2020年5月 9日 (土)

顧承は「奮武将軍」

呉の顧承は字を子直といい、顧雍の孫、顧邵の子、顧譚の弟である。母は陸遜の姉妹と考えられ(「陸遜伝」)、妻は張温の妹と伝えられる(『文士伝』)。舅の陸瑁と共に召し出されて孫権に仕えたが、後に政争に巻き込まれて37歳で死去した。

若く亡くなったこともあってか顧承の記述はそう多くはないが、今回の記事では顧承が得た将軍号について考えてみたい。



1.顧承は奮威将軍ではなく「奮武将軍」だった?

この顧承について、正史『三国志』呉書(以下『呉志』)では奮威将軍になったことが記されている。

(『呉志』顧雍伝附顧承伝)

承字子直,嘉禾中與舅陸瑁俱以禮徵。權賜丞相雍書曰:「貴孫子直,令問休休,至與相見,過於所聞,為君嘉之。」拜騎都尉,領羽林兵。後為吳郡西部都尉,與諸葛恪等共平山越,別得精兵八千人,還屯軍章阬,拜昭義中郎將,入為侍中。芍陂之役,拜奮威將軍,出領京下督。

芍陂の役の論功行賞で顧承が雑号将軍に任ぜられたことは兄である顧譚の附伝にも記述がある。

(『呉志』顧雍伝附顧譚伝)

時論功行賞,以為駐敵之功大,退敵之功小,休、承並為雜號將軍,緒、端偏裨而已。

雑号将軍とはすなわち附顧承伝でいう奮威将軍を指すのだろう。この数年後、全琮父子に讒訴され交州へ流されたことを踏まえると、奮威将軍が顧承の最終官位と考えられる。
ここまで引用した各記述に不自然な点はない。


ところが実は、顧承は「奮武将軍」であったとする史料が別に存在する。

『初学記』巻十七

《吳先賢傳 奮武將軍顧承贊》曰:于鑠奮武,奕奕全德;在家必聞,鴻飛高陟。

『初学記』に『呉先賢伝』という書から引かれた賛があり、そこには「奮武将軍顧承」と記されているのである。
この記述は『呉志』の「顧承は奮威将軍を拝した」という記述と相違する。

可能性として、『呉先賢伝』の記述を『初学記』へ写す際に奮威を「奮武」と書き間違えたと考えることはできる。
だが、この『初学記』は唐の玄宗の勅命により編纂されたもので、諸皇子の参考書となる役目を担った類書なのだ。その背景を考えると撰者が粗末な仕事をしたとは考えにくく、さらに『初学記』は引用資料の精確さは『芸文類聚』に勝ると評価される史料でもある(『四庫全書総目提要』)。

引用記事そのものを見てみても、「奮武将軍顧承賛」「于鑠奮武」と二度も「奮武」という単語が出ており、そこに不一致はない。このことからも、撰者ははっきり「奮武将軍」と認識した上で書き写したと考えるのが自然だろう。

「奮武将軍顧承」とは『呉先賢伝』の時点でそう書かれていたのだ。だからこそ『初学記』にも「奮武」と書写されたのである。


※もちろん、『初学記』原本と現行テキストに文字の異同がある可能性も否定できない。だが、それを確認するのは困難を極める。『呉先賢伝』についても同様である。本記事では各原本から「奮武将軍」となっていたという前提のもと考えを進めていく。



2.『呉先賢伝』と陸凱と顧承

今回重要となる『呉先賢伝』とはいかなる書なのだろうか。『隋書』経籍志は以下のように記録する。

(『隋書』経籍志)

吳先賢傳四卷吳左丞相陸凱撰。

『呉先賢伝』は呉の左丞相陸凱が撰したという。

呉左丞相陸凱とは、三国呉に仕えた呉郡呉県の陸凱、字は敬風(198-269)のことだろう。
『呉志』陸凱伝によれば、彼は軍事に携わることになっても書物を手離さなかった。他にも太玄経注などを撰していることから、著述に精力的な人物だったのかもしれない。

この
陸凱が撰した『呉先賢伝』については、『初学記』に「奮武将軍顧承賛」「揚州別駕従事戴矯賛」「上虞令史胄賛」が逸文として残るだけであり、書の全容を知るのは非常に困難だ。ただその書名からして、呉の地に関わりの深い人物伝と推測される。詳細不明の戴矯と史胄はともかく、呉郡出身の顧承の記述が見られることはその傍証となる。

しかしそもそも、『呉先賢伝』のいう「奮武将軍顧承」は顧承(字子直)であると断じていいものか?
これに関しては『呉先賢伝』の逸文が賛しか残されていない以上、別人の可能性がゼロとは言い切れない。
とはいえ、顧承(字子直)は「奮○将軍」となったことが『呉志』に明記されており、彼以外に同条件の者は確認できない。
加えて陸凱の没年を考慮すれば、『呉先賢伝』で取り上げられたのは当然それ以前に存在した人物のはずなので、この点についても顧承はクリアしている。


それに、陸凱の側から見ても顧承(字子直)は呉の先賢として記述を残す対象足り得る人物だったように思う。

主な理由は、

・顧承には武官としての功績がある
・諸葛恪伝裴注『呉録』を見るに、顧承は兄の顧譚に劣らぬほどの評判があった
・顧承と陸凱はともに呉郡呉県の出身
・顧氏と陸氏は通婚を結んでおり関係が深い。特に顧承は陸氏の血を継いでいる
・顧承と陸凱は活動時期が重なることから面識があった可能性も高く、事績をよく知っていたと思われる。そうした情報を持っているがゆえに人物伝を書きやすい

などである。決定的な裏付けとはならないまでも、伝を残す理由として納得できるものではあるだろう。
同時代に活躍した同郷人で名声のあった人物ゆえに、事績を残しておきたかったのだ。
他に有力な候補がいない以上、陸凱が先賢伝の中に書いたのは顧承(字子直)と見てよかろう。

