対立した陸氏(陸遜)をそのままにしておくだろうか? すでに全氏のために顧氏を排斥した結果を出した以上は後戻りできたとは思えない。

楊竺が告発したという「遜二十事」が本当に楊竺の手によるものなのかも気になるところだ。実際に「遜二十事」で行動したのは楊竺ではなく孫権だからである。


(※1)『呉録』の記述について、信憑性は問わず私見を書く。

張休が投獄された状況と、投獄されていない状況とでは、顧譚の心境に与える影響はまったく異なる。彼の弟も張休と同じ理由で誣告の対象とされていたからだ。顧譚とて、張休が投獄されていなければもっと冷静に対応できたかもしれない。だが状況はそうではなかったのである。顧譚に孫権の心の中を読み取れというのは無茶な話であって、このとき彼に認識できたのは張休が繋獄されたという事実だけなのだ。どうにかしなければ張休や弟が殺されると焦りを抱いていたとしても何らおかしくはないだろう。ましてや顧譚には、丞相であった祖父の顧雍が呂壱によって処罰されかけた経験があるのだから(顧雍伝、潘濬伝)。そうしたことを無視して、まるですべて顧譚が悪いのだと断罪するような残酷な意見にはまったく賛同できない。


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2008年5月17日 (土)

朱誕、字は永長

陸雲には「与平原書」の他に「与朱光禄書」がある。この「朱光禄」について、佐藤先生は『晋書』顧衆伝の「光禄朱誕器之」という記述を示して朱誕のことであろうかと指摘されている。朱誕なる人物のことは前々から気になっていたので、この機会に少し調べてみた。

朱誕の情報について比較的まとまっていると思われるのは『捜神記』と『世説新語』の注にある以下の記述。

『捜神記』
呉孫皓世,淮南内史朱誕,字永長,為建安太守。

孫晧の治世、淮南内史の朱誕、字永長は建安太守であったという。
淮南内史朱誕の名は『晋書』陸雲伝にも見える(「
大将軍参軍孫恵与淮南内史朱誕書」)。おそらく孫恵が書を送った朱誕は『捜神記』に出てくる朱誕(字永長)と同一人物だろう。

『世説新語』注引『蔡洪集』「与刺史周俊書」
朱誕字永長,呉郡人。…呉朝挙賢良,累遷議郎。

字永長と明記されているから、こちらの朱誕も先述の朱誕と同一人物だろう。蔡洪によれば、彼は呉郡出身で、呉のとき賢良に挙げられ議郎に累遷したという。朱誕が呉郡の人物であることは、『晋書』賀循伝にも「
惟循与呉郡朱誕」と見える通りである(※『呉志』賀邵伝の裴注では同郡朱誕となっている)。

ここまでの情報をまとめると、朱誕(字永長)は、呉朝では賢良に挙げられて議郎、建安太守となり、晋朝では淮南内史をつとめていた人物となる。
もう一つ手がかりになりそうな情報は『芸文類聚』にある「
呉録曰朱光為建安太守」という引用文。この記事は『太平御覧』にもあるようで、そちらは「朱光禄為建安郡」となっているらしい。私は御覧を持っていないため未確認であるが、そうだとすれば、建安郡とは建安太守と同じ意味と思われるので、『呉録』の記述は「朱光禄為建安太守」ということになる。さらに最初にあげた『晋書』顧衆伝の記事を見てみる。そこにある「光禄朱誕」という記述から、朱光禄は朱誕を指すのだと十分に考えられ得るだろう。『呉録』の逸文に出てくる建安太守であった朱光禄とは、『捜神記』に登場する孫晧のとき建安太守であった朱誕(字永長)のことと判断して良いと思う。
以上のことから、佐藤先生のご賢察の通り「与朱光禄書」の朱光禄とは朱誕の可能性が高いと考える。

