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2018年10月14日 (日)

孫呉の二人の王夫人

『呉志』には孫権の夫人として二人の王夫人が登場する。
一人は孫和の母である瑯邪出身の王夫人。もう一人は孫休の母である南陽出身の王夫人。
二人はいずれも子孫が帝位についたことから皇后の位を追贈され、『呉志』妃嬪伝に記述が残された。

(『呉志』妃嬪伝)

吳主權王夫人,琅邪人也。〈《吳書》曰:夫人父名盧九。〉夫人以選入宮,黃武中得幸,生(孫)和,寵次步氏。步氏薨後,和立為太子,權將立夫人為后,而全公主素憎夫人,稍稍譖毀。及權寢疾。言有喜色,由是權深責怒,以憂死。和子皓立,追尊夫人曰大懿皇后,封三弟皆列侯。


吳主權王夫人,南陽人也。以選人宮,嘉禾中得幸,生(孫)休。及和為太子,和母貴重,諸姬有寵者,皆出居外。夫人出公安,卒,因葬焉。休即位,遣使追尊曰敬懷皇后,改葬敬陵。王氏無後,封同母弟文雍為亭侯。

維基文庫より引用


本記事では、南陽王夫人の条にある「242年に孫和が太子に立てられるとその母である瑯邪の王夫人が重んじられ他の寵姫は外に居らせることにした」という記述(下線部の箇所)について考えてみたい。

まず、これは孫権の意思で行われたことであると考える。理由はごく単純に、瑯邪の王夫人にそんな権限はないから。

次に、外に出された寵姫について。
『呉志』及び裴松之注にて確認できる孫権から寵愛を受けたであろう女性のうち242年時点存命していたと考えられるのは、南陽の王夫人、潘夫人、袁夫人、謝姫の四人(※1)。この四人のうち、外に出たことが確定しているのは南陽の王夫人のみである。

謝姫は孫晧の代まで外に居たような様子は見られず、潘夫人に中傷されたという袁夫人も後宮にいたからそうなったのであろうし、242年当時ちょうど寵愛を受けていたであろう潘夫人も宮中に留まったはずだ。
『呉志』妃嬪伝には「寵愛を受けた諸姫は皆外に居させることになった」と記されているが、どうも全員がそうなったとは思えないのである。

ひょっとすると、このとき「外に出された女性」と「後宮に残された女性」とにわかれたのではないか?

ここではそう仮定して考えを進めてみる。
重要なのは、外に出された女性とそれ以外の女性の違いはどこにあったのか、という点である。
理由はいくつか考えられるだろうが、可能性の一つを述べるためにまずかつて孫権の妃であった謝夫人の話を参照したい。

『呉志』妃嬪伝謝夫人の条によると、謝夫人は孫権の母・呉夫人に選ばれて孫権の妃となった。こののち孫権は徐夫人を納れた。その際、孫権は謝夫人に徐夫人の下につくことを求めたが謝夫人はこれを受け入れず、失意のうちに死去したという。

この謝夫人と徐夫人の一件は、孫権が自身の妻妾に対し実際にとった行動である。他の妻妾に対しても孫権が同じような行動をとった可能性は考えられるわけだ。つまり、南陽の王夫人の件は類似の出来事として解釈することが可能なのである。

孫権から瑯邪の王夫人の下につくことを求められた南陽の王夫人はこれを拒否し、そのため孫権の意思によって後宮から出されることになったのではないか。


謝夫人については母・呉夫人の手前あからさまに追い出すことはできなかったかもしれないが、南陽の王夫人は孫権が選んで入れた女性だろうから、かつての妃・徐夫人同様に孫権の気持ち一つで遠ざけることなど容易にできただろう。

では、なぜ南陽の王夫人は孫権の要求を拒否したのか?
それは、彼女が男児を産んだ女性だったからだ。

孫権の後宮は十年以上も皇后がいないというおかしな状態が続いていた上に、各女性たちの記述を読んでも妃嬪の位がどうなっていたかはっきりせず、妻妾間の上下関係がどんな様子だったのか想像しにくい。
しかし、妃嬪の位が不明瞭とはいえ、ある程度待遇に差はあったものと想像される。「後宮で最も寵された」「~に次いで寵された」といった記述が見られるからである。