上で述べた通り、陸凱は顧承のことを知っていたに違いない。伝聞ではなく、直接会って人となりを知っていたとさえ考えられる。
その陸凱が『呉先賢伝』で顧承を「奮武将軍」と呼んでいるのだ。これを陸凱の誤りだと容易に判断してよいものだろうか。
私はそうは思わない。
呉には「奮武将軍」に任命された者として賀斉と朱桓がおり、実際に任命された者がいる以上は顧承もまた「奮武将軍」を拝した可能性は十分にあるのだから。



3.『呉志』の奮威将軍はミスという説

『呉志』では奮威将軍とし、『呉先賢伝』では「奮武将軍」とする。
『初学記』のミスではないという考えについてはすでに述べた。他に考えられるのは、『呉志』か『呉先賢伝』のどちらかが誤りという可能性である。
それについて、本記事では一つの仮説を立てて述べたいと思う。

『呉志』の奮威将軍が誤りとする説である。

その考えについて以下述べていく。


まず、肝心の『呉志』附顧承伝の記述を改めて見てみる。「拝奮威将軍」と
明記されているのがわかる。
ここで注目したいのは、正史『三国志』全体の中で顧承が奮威将軍であると書かれているのは実はこの一カ所だけしかないという点である。
その他の箇所で官位と共に顧承の名が登場するのは、同巻にある諸葛瑾伝裴松之注の中だ。

(『呉志』諸葛瑾伝附諸葛融伝に引く裴注『呉書』)

新都都尉陳表、吳郡都尉顧承各率所領人會佃毗陵,男女各數萬口。

これは芍陂の役より前の記事であるから、顧承はまだ雑号将軍を拝していない。

奮威将軍顧承の名は、正史『三国志』においては附顧承伝の一カ所に記されるのみなのだ。


つまり、『呉志』附顧承伝の一カ所で将軍号の表記ミスが発生していたとしたら、正史において他の記述との比較ができないために、それがミスだと気付くことも出来ないのである。
実際、『初学記』所引『呉先賢伝』の逸文を見るまでは何の疑問も抱かなかった。「奮武将軍」とする逸文が確認できたからこそ『呉志』のあの一カ所が誤りであるという疑問を抱くことが出来たわけだ。

それでは、その一カ所で表記ミスが起きていたとしたら、原因は何なのか?
本記事の仮説で最も重要なのは、その一カ所が『呉志』附顧承伝という場所に存在することだ。

一度、附顧承伝から目を離して『呉志』の構成を見てみる。
顧承伝が附される『呉志』顧雍伝(正史『三国志』巻52)は同巻に張昭や諸葛瑾らが立伝されており、順番としては、張昭伝→顧雍伝→諸葛瑾伝→歩騭伝。これで一つの巻となる形だ。

ポイントは、顧雍伝の前が張昭伝という構成にある。
張昭
伝には息子の張承の附伝があり、そこには次のように記される。

(『呉志』張昭伝附張承伝)

承字仲嗣,少以才學知名,與諸葛瑾、步騭、嚴畯相友善。權為驃騎將軍,辟西曹掾,出為長沙西部都尉。討平山寇,得精兵萬五千人。後為濡須都督、奮威將軍,封都鄉侯,領部曲五千人,…(後略)…

張承もまた奮威将軍に任ぜられたという。

彼が奮威将軍であったことは同巻に収録される周昭の論や別巻の呂岱伝に「張奮威」「奮威将軍張承」と記されることからも間違いないだろう。顧承の場合とは異なり、正史『三国志』内にある他の記述との比較により確認がとれる。張承は確かに奮威将軍であったのだ。

話を戻すと、先述の通り張昭伝→顧雍伝と続いていることから、顧承と張承の附伝も同巻内に続く形で存在し、そう離れて位置するわけではない。
また偶然にも二人は顧承、張承と同名である。
さらに顧承が「奮武将軍」であったならば、かたや「奮武将軍顧承」かたや奮威将軍張承と将軍号まで似通っていることになり、編纂する側からすれば紛らわしく感じるかもしれない。

もしかすると、正史『三国志』呉書では、張承の記述に引きずられて顧承の将軍号を間違えてしまったのではないだろうか。

顧承と張承の類似点は上記の他にもあって、

・活動時期や活動内容にかぶる部分がある
・張承には張休という弟がおり、張休と顧承にも浅からぬ縁がある(そのため附張休伝と附顧承伝に互いの名が登場する)

などである。

当然ながら顧承と張承は別の人間だ。
しかし、陳寿のように二人と馴染みのない者からすると、混同しかねない紛らわしい共通点があると言えそうである。
小さな、しかし複数の類似点が重なった結果、正史『三国志』において張承の奮威将軍と顧承の「奮武将軍」がごっちゃになってしまった。

『呉志』は韋昭『呉書』を参考にしたといわれているが、丸写ししたわけではないことは、裴松之が注に引く『呉書』の数々を見ればわかることだ。
特に顧氏の伝に関しては、顧雍の同母弟たる顧徽など韋昭『呉書』にあった記述が『呉志』では大幅に削られており(※1)、のみならず『呉志』にある顧雍、顧邵、顧譚、顧承の記述さえいくらか手を加えられた形跡が見られる(※2)。
おそらくは顧氏の伝を編集する作業中に顧承の将軍号「奮武」が奮威と勘違いされ、書き間違えられてしまったのだろう。



3.まとめ

以上が本記事で述べたかった仮説である。

付け加えるならば、顧雍伝に続く諸葛瑾伝にも奮威将軍という将軍号が出てくる。

(『呉志』諸葛瑾伝附諸葛融伝)

孫權薨,徙奮威將軍

諸葛融である。
彼についても別の箇所、朱然伝附朱績伝に「奮威将軍諸葛融」と記されることから奮威将軍だったことは間違いなかろう。

奮威将軍張承のみならず、奮威将軍諸葛融に挟まれたことも、顧承の将軍号が混同された原因の一つかもしれない。
さらに、諸葛瑾伝に続く歩騭伝の最後には周昭論が引かれており、その中では「奮威」という言葉が四回ほど登場する。

