お保守
お保守でございます。
お保守でございます。
前回の投稿から一年経ちそうなので保守記事。
更新止まっててすんまそん😞
・三国志呉書巻64。滕胤がここに入るなら共に行動した呂拠もこの巻にいてもおかしくないと思うのに、実際にはそうじゃない。どうしてだろう?
【仮説】呂拠の父・呂範は巻56に立伝されている。だから、呂拠のことは呂範伝に附することができた。一方の滕胤は呂拠にとっての呂範のような人物がいなかった。
もしかしたら最初は滕胤伝自体がなくて、諸葛恪→孫峻→孫綝という孫亮期の執政者たちの伝に重要人物として登場するだけだったんじゃないか?それが後に孫晧が即位して皇后に滕氏(滕胤の同族)が立てられるに及び、滕胤もちゃんと立伝しようということになった。けれど完成させられず…。どうだろうな。
・孫休が滕胤・呂拠のことを持ち出したのは、孫綝を排除する理由付けとしてそれが一番都合が良く手っ取り早かったからだと思う。孫亮らの件を孫綝の罪としたら後釜で即位した孫休の立場がなくなるもんね。
同じく孫綝を排除したがっていた孫亮には滕胤・呂拠のことを口実にしようとした様子が見られない。これが少し気になった。もしかしたら滕胤・呂拠に対する認識が孫亮と孫休とでは違っていたのかも。というか、孫休が孫綝誅殺の際に利用したことで認識が変えられたのか。
孫亮期における滕胤・呂拠への認識は今とは正反対だった説。評価一転は孫休が名誉を回復させたことと、孫晧の皇后が滕胤の同族であることも関係しているのかも。
・仮に孫峻が長生きしたり、あるいは彼の急死後に滕胤が丞相になっていたら、成人した孫亮の嫌う相手が彼らになっていただけな気がする。滕胤は孫晧期の滕牧みたいな感じで。
・滕胤の評価が孫亮期と孫休・孫晧期とで違うのではという考えを何度かツイートしたけど、諸葛恪誅殺時の滕胤の動きに諸説あるのもそれが関係していたりするかな?評価が変動したせいで滕胤像がブレたとか。
・滕胤に関する記述って陳寿『呉志』よりも裴松之注『呉書』の方が美化されているなあ。というか『呉書』の美化部分をカットされているのか。
・晋の人である華譚は滕胤に殺された華融・華諝の子孫。華譚は滕胤に対して含むところがあったのかな?
孫休が滕胤らの名誉回復をしたとき、滕胤に殺された人物(華融父子、孫咨ら)の遺族にフォローはあったのかどうかが気になる。
・前に滕胤の謀叛に関する記述は貶められている説を見た気がするけど、首謀者の呂拠のあっさりした書かれ方を見るに、滕胤は名誉回復された上であの記述なのでは。つまりあれが当時の認識。孫休には孫綝を誅するために滕胤らを利用する理由はあっても、必要以上に美化する理由はなかったんだろうね。
・裴松之は『呉志』滕胤伝に『呉書』から引用した注を複数つけているが、その内容から考えるに『呉書』にも専伝か附伝かは不明だが滕胤の伝自体はあったんじゃないかと思う。ただ、裴注の『呉書』からの引用は『呉志』滕胤伝におさまる範囲の内容に留まる。滕胤に関する裴注は孫綝伝に入ってからの裴松之自身の言葉で終わる。この辺りを見ると、滕胤の最期まで滕胤伝として『呉書』に記されていたのなら裴松之は何かしら引用しそうではある。やっぱり『呉書』の時点で滕胤伝は未完成だったんでは。
自説は「もともと諸葛恪・孫峻・孫綝伝の中で重要人物として書かれていたところ、滕皇后が立てられたことにより滕胤伝として分けられることになった。でも韋昭が途中で死んだり国が滅んだりするなどして完成しなかった」なんだけど。
ココログくんがやばそうだから念のため避難場所を作っておいた。
まだ作業中だけどよければむこうも見てね。
シュレディンガーの雑兵
・『呉志』を読んでも孫綝は俺が俺がというタイプには感じない。むしろ周りの方が我が強そうな印象。たぶん、だから孫綝が引き継ぐことになったんじゃないかなあ。