以上、私が持っている朱永長に関する情報を基に推測してみた。

朱誕は呉郡呉県の出身なんだろうか?
朱光禄が朱誕なら、彼は陸雲と書簡のやりとりをする間柄だったということだ。別人であったとしても、孫恵がわざわざ陸機兄弟のことで書簡を送るくらいだから朱誕もまた兄弟と面識はあったのだと思う。朱誕が評価している顧衆もまた呉郡呉県の人。それだけじゃ判断はつかないけれどそうだったら面白いな。
呉県の朱氏でなくても、呉で郡太守・晋で内史になっていたり、陳敏から誘いを受けていたり、蔡洪が呉の人士として名を挙げているなどのことから、それなりの家柄だったんじゃなかろうか。あと、光禄(光禄大夫だよね)というのはたぶん朱誕の極官だと思うけど、東晋では呉の人がよく与えられていた官位っぽい。

2008年3月 9日 (日)

賀循+α

『晋書』賀循伝
賀 循 字 彦 先 , 會 稽 山 陰 人 也 。 其 先 慶 普 , 漢 世 傳 禮 , 世 所 謂 慶 氏 學 。 族 高 祖 純 , 博 學 有 重 名 , 漢 安 帝 時 為 侍 中 , 避 安 帝 父 諱 , 改 為 賀 氏 。

 

(超てきとーな訳)
賀循は字を彦先といい、会稽山陰の人である。その祖先の慶普は漢の世に礼を伝えた。世に言う所の慶氏学である。族高祖の賀純は、博学で重名があり、漢の安帝の時に侍中となった。安帝の父の諱を避けて、姓を改めて賀氏とした。

慶普は戴徳・戴聖と共に后蒼から学んだそうだ。よく知らない(^ ^;
これを見て思ったのだが、賀斉は活動時期が時期だけに武将として活躍しただけで、元来は高い教養のある人なんだろうか。
賀斉の孫の賀邵については次のような記述があった。

 

『晋書』儒林伝
范 平 字 子 安 , 呉 郡 錢 塘 人 也 。 其 先 銍 侯 馥 , 避 王 莽 之 亂 適 呉 , 因 家 焉 。平 研 覽 墳 素 , 遍 該 百 氏 , 姚 信 、 賀 邵 之 徒 皆 從 受 業 。 呉 時 舉 茂 才 , 累 遷 臨 海 太 守 , 政 有 異 能 。 孫 皓 初 , 謝 病 還 家 , 敦 悅 儒 學 。 呉 平 , 太 康 中 , 頻 徴 不 起 , 年 六 十 九 卒 。 有 詔 追 加 諡 號 曰 文 貞 先 生 , 賀 循 勒 碑 紀 其 德 行 。 三 子 : 奭 、 咸 、 泉 , 並 以 儒 學 至 大 官 。

 

范平という人物のもとで姚信や賀邵らは学業に励んでいたらしい。学んだのは主に儒学だろうか。
さらに賀邵の子の賀循は太常に任ぜられ、「朝 廷 疑 滯 皆 諮 之 於 循 , 循 輒 依 經 禮 而 對 , 為 當 世 儒 宗 。」当世の儒宗とされたとある。へー。

ちなみに姚信については、陸雲が「與平原書」の中で「姚公のことは儒林伝に書けば良いのではないか」と述べている。この姚公が姚信を指すと判断して良いのならば、儒林伝にとあること、呉の時に太常になっていることから、儒学に通じた人なのだろうと思う。当時の人はだいたいそうだろうけど。


2007年5月 5日 (土)

モカ珈琲はかくまで苦し

北人の南人差別みたいな部分は後々きちんと調べてみたい。陸機の誅殺にも絡んでくる要素のようなので。

陸機が孟超に浴びせられた「貉奴(むじな)如きに都督がよくつとまるな!」という罵倒に出てくる「貉奴」という言葉は南人に対する蔑称だったらしい。『世説新語』には、晋へ亡命した孫家の孫秀が現地で娶った奥さんにやきもちを妬かれて罵倒されたエピソードが載っているのだけど、その罵声が「貉奴!」だったため、孫秀はひどく気分を害したらしい。てことは、孫秀は貉奴が蔑称だとわかっていたのか。なぜ貉奴なんだろう? 調べれば何か出てくるかな。
また、同じく『世説新語』には司馬炎と孫晧の「爾汝歌」エピソードがある。これも司馬炎が南方の文化を小馬鹿にしているようにも解釈できる。