同巻に同名の者がおり、将軍号も似ていた。さらに奮威将軍となった者に挟まれて、巻の終わりには奮威という言葉が何度も出てくる。
顧承のことをよく知らぬ者が撰したならば、附顧承伝にある一カ所の「奮○将軍」を書き間違えたとしても無理からぬことであろう。

その反面、陸凱は顧承本人を知っており、自身の持つ情報に基づいて顧承のことを記した。
ゆえに陸凱はその将軍号を間違えなかった。

陸凱にとって顧承は年下でありながら自分よりもはるかに早く死去した人物である。その顧承を呉の先賢と定め、敬意をこめて「奮武」と呼んだのだ。

顧承は「奮武将軍」なのである。




(※1)
顧雍伝裴注「吳書曰:雍母弟徽,字子歎,少游學,有脣吻。孫權統事,聞徽有才辯,召署主簿。嘗近出行,見營軍將一男子至巿行刑,問之何罪,云盜百錢,徽語使住。須臾,馳詣闕陳啟:「方今畜養士衆以圖北虜,視此兵丁壯健兒,且所盜少,愚乞哀原。」權許而嘉之。轉東曹掾。或傳曹公欲東,權謂徽曰:「卿孤腹心,今傳孟德懷異意,莫足使揣之,卿為吾行。」拜輔義都尉,到北與曹公相見。公具問境內消息,徽應對婉順,因說江東大豐,山藪宿惡,皆慕化為善,義出作兵。公笑曰:「孤與孫將軍一結婚姻,共輔漢室,義如一家,君何為道此?」徽曰:「正以明公與主將義固磐石,休戚共之,必欲知江表消息,是以及耳。」公厚待遣還。權問定云何,徽曰:「敵國隱情,卒難探察。然徽潛采聽,方與袁譚交爭,未有他意。」乃拜徽巴東太守,欲大用之,會卒。子裕,字季則,少知名,位至鎮東將軍。雍族人悌,字子通,以孝悌廉正聞於鄉黨。年十五為郡吏,除郎中,稍遷偏將軍。權末年,嫡庶不分,悌數與驃騎將軍朱據共陳禍福,言辭切直,朝廷憚之。待妻有禮,常夜入晨出,希見其面。嘗疾篤,妻出省之,悌命左右扶起,冠幘加襲,起對,趨令妻還,其貞潔不瀆如此。悌父向歷四縣令,年老致仕,悌每得父書,常灑掃,整衣服,更設几筵,舒書其上,拜跪讀之,每句應諾,畢,復再拜。若父有疾耗之問至,則臨書垂涕,聲語哽咽。父以壽終,悌飲漿不入口五日。權為作布衣一襲,皆摩絮著之,強令悌釋服。悌雖以公議自割,猶以不見父喪,常畫壁作棺柩象,設神座於下,每對之哭泣,服未闋而卒。悌四子:彥、禮、謙、祕。秘,晉交州刺史。祕子衆,尚書僕射。」顧徽や顧悌など大幅に削除されているのがわかる。

(※2)『呉志』附顧譚伝裴注「吳書曰:譚初踐官府,上疏陳事,權輟食稱善,以為過於徐詳。雅性高亮,不脩意氣,或以此望之。然權鑒其能,見待甚隆,數蒙賞賜,特見召請。」この内容は『呉志』には見られない。顧徽らとは異なり『呉志』に伝はあるものの記述の編集はされているようである。

(※3)清の洪飴孫『三國職官表』では奮威将軍を定員一名とする。これに準ずるならば、芍陂の役(241年)の論功行賞で顧承が奮威将軍になった場合、張承が244年に没するまで二人の奮威将軍が同時期に存在していたことになる。定員一名を前提とするならば、やはり顧承は「奮武将軍」と考えた方が筋は通る。ただし、諸葛融と陸抗もまた同時期に奮威将軍だったと思われることから、呉において奮威将軍が定員一名であったかはいまいち判然としない。(諸葛融は孫権が薨ずると奮威将軍になった。陸抗は建興元年に奮威将軍となった。どちらも252年である)

(※4)正史『三国志』が書写されていく中どこかの時代で奮威将軍と書かれた、もしくは『呉書』の時点で間違えられていたなどの可能性もあるだろう。




参考文献:
洪飴孫『三國職官表』
永田 拓治「漢晋期における「家伝」の流行と先賢」東洋学報 : 東洋文庫和文紀要 94(3), 233-266, 2012-12
永田 拓治「『汝南先賢傳』の編纂について」立命館文學 (619), 352-367, 2010-12
学研『漢字源』

テキスト引用及び確認元:
漢籍電子文献資料庫
中国哲学書電子化計画
寒泉
維基文庫



余談:
正史『三国志』の記述で顧承が「奮武将軍」だったと推測できる可能性ならあったかもしれない。
芍陂の役の論功行賞で張休・顧承と因縁があるのは全緒・全端だ。この全緒は裴注『呉書』によると揚武将軍になったらしい。
かの論功行賞で全緒・全端は偏・稗将軍になっただけと書かれる以上、全緒が揚武将軍になったのはそれ以降のことであり、なおかつ孫亮即位により鎮北将軍に遷ったことからそれ以前のことと時期を絞り込める。すなわち240年半ば~252年のどこかで揚武将軍となったのだ。
これは張休と顧承が全氏一族と対立して失脚した時期と重なる。
全緒がなった揚武将軍が、あの論功行賞で張休が拝した将軍号と同じものなのははたして偶然だろうか?
もし全端に「奮武将軍」になったという記述が『呉志』等にあったなら、それを顧承が「奮武将軍」であったことの裏付けと見ることもできたかもしれないが、残念ながら全端については詳細が不明である。

2020年4月28日 (火)

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2020年3月 5日 (木)

「与朱光禄書」の朱光禄とは誰か?

