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2018年9月 9日 (日)

歩皇后は本当に嫉妬しなかったのか?

呉の歩夫人は孫権最愛の女性だったと目されている。『呉志』妃嬪伝歩夫人の条によると、歩夫人は美貌を見初められ、その寵愛ぶりは後庭に冠たるものだったという。
妃であった徐夫人が廃されてから歩夫人が最も寵愛されたという『呉志』孫登伝の記述から推測すると、210年代には歩夫人は孫権の元にいたのだろう。彼女は238年に死去しているので、最長で約30年孫権から愛されていたことになる。

だが、史書に「歩夫人は死去するまで最も愛されていた」と明記されているわけではない。死後に皇后の位を追贈されたといった出来事があるため何となくそういうイメージがついているだけかもしれない。
そうした疑念を抱いたので、この記事では「歩夫人が孫権の寵愛を受けていた時期」について考えてみたいと思う。


寵愛を受けた歩夫人が二人の娘を産んだことは『呉志』妃嬪伝に明記される。逆にいえば二人の娘以外に子はいなかったということだろう。
二人の娘とは全公主こと孫魯班、朱公主こと孫魯育の二人である。彼女らの生年は史書に確認できないが、次女の孫魯育についてはある程度生年を絞り込めそうである。

(干宝『捜神記』第二巻)

吳孫峻殺朱主,埋於石子岡。歸命即位,將欲改葬之,冢墓相亞,不可識別。而宮人頗識主亡時所著衣服,乃使兩巫各住一處,以伺其靈,使察鑒之,不得相近。久時,二人俱白見一女人,年可三十餘,上著青錦束頭,紫白袷裳,丹綈絲履,從石子岡上半岡,而以手抑膝長太息,小住須臾,更進一冢上,便止,徘徊良久,奄然不見。二人之言,不謀而合。於是開冢,衣服如之。

維基文庫より引用


晋代に編纂された干宝『捜神記』の逸話を参考にするならば孫魯育の享年は30代。255年に殺害されているため逆算すると217-226年の間に生まれたものと考えられる。ここからさらに朱拠に嫁いだ年(229年)、娘の朱夫人が孫休に嫁いだ時期(赤烏末年)から考えられる朱夫人の生年などをあわせて推測すれば、220年以前に生まれた可能性が高いように思う。

孫魯育は歩夫人が産んだ子としては末の子であったと思われるので、彼女の生年が220年以前であるならば、それは歩夫人が子を産んだのは220年以前が最後という意味に繋がる。すなわち、孫権の歩夫人への寵愛はその時期に前後して薄れつつあったのではないだろうか。次いで寵愛を得たのが瑯邪の王夫人であり、そうして彼女は224年に息子を産んだのである。


補記:もちろん寵愛を得たからと言って必ずしも子を得るとは限らない。
また、歩夫人が健康を損なっていた可能性もないとは言えない(そうであればそういう記述はありそうだが)。
なお歩夫人の子ではない孫慮は213年生まれで、孫魯班と孫魯育の間には異母の姉妹がいる。
このことから、歩夫人への寵愛が盛んで
あったろう時期にも孫権から愛された別の女性は存在したと考えられる。

 

これらの時期は孫登立太子による王后問題が浮上していた時期と重なる。
孫登は、自分の母は徐夫人であるから彼女を后に立てて欲しいと孫権に主張した。孫登の意思は徐夫人と歩夫人それぞれの贈り物を受け取る際の態度の違いにも見て取れよう(『呉志』孫登伝)。
一方の孫権は徐夫人を立てることはしないながら、歩夫人を立てることもしなかった。
そのような時期に寵愛が他の女性へと移り、しかもその女性は男児を産んだのだ。当時の歩夫人の心中ははたして穏やかであったろうか。

孫登の支持を得ようとするもそれは叶わず、子を得る機会が薄れた以上自ら息子を産むことにも賭けられない。かといって徐夫人のように他の女性の子を育てるというのも難しかった。なぜなら、孫権がその役割を与えたのは歩夫人ではなく袁夫人だったから(『呉志』妃嬪伝潘夫人の条に引く『呉録』)。

そこで歩夫人は他の女性たちを推進するという選択を自らとり、それによって孫権の妻妾間における自身の影響力を固めようと考えたのだろう。歩夫人のこの行動が瑯邪の王夫人が寵愛を受けて以降の行動ならば当然王夫人は含まれない。

歩夫人存命中の235年に孫休を産んだ南陽の王夫人も推進された一人であったのかもしれない。こういった女性や歩夫人の「親戚」が彼女を皇后と呼び、宮中に席巻した。孫登の太子としての立場を不安定にさせ圧迫したほどの歩夫人派閥なのだから、いわんや王夫人&孫和をや。(※1)
王夫人が重んじられるようになると「歩夫人が推進して孫権の寵愛を受けた後宮の女性たち」が外に出されることになったのにも相応の理由があったのである。(※2)


親の好悪は子供に影響を与えることがある。孫魯班が瑯邪の王夫人を嫌っていたとするならば、それは母である歩夫人の影響だった可能性は否定できない。
歩夫人は他の女性たちをすすめたことで嫉妬を知らないと評されたが、その行動の裏には男児を産んだ王夫人や皇后になれないことへの嫉妬があったのである。


(※1)袁夫人が立后を辞退したのもこうした背景が理由と考えられる。後に彼女は歩夫人の娘・全公主こと孫魯班の支持を受けたと思われる潘夫人を通して譖害されている。
(※2)宮人たちは皇后となった潘夫人を殺害するという行動を実際に起こしている。



参考文献:
王永平『孫呉政権与文化史論』上海古籍出版社,2005.


(2019.8.2 文章の補足と参考文献の記載)


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