うろ覚えだが、確か宮崎市定先生の本に「晋(東晋?)では呉の人たちは仕官する前にまず北方の言葉遣いを習得しなければならなかった」といったことが書いてあった記憶がある。そして、おそらくそのことと関わりがあるのだと思うけど、葛洪が『抱朴子』の中でそういう風潮を嘆いていた憶えがある。これもうろ覚えだが。
さらに葛洪は呉平定後の呉に対する扱いに対しても、「差別するにもやり方があろう!」と憤慨していた。どうも官職につくための試験も受けさせてもらえなかったらしい。

陸雲の書簡には、彼が呉出身者を北方へ手引きすることに汲汲とし、また多くの人材が官途に就けないことを嘆いている様子が見られるらしい。

2007年2月 5日 (月)

姚信と姚察と姚思廉

『陳書』姚察伝
姚察字伯審,呉興武康人也。九世祖信,呉太常卿,有名江左。

『新唐書』姚思廉伝
姚思廉字簡之,雍州萬年人。父察,陳吏部尚書

姚察と姚思廉は『陳書』『梁書』を著述した人たち。その姚察より九世上の祖が呉で太常を務めた姚信という人物であるとのことだが、呉で太常に任ぜられた姚信といったら遜外生姚信と見て間違いないだろう。九世というのも三国後期とほぼかぶる、たぶん。

『呉志』に出てくる姚氏は姚信を含めてもごくわずかしか居ないのでどういった家柄なのかはわからないが、陸家と婚姻関係を結んでいると思われること、姚信が著述をよくした人物であるらしいこと、また江左で名が知られていたとあることから考えると、まずまずの家柄だったのではないかと推測される。
『呉志』にある姚信の記述で最も新しいものは269年に出された陸凱の上表文の中であり、それ以降に彼がどうなったのかは不明である。殺されたという記述もないので、在官のまま天寿を全うしたのかもしれない。(孫晧伝を見ると276年には周処が太常を兼務しているから、それ以前に死去?)


関連記事:
姚敷


2006年10月17日 (火)

呉郡の張さん

『晋書』に張翰という人の記述がある。見てみると、「張翰は呉郡呉出身。父の張儼は呉で大鴻臚をつとめていた」と記されている。
裴松之が『呉志』に注を引く際に使用した『呉録』の著者・張勃も張儼の息子とされる。
ということは張翰と張勃はの二人は兄弟になるのだろうか。
呉郡呉の張氏ということは、「呉の四姓」の張氏ということかな。

呉郡出身の張氏で『呉志』に記述があるのは張温、張敦とその息子の張純あたり。専伝を有するのは張温で、後者二人はオマケ程度にちょろっと書かれるだけ。
が、よく見ると二人とも張勃『呉録』から詳細が引用されていたりする。同族だから詳しく知っているということだろうか?

ちなみに張勃本人の記述は『呉志』にはまったくなく、裴松之の注にもなく、『晋書』の張翰伝でも触れられていないため、どういう人物なのかは不明。本当に張儼の息子なのかもわからない。気になる。どこかに情報が載っていないかね。


『晋書』によると張翰は西晋の文人の一人で、顧栄や賀循と親しかった様子。顧栄が死去したときの張翰の嘆きっぷりは凄まじい。物事にこだわらず後世に名を残すことよりも今生きることを選んだ人で、晋に仕えはしたものの、さっさと見切りをつけて隠棲生活を始めた。そのおかげで八王の乱にも巻き込まれずに済んだと書かれている。