陸雲にはいくつかの書簡が残されている。兄・陸機に送った「与平原書」や上洛後に世話を受けた張華へのものとされる「与張光禄書」などがそれである。
それら複数伝わる陸雲の書簡の中に、「与朱光禄書」というものが存在する。この「朱光禄」について、佐藤利行先生は『晋書』顧衆伝の「光禄朱誕器之」という記述を引いてこの朱誕のことであろうかと指摘されている(※1)。

朱誕なる人物については前々から気になっていたので、この機会に少し調べてみた。



1.淮南内史の朱誕

「与朱光禄書」の朱光禄とは、陸雲が手紙を送ったわけであるから、当然ながら陸雲と接点のあった人物ということになる。朱光禄を朱誕と考えるならば、朱誕という名の人と陸雲とに接点があったということになるが、『晋書』陸雲伝にそれをうかがわせる記述がある。

(『晋書』巻54 陸雲伝附陸耽伝)

大將軍參軍孫惠與淮南內史朱誕書曰:「不意三陸相攜暗朝,一旦湮滅,道業淪喪,痛酷之深,荼毒難言。國喪俊望,悲豈一人!」其為州裏所痛悼如此。

陸雲が兄弟と共に殺害されると、彼らと同じ幕下にいた孫恵は「淮南内史の朱誕」に書を送り、陸雲らを失った悲憤を伝えた。その胸中を吐露することができるほど孫恵と朱誕は見知った仲であったことが推測される。

ただどれほど親密であったとしても、非業の最期を嘆く書を、陸雲らとまったく無関係の第三者へ送るのは、ありえなくはないにしても少々違和感がある。朱誕もまた陸雲らと見知った関係であるからこそ、気持ちを共有できる相手として孫恵は手紙を送ったのではないか。

淮南内史の朱誕が陸雲兄弟と面識があったことを想像させる記述はもう一つある。

(『太平御覽』巻602)

又曰:稽君道問二陸優劣。抱朴子曰:「朱淮南嘗言:二陸重規沓矩無多少也。(後略)…

『太平御覧』が引く『抱朴子』の逸文である。
抱朴子こと東晋の葛洪が、「朱淮南」がかつて述べた二陸評を引くのであるが、「朱淮南」とは「淮南内史の朱誕」を指すと見ていいだろう。これを見るに、朱誕は陸雲兄弟を知っていたのだ。

二陸について問われると、その返答の中に名前が出てくる。彼らが死ぬと、悲嘆の書を送られる。
朱誕とは、想像以上に陸雲たちと関係が深い人物なのかもしれない。少なくとも、「淮南内史の朱誕」は陸雲が書を送ってもおかしくない立ち位置の人物であったのだろう。

この「淮南内史の朱誕」についてもう少し詳しく知りたいところだが、あいにく『三国志』にも『晋書』にも立伝されていない。その他の史料でこの名が登場するのは、東晋の干宝が撰した『捜神記』である。

(『捜神記』第17)

吳孫皓世,淮南內史朱誕,字永長,為建安太守

『捜神記』によると、「呉の孫晧のとき、淮南内史の朱誕、字を永長は、建安太守となった」という。淮南内史の朱誕はかつて呉に仕えており建安太守に任ぜられた経歴を持つ人物であることがわかる。また、字は永長であるらしい。
これ以上の情報は『捜神記』の中には見られないが、「字が永長である朱誕」については『世説新語』の注に記述が見られるため、以下に引用する。

(『世説新語』賞誉 注引『蔡洪集』「与刺史周俊書」)

朱誕字永長,吳郡人。(中略)吳朝舉賢良,累遷議郎,今歸在家。

これは蔡洪という人物が旧呉の人について述べた書で、それによれば、「朱誕は字を永長といい、呉郡の人。呉朝で賢良に挙げられ、議郎に累遷した」。
『捜神記』の「淮南內史朱誕,字永長」と姓名、字が一致しており、呉に仕えていたことも共通する。建安太守であったかどうかはわからないものの、蔡洪が他に挙げた人物が、

・呉で呉郡太守であった呉展
・呉で宛陵令であった厳隠

であることを考慮すると、彼らと並べられた朱誕もまた地方長官的役職についていた可能性はある。そうして呉が滅亡した後、蔡洪などの推薦を受けて晋に仕え淮南内史となったのだろう。

①孫恵が手紙を送った「淮南内史の朱誕」
②『捜神記』のいう「呉で建安太守となった淮南内史の朱誕(字永長)」
③蔡洪のいう「呉に仕えた呉郡の朱誕(字永長)」

①②③の朱誕はみな同一人物であると考えて問題なさそうだ。
呉国に仕えた呉郡出身者ならば、同じく呉国に仕えた呉郡出身者の陸雲と交流があったことは想像に難くない。


ここまでの情報をまとめると、

朱誕は字を永長といい、呉郡の人。呉朝で賢良に挙げられて議郎に累遷し、孫晧の治世では建安太守となった。後に晋に仕えて淮南内史をつとめた、陸雲と交流のあった人物

となる。正史に立伝される人物ではないながら意外と経歴は残っていた。生年まではわからないが、孫晧の時代に太守であったことから、世代的には朱誕の方が陸雲より上かもしれない。

ちなみに「呉郡の朱誕」という文言は『晋書』賀循伝にも見える。

(『晋書』巻68 賀循伝)

惟循與吳郡朱誕不豫其事。

※『呉志』賀邵伝の裴注では「同郡朱誕」となっている。

この記述は陳敏の乱が起きた頃(305年~)のものなので、朱誕はその時期にも存命していたことがわかる。303年に陸雲兄弟が命を落としたとき、孫恵が彼に手紙を送ることは可能だったということである。