待遇に差がつく要素は家柄だったり親族の官位であったり年齢であったり連れ添った時間の長さであったりと様々なものがあったろう。
その中でも特に「母以子貴」というように子供、特に男児を産んだ女性が重んじられた可能性は高いのではないだろうか。孫登が太子となるや養母の徐夫人を后にするようにとの意見が出たり、孫和が太子に立てられるとその母である瑯邪の王夫人も貴重されるようになったのが何よりの証拠である。

その点から言えば、南陽の王夫人は235年に皇子の孫休を産んでいるから、これにより諸姫の中でも特に大事にされる立場になったものと推測できる。
特に孫休は、孫亮が生まれるまでは孫権にとっての末子であったと思われ、242年時点でも数え8歳という幼さであったことから、すでに50歳をこえていた孫権から母子共に寵愛を受けていたかもしれない。

今まで皇子を産んだ立場として大切にされてきたのに、孫和が太子となるやその母が特に貴ばれるようになり、彼女の下につくことを孫権から要求された。
そんなことは南陽の王夫人のプライドが許さなかった。
だから、孫権からの要求を拒否したのだ。
そして、これにより孫権は彼女を後宮から出す決定を下したのである。
あるいは、当時末子であった孫休共々受けていた寵愛が潘夫人(しかも元は罪人の娘)へと移りつつあったことも南陽の王夫人の心を傷つける原因の一つであったのだろうか。

ともあれ、孫権の意向に従わなかった結果、南陽の王夫人は公安へ赴くこととなった。
前述の宮中に残ったと思われる他の女性たちは、孫権の命令に従ったために外に出されずに済んだのだろう。

これまで孫権の後宮で存命の女性が皇后に立てられたことはなかった。十年以上皇后不在・妻妾の序列も不明瞭という奇妙な状態が続いた後宮で、初めて存命の誰かが皇后に立てられるかもしれない事態に直面したことによって、長い時間をかけて形成された歪みを矯正する必要が出た。「諸姬有寵者,皆出居外」というのは孫権による清算の一つであったのだ。

全公主の妨害もあっただろうが、孫権がすぐに瑯邪の王夫人を皇后に立てなかったのは、あるいは彼女の身の安全を考えてのことであったのかもしれない(※2)。
はたまた袁夫人同様に王夫人自ら辞退したという可能性もないとはいえないだろう。
いずれにせよ息子が太子に立てられたことは、瑯邪の王夫人にとって悲劇の始まりでしかなかったのである。


余談になるが、孫権が帝位についてからずっと皇后問題を抱えていた後宮の混乱を、瑯邪の王夫人一人の問題としてとらえて断ずるなんてのは無茶だし酷な話だ。なのに、私が正史(ちくま訳)を読み始めたときから何故かそういう論調の意見(下手すりゃ悪口)をたびたび見かけて、そのわりに擁護は見たことなくて可哀想だなーとずっと思ってたんだよね。孫和もね。孫登だって色々言われてたし。なのでこういう考えもありえるんじゃない、と。

王夫人が立后されなかったのは彼女に問題があったからと見るのなら、十年以上悩まれた歩夫人はその比じゃない。


【追記】
「諸姫は皆外に出された」という記述で気になるのは、記述自体が南陽王夫人の条に記されている点と、外に出されたのが南陽王夫人以外には確認できない点。
妃嬪伝に南陽王夫人の条が作られたのが息子である孫休の即位後在位中であるならば、南陽王夫人に配慮した書かれ方をされた可能性があるのでは?
それを踏まえた上での仮説:孫権はかつて徐夫人を正室として迎える際、すでに正室であった謝夫人に対して彼女の下につくことを求めた。謝夫人はそれを認めなかった。そのため寵愛を失い、早死にした。これと同じようなことが瑯邪王夫人と南陽王夫人の時にも起こった。しかし孫休の手前「孫休の母は孫権の命令を聞かなかったので外に出された」とは書けなかった。そのため「瑯邪王夫人が太子の母として重んじられるようになったので諸姫は外に出されることになった」という書き方をされた。南陽王夫人以外に出て行った女性が見られないのもこのため



(※1)孫奮の母・仲姫については判断できないためここでは除外する。
(※2)潘夫人殺害の件を参照。潘夫人は孫権が病の床に臥した時=孫権が夫人を庇護できない状況下で殺された。


(2019.10.8 わかりにくい文章の加筆修正)
(2020.4.23 引用文の追加・細部の加筆修正)
(2020.4.24 追記)


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