2.光禄の朱誕

「淮南内史の朱誕」が陸雲が書を送った「朱光禄」である可能性は高そうだ。
だが、まだ断定はしかねる。この朱誕が光禄になったかどうか、これまでの情報ではわからないからである。

ここで、冒頭で述べた佐藤先生が指摘するところの『晋書』顧衆伝を改めて見てみる。

(『晋書』巻76 顧衆伝)

顧衆,字長始,吳郡吳人,驃騎將軍榮之族弟也。父祕,交州刺史,有文武才幹。衆出後伯父,早終,事伯母以孝聞。光祿朱誕器之。

「光禄朱誕」と確かに書かれている。呼称は「朱光禄」となるだろう。「与”朱光禄”書」にぴたりと当てはまる。

これまで提示してきた史料に登場する「朱誕」が同一人物であると結論付けた以上、『晋書』顧衆伝に登場する「光禄朱誕」もそうであるととらえたいところだが、もう一押し欲しい。

その手助けとなりそうな情報が『芸文類聚』及び『太平御覧』にあった。

(『芸文類聚』 巻86)

吳錄.朱光〈○太平御覽九百六十六光下有祿字.〉為建安太守.有橘.冬月樹上覆裹之.

『呉録』からの引用のようだが、「朱光為建安太守」という一文がある。これにはどうやら脱字があるようで、「朱光」の部分が『太平御覧』では朱光禄」となっているらしい。

(『太平御覽』巻966)

《吳錄·地理志》曰:朱光祿為建安郡,中庭有橘,冬月樹上覆裹之。

なっていた。
建安郡とは建安太守と同じ意味だろうから、二つの引用文を合わせてまとめると、「朱光禄為建安太守」となる。

引用元の『呉録』は、呉の張儼の息子とされる晋の張勃が私撰した呉の歴史書を指すと思われる。つまり、上記の逸文は呉の時代の話だと考えられるのである。
「朱光禄」の光禄は本名ではなく官名なので、『呉録』の逸文は、「編纂当時には光禄となっていた朱某が呉の建安太守であったときの話」なのだ。『捜神記』の「吳孫皓世,淮南內史朱誕,字永長,為建安太守。」という書き方と同じ。

では、『呉録』のいう「朱光禄」なる朱某は何者なのか?
あつらえ向きに『呉録』の逸文は「朱光禄」が建安太守になった経歴を持つ人物であることを教えてくれている。

”朱”光禄と呼ばれ得る、呉のときには建安太守となり、のち晋に仕えた人物。
それは、「淮南内史の朱誕、字は永長」に他ならない。
顧衆(274~346)の活動時期を考えても、顧衆伝に出てくる「光禄朱誕」は呉郡の朱誕(字永長)と判断していいだろう。

ようやくすべての朱誕、そして「朱光禄」がつながった。彼は淮南内史をつとめた後、何らかの経緯を経て光禄に任ぜられたようだ。時期としては東晋に入った頃であろうか。



3.まとめ

改めて情報をまとめる。

朱誕は字を永長といい、呉郡の人。呉朝で賢良に挙げられて議郎に累遷し、孫晧の治世では建安太守となった。晋に仕えて淮南内史をつとめ、後に光禄にのぼった。陸雲や孫恵、顧衆らと交流があった。

以上のことから、陸雲の「与朱光禄書」が指す朱光禄とは、佐藤先生のご賢察の通り、顧衆伝に出てくる「光禄朱誕」のことであると考える。
朱誕に陸雲や孫恵、顧衆らとの繋がりがあるのも同郷だからなのだ。故国を失い苦境に立たされた呉の者同士で助け合っていたのだろう。
さらに、東晋の干宝『捜神記』、葛洪『抱朴子』にも登場するあたり、当時は名の知れた重要人物だったのかもしれない。




参考文献:
(※1)佐藤利行「西晋文人関係論--陸雲と厳隠」広島大学大学院文学研究科論集.2001,第61巻,p1-8.

佐藤利行『陸雲研究』白帝社.1990.



(この記事は以前書いた記事「朱誕、字は永長」を書き直したものです。引用はすべて「維基文庫」から引きました)

2019年11月30日 (土)

孫魯育の改葬

孫峻に殺され石子岡に埋められた孫魯育を改葬したのは孫晧。これは『捜神記』と『建康実録』に記述がある。

(干宝『捜神記』第二巻)

吳孫峻殺朱主,埋於石子岡。歸命即位,將欲改葬之,冢墓相亞,不可識別。而宮人頗識主亡時所著衣服,乃使兩巫各住一處,以伺其靈,使察鑒之,不得相近。久時,二人俱白見一女人,年可三十餘,上著青錦束頭,紫白袷裳,丹綈絲履,從石子岡上半岡,而以手抑膝長太息,小住須臾,更進一冢上,便止,徘徊良久,奄然不見。二人之言,不謀而合。於是開冢,衣服如之。

維基文庫より引用

(『建康実録』)

元興元年…(中略)…以禮葬魯育公主

※元興元年は264年

 

孫晧の前の皇帝である孫休は、孫魯育らのことを理由に孫峻の棺を暴いて印綬を奪ったりしているのに、孫魯育を埋葬し直したりはしていない。
孫休にとって孫魯育は実の姉であり、皇后の実母でもある。先代の政治的混乱が原因となって無残にも石子岡に埋められた彼女について思いを馳せなかったとは思い難いのに、なぜだろうか。


おそらく、孫休は改葬しなかったのではなく出来なかったんだと思う。

『捜神記』によると、孫晧は孫魯育を改葬しようとしたけれど墓を識別できなかったそうだ。
孫魯育が殺害されたのは255年、孫休の即位は258年。3年も経っていたせいで、孫休もどれが誰の墓か判別できなかったのだろう。
孫晧が孫魯育の墓を見つけ出せたのは巫に霊視(?)させるという方法をとったからであり、孫休は巫に霊視させて姉の墓を識別したろ!とは考えなかったんだろうね。

ちなみに『捜神記』のこの逸話の一つ前に孫休と覡の話が載っている。孫休も巫や覡を信じていなかったわけではないみたい。



(この記事はツイッターで呟いたものをブログ用に一部加筆修正したものです。)

2019年11月26日 (火)

陸機「弁亡論」に出てくる人名と出てこない人名

陸機の「弁亡論」には、『三国志』呉書に立伝されている人物の名が多く挙げられている一方で、挙げられていない名も多い。


【『呉志』の列伝と「弁亡論」に列挙される人物表】
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「弁亡論」に名前が挙げられていないが『呉志』に立伝されている人
宗室全般、張紘、カン沢、程秉、厳畯、薛綜、徐盛、朱治、陸瑁、朱拠、吾粲、全琮、鍾離牧、周魴、胡綜、是儀、劉惇、諸葛恪、滕胤、濮陽興、王蕃、韋昭、華覈

「弁亡論」に名前が挙げられているが『呉志』に立伝されていない人
孟宗、丁固、范慎、鍾離斐、張惇、趙咨、沈珩

「弁亡論」に名前が挙げられていないが『呉志』に立伝されている人物は、附伝を含めるともっといる
張休、顧邵、顧譚、顧承、諸葛融、薛ク、薛瑩、唐固、朱異などなど

父子で「弁亡論」に名前が挙げられている人
張昭・張承、陸遜・陸抗、朱然・施績。祖父と孫なら賀斉と賀邵。歩闡は反乱した枠で名前が出てくるので、歩騭父子は他と毛色が違う


・韓当、歩騭などは子孫が魏に亡命・謀叛した。諸葛瑾の子孫は罪を得て族誅された。陸機は子孫の行いと当人への評価は切り離した上で「弁亡論」に取り上げている。作中に名前が挙げられていないのは子孫の行動が原因、とはならない。

・諸葛氏族誅の原因となった諸葛恪だが、陸機は自作「顧譚伝」の中で孫登の元に集った傑物として真っ先に彼の名を挙げている(『呉志』顧雍伝裴松之注)。陸機は諸葛恪を評価していなかったわけではないのだろう。「弁亡論」でいう孫亮期の「姦回」とやらに諸葛恪は含まれていないと思う。



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2019年11月21日 (木)

姻戚関係にあっても仲が良いとは限らない

姻戚関係にあるから仲が良い、はすべての人に当てはまるわけではない。

『晋書』華譚伝
戴若思弟邈,則譚女婿也。譚平生時常抑若思而進邈,若思每銜之。

 

「戴若思の弟・邈は華譚の娘婿だった。華譚はふだんから若思を抑えて邈を進めた。若思はいつもこれを銜んだ」

戴若思の弟は華譚の娘を妻にしており、この関係から華譚は義弟を優先したため、戴若思は華譚を恨んだという。
姻戚だからといって仲が良いとは限らないという晋代の一例。
こういう「縁戚だけど仲が悪い」という関係性の人たちが三国時代にもいたかもしれない。

というか、義理の親子兄弟になったからといって仲良しこよしになるわけじゃないのは現代でもそうなんだから、この二人が特別おかしいわけではないんだろうね。

なお、華譚も戴若思も広陵の人で、それぞれ父祖が呉に仕えていた。ただ呉の時代から両家に姻戚関係があったかどうかはわからない。なかったともいえないけれど記述がない以上はなんとも。


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2019年11月10日 (日)

呉の四姓の順番

細かい点だけど、某先生の本を読んでいて、「呉の四姓」を挙げる際に「陸、顧~」と陸氏を一番最初に挙げて書いているところが気になった。
私の知っている範囲の史料だと、「顧、陸~」と顧氏を陸氏より先に持ってきているイメージだったので。

『呉志』陸凱伝
「先帝外仗顧、陸、朱、張

『世説新語』政事
「檢校諸顧、陸役使官兵及(後略)」

同 賞誉
吳四姓舊目云:「張文、朱武、陸忠、顧厚。」
注、吳錄士林曰:「吳郡有顧、陸、朱、張,為四姓。(後略)」

『文選』巻28
呉趨行の注、張勃吳錄曰:(前略)四姓,朱、張、顧、陸也。

上に引いた5つの記述のうち、『世説新語』賞誉のものだけ「陸顧」の順番で(逆にすると顧陸朱張だ)、それ以外は「顧陸」という並べ方。顧氏を陸氏より先に挙げているものが多い。
この印象が残っていたから本での順番の違う書き方にちょっと違和感を覚えた。陸氏の人物の方が知名度が高いから~くらいの理
由かもしれないけど。

それと、順序が違うように見えて「顧&陸」「朱&張」という組み合わせはいじられていないね。たとえば「張、顧、朱、陸」みたいな順番は、引用したものの中には見られない。

これらの並べ方には意味があるんだろうか。
①家格の上下
②地理的な近さ
③ルーツの近さ
④語呂が良いから(発音などの関係)
等々、何かしらの理由がつけられるものなのかな。
たとえば親子兄弟も書くときはだいたい目上・目下の順だしちょっと気になる。


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2019年10月27日 (日)

呉帝・孫峻と皇后・孫魯班

『魏志』毌丘検伝裴注に引く『魏書』の「遂得入吳,孫峻厚待之」という部分について、ちくま訳の第4巻該当箇所では「かくて呉に入ることができ、〔呉帝の〕孫峻に厚遇された」と訳されている。
おそらく第4巻は『呉志』ではないということから、孫峻がどういう立場の人物だったかを補足しようとしてくれたのだろう。
それがなぜか呉帝になってしまった(笑)

孫峻は呉の帝ではないからこれは誤りではあるのだけれど、別にそれを非難するためにここで取り上げるわけではない。逆に、そう思われるような立場の人ではあったのかもなあと思う。
そして、「呉帝」孫峻ならば腑に落ちる記述が『呉志』にある。その点について覚書として簡単に書いておく。

(『呉志』孫峻伝)
峻素無重名,驕矜險害,多所刑殺,百姓囂然。又姦亂宮人,與公主魯班私通。


孫峻は権力を持つようになると宮人を姦乱し、公主の魯班と私通したという。
この記述、孫峻が呉帝であれば納得がいく気がする。なぜなら皇帝が宮人に手をつけるのは当たり前だから。

さらに孫魯班は、全夫人を積極的に孫権にすすめたいわば後見人。まだ幼いと思われる皇后・全氏に代わり皇后代理として後宮をおさめていたのではないだろうか。

皇帝と皇后は夫婦なのだから、男女の関係があっても何の不思議もないのである。

孫峻伝の記述はそういうことだったんだね。きっと孫魯班は母親の歩夫人にならって呉帝・孫峻に宮人を多く推進したのでしょう。


皇后・孫魯班の雲行きが怪しくなるのは呉帝・孫峻が崩御なさってから。なんと跡継ぎが二人も現れて、権力争いをするようになってしまったのだ。
跡継ぎの一人は孫亮、もう一人は孫綝。
皇后代理・孫魯班は弟の孫亮を支持し、ライバル孫綝の縁者である朱熊・朱損の殺害などを画策していく。

忘れてはならないのは、孫魯班はあくまで皇后代理であって、実際に皇后の座にいるのは全夫人という点である。
皇后が幼い時分には後見人として権勢をふるうことのできた孫魯班だったが、皇后が成長するにつれ不安を抱くようになっていった。この娘ははたして自分を尊重するのだろうか、と。
なぜなら皇后・全氏は孫亮の妃でありながら、彼と敵対する孫綝の従姉の娘でもあったからだ。

(『呉志』孫綝伝)
孫綝字子通,與峻同祖。(中略)亮內嫌綝,乃推魯育見殺本末,責怒虎林督朱熊、熊弟外部督朱損不匡正孫峻,乃令丁奉殺熊於虎林,殺損於建業。綝入諫不從,亮遂與公主魯班、太常全尚、將軍劉承議誅綝。亮妃,綝從姊女也,以其謀告綝。


(『呉志』妃嬪伝全夫人の条)
孫亮全夫人,全尚女也。(尚)從祖母公主愛之,每進見輒與俱。及潘夫人母子有寵,全主自以與孫和母有隙,乃勸權為潘氏男亮納夫人,亮遂為嗣。


(『呉志』妃嬪伝朱夫人の条)
建興中,孫峻專政,公族皆患之。全尚妻即峻姊。故惟全主祐焉。(中略)太平中,孫亮知朱主為全主所害,問朱主死意?全主懼曰:「我實不知,皆據二子熊、損所白。」亮殺熊、損。損妻是峻妹也,孫綝益忌亮,遂廢亮,立休。


孫峻と孫綝は祖父を同じくする従兄弟(いとこ)である。
全尚の妻は孫峻の姉である。全夫人の母親は孫綝の従姉である。
朱損の妻は孫峻の妹である。すなわち朱損の妻は全尚妻=全夫人母と姉妹であり、孫綝の従姉にあたる。


孫峻のときは孫魯班自身が孫峻と私通していたので立場は安定し、孫亮も幼く孫峻との権力争いには至らなかった。
しかし、孫峻が死んで孫綝が実権を握ってからは状況が変わる。
まず、孫綝と孫魯班には私的なつながりがなかった。少なくともそうとれる記述は見られない。さらに孫亮が成長したことにより、孫綝との間に確執が生まれたのである。

他方、孫亮が成長すると共に、全夫人もまた成長していった。
幼い頃から全夫人を可愛がり後見人的立場となった孫魯班だったが、孫亮と孫綝が対立するようになると雲行きは怪しくなっていく。全夫人の母親は孫綝の従姉だったからである。

成長した全夫人が実の母と後見人の孫魯班を天秤にかけた場合、どちらを重んじるか。
孫綝に権力が集中すれば自身の立場が脅かされる危険性があると孫魯班は考えたのだろう。

こうしたことから、孫亮が成長したこと、自身が孫綝と親密な関係を築けていないことを考慮して、孫魯班は実弟の孫亮へ積極的に関わるようになっていった。
孫亮が孫綝の一族の力を削ごうとするのは、立場を保持しようとする孫魯班にとっては得なことだったといえよう。朱熊・朱損殺害もそんな対立構造の中で起きた事件と思われる。そしてこのとき殺された朱損の妻こそが孫綝の従姉、すなわち全夫人の母親の姉妹だった。

『呉志』妃嬪伝朱夫人の条によれば、孫峻の妹を妻にもつ朱損が殺されたことで孫綝は孫亮を忌んだという。
ならば、朱損の妻の姉妹である全夫人の母親の感情は? 孫亮のみならず、事件に関わっていた孫魯班をも恨んだとしても不思議ではない。そして、母の感情が娘である皇后・全氏に影響を与える可能性は否定できないのである。

もはや皇后・全氏との関係が良好に保てるかどうかも楽観視できない状況になっていた。
だから孫魯班は孫亮の孫綝誅殺計画にも関与した。これにより孫亮政権における自身の影響力を強めようと意図したのだろう。孫綝の誅殺が成功すれば、孫亮は協力者を厚遇するはずだからだ。

結局この計画は成功しなかった。
事情を知った全夫人、もしくは全夫人母(『江表伝』の説)が孫綝に密告したためである。結果、孫亮は廃されて孫魯班は都から追放されたのだった。

孫亮と孫綝の仲が険悪になるにつれて、全夫人を通してその母と孫魯班もまた水面下で対立していった、かもしれない。

2019年10月 5日 (土)

魯王覇は優秀だったか?

孫権の息子である魯王孫覇は優秀だったとする主張を見たことがある。論拠は是儀と楊竺の発言である。しかしながら、彼らの言葉をもって魯王孫覇の素質を論ずるのには疑義がある。


1.是儀の上疏
まずは是儀の発言について。

(『呉志』是儀伝)
南、魯二宮初立,儀以本職領魯王傅。儀嫌二宮相近切,乃上疏曰:"臣竊以魯王天挺懿德,兼資文武,當今之宜,宜鎮四方,為國藩輔。宣揚德美,廣耀威靈,乃國家之良規,海內所瞻望。但臣言辭鄙野,不能究盡其意。愚以二宮宜有降殺,正上下之序,明教化之本。"書三四上。

上に引いた是儀の上疏を見ればわかるが、是儀には太子と魯王について降殺(※1)があるべきで、上下の序を正したいという考えがあった。単に孫覇を買って出鎮させるよう求めるだけならば書く必要のない文言である。おそらく是儀の主張の本命はこちら「愚以二宮宜有降殺,正上下之序,明教化之本」の方なのだろう。
太子と魯王の上下を明確にする、そのための手段として孫覇を国の藩輔とする=出鎮させるように主張しているのがこの上疏なのである。

(※1)『廣漢和辞典』によると「降殺」とは、順さがりに減らすこと。太子と王が受けていた当時の待遇を指して、序列づけるように言っているのだろう。

是儀は太子と魯王のことで危機感を抱いた。だからこそ孫覇を外に出すことで火種を消そうと図ったのだ。彼にそうした目的があったと踏まえて考えると、是儀が本心から孫覇の才能を発揮できるように取り計らったととらえるのは早計である。
孫覇を中央から遠ざけるという目的を達成するために「孫覇は優秀だから」という建前を持ち出したというのが実際のところではないか。

これは孫慮のときに丞相・顧雍を初めとする臣下たちがとった行動と同じである。顧雍らも孫慮の才能を認めたというよりは、孫権の孫慮への偏愛や皇后問題などを勘案した結果として太子孫登の地位を守るために孫慮を中央から遠ざけたものと考えられ、是儀はそれにならったのかもしれない。
孫覇を中央から遠ざけることは、孫和の立場を守ると同時に孫覇の身を守ることにも繋がるのである。


2.楊竺の主張
もう一つは楊竺の発言だが、こちらは正史『呉志』ではなく裴松之注『呉録』に記される。

(『呉志』陸凱伝注引『呉録』)
権時見楊竺,辟左右而論霸之才,竺深述霸有文武英姿,宜為嫡嗣,於是権乃許立焉。

楊竺についても是儀と同様、目的のための発言であると考えられる。
楊竺には孫覇を嫡嗣にするという目的があった。その目的達成のために孫覇には才能があるとして孫権を説得しようとしたのであり、本当に才能があったかどうかはこの発言をもって断定することはできない。

またこの記事の孫権の様子からして、孫権自身が孫覇を優秀であると考えていたとは言い難いように思う。はっきりと息子の才能を見抜いて評価していたならば、なぜ他人と議論する必要があるのだろう? 孫慮のときは、孫権自ら息子に才能があるとして可愛がった。ところが『呉録』のこの話からはそうした主体性が感じられない。
孫権としては孫覇の才を評価しかねて迷っていたのだろう。だからこそ楊竺は「孫覇は優秀だから」と強く主張したのである。そう言わなければ孫権に決断してもらえないと思ったのではないか。


3.まとめ
以上のことから、是儀や楊竺の言葉をもって魯王孫覇が優秀であったと決めつけるのは安易であると考える。
みなそれぞれに目的があった上で、目的を達成するべく孫覇を持ち上げた。そしてそれに乗ったのは他でもない孫覇自身だったのだろう。

ついでなので孫覇について述べたもう一人の人物、裴松之の言葉を以下に引用する。

(『呉志』孫和伝裴松之注)
和旣正位,適庶分定,就使才德不殊,猶將義不黨庶,況霸實無聞,而和爲令嗣乎?

(下線部:ちくま訳では「ましてや孫覇にはなんの良い評判もなかった」とある)

裴松之は後世の人間であり孫覇本人と面識があるはずもない。とはいえ正史のみならず多数の野史にも目を通した人物による評価であるため、意見の一つとして付け加えておく。


関連記事:
時系列と孫覇の年齢


2019年9月23日 (月)

姚敷という人物

呉において太常の位までのぼった姚信。彼の父親の名を「姚敷」だとする出典はなんだろうと気になっていたんだけど『新唐書』かな。

(『新唐書』巻74下)

姚姓,虞舜生於姚墟,因以為姓。陳胡公裔孫敬仲仕齊為田氏,其後居魯,至田豐,王莽封為代睦侯,以奉舜後。子恢避莽亂,過江居吳郡,改姓為媯。五世孫敷,復改姓姚,居吳興武康。敷生信,吳選曹尚書。

維基文庫より引用


姚信の一族については姚察・姚思廉のことは知っていたが他にも名前のわかっている人がいるんだね。

「遜外生」が陸遜の姉妹の子を指すとすれば、陸遜の姉妹が嫁いだ相手はこの姚敷ということになる。陸遜や顧邵に近い年代の人なんだろうか? そうだとすれば、息子の姚信は顧譚・顧承兄弟と年が近かったとも考えられるかも。
また、『新唐書』のこの情報からは、姚敷が呉朝において官位を得ていたかどうかはわからない。仕えたけれど書かれていないのか、仕えていなかったのか、仕える前に亡くなったのか。

ところで、裴松之は姚信の集を引いて陸鬱生のことは紹介しているのに姚信自身の情報は残していない。孫弘や袁夫人らについては僅かとはいえ補足しているのになぜだろう。
興味がなかったか、うっかり忘れたか、実はちゃんと注釈を入れていたのがどこかで抜け落ちたか。
姚信の子孫は六朝時代を通して続いており、裴松之自身も姚信の集を史料として引っ張り出しているのだから、姚信本人の情報だけ見つけられなかったというのはないように思うが。そして姚信は字をいくつ持ってるんだ。



関連記事:
時系列と姚信のこと
姚信と姚察と姚思廉
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