・元はただの偏将軍で、孫峻執政期にも関与していた様子のない孫綝が、次は俺がやる~とひょっこり出てきて実権を握れるとは思えない。周囲のサポートがあったんじゃないのかな。異議を唱えたのが都から離れていた呂拠だけっぽいのも気になる。 孫綝については、体制維持したい孫峻ラインの人たちに引っ張り出された挙句に孫亮が反抗期になったので梯子を外されちゃった人という印象 。
・諸葛恪、滕胤、呂拠、孫峻は孫権に後事を託された。まず諸葛恪がトップになり、次に孫峻が躍り出た。じゃあ孫峻が死んだら次は当然滕胤か呂拠だよねとなるところをポッと出の孫綝25歳が取って代わったもんだから呂拠は怒って滕胤と組んだ。
この時点で孫綝は悪事を働いたわけじゃない。孫峻に代わったのは孫峻に後事を任されたから。滕胤を大司馬にして武昌へ向かわせたのは、呂拠らの意向を無視しているため刺激してしまったかもしれないが、これは前任者の呂岱が死んだという背景もあったとフォロー 。デビューと同時に重臣たちと権力闘争が起きたことで孫綝くん(25)は疑心暗鬼の道へと転がり落ちていったのだった……。 孫休は「じゃあなぜ二人も流罪か奴隷にしなかったんだ」と孫綝に言い返してるけれど、呂拠と滕胤の行動を見て流罪か奴隷で済ませられるかなあ。呂拠のとった行動が悪い意味で孫綝に大きな影響を与えたのかも 。
・創作物で孫峻と孫綝が一緒に登場して政変を起こす場面があったのを見て思ったけど、二人のセット感は後世のイメージなだけで、実際に孫綝のポジションにいたのは孫慮(孫憲)だったんだろう。なんとなくだけど、孫峻死後に誰が主導権を握るかという選択を迫られた際「あちらを立てればこちらが立たない」というジレンマが生まれたため、妥協案として”中立的立場”の孫綝が引っ張り出されたのではと想像している。
・孫峻(とその周辺人物たち)が健在だったら孫晧らはそのまま放置されてそう。孫晧らが孫休によって取り上げられたのは孫綝の存命中。孫綝自身は孫和父子に対して特に思うところはなかったんじゃないかと思う理由がこれ。孫綝自身が何も思っていなかったというか、孫峻が孫和を死なせたことと孫綝は無関係だから意識しようがなかったというか。
・『魏志』鍾会伝「懌兄子輝、儀留建業,與其家內爭訟,攜其母,將部曲數十家渡江,自歸文王」
全琮の孫は家族と争いが起きたため母を携え魏に奔った。家族より敵の方が安全だと思ったんだろう。全夫人もそうなのかな。「家族で争いが起きたため母を携え孫綝に奔った。その方が安全だと思ったから」
・孫亮が朱損らを殺した時、朱損妻の孫峻妹は夫の助命を身内に頼んだ可能性があると思う。相手は孫峻姉や孫綝が考えられるが、姉の場合は更に全尚をせつくだろう。結果、孫綝は動いたが全尚はたぶん動かなかった。姉妹にとっては助けてくれるのが孫綝で助けてくれないのが全尚だとこの時にはっきりした。孫峻姉の娘である全夫人も母らと同じ認識を持ったんだろう。加えて少し前には一族内で争訟が起きており、不信の念を抱いてもおかしくはない状況だった。
・『呉志』孫亮伝「九月戊午,綝以兵取尚,遣弟恩攻殺丞於蒼龍門外」
孫綝伝「輒以今月二十七日擒尚斬承。」「綝遣將軍孫耽送亮之國,徙尚於零陵,遷公主於豫章。」
孫綝が全尚を捕らえて零陵にうつしたことはわかる。
妃嬪伝「尚將家屬徙零陵,追見殺。」
これ、全尚を殺したのも孫綝なの?ワンチャン孫休説ないかな。孫休はやれる人だし。孫綝もやれる人だけど。
妃嬪伝「會孫綝廢亮為會稽王,後又黜為候官侯,夫人隨之國,居候官,尚將家屬徙零陵,追見殺。」
孫亮が候官侯に落とされたのは孫綝の死後(孫休伝)。
全尚らが追放されたのは孫綝の生前(孫綝伝)。
全夫人の記述は時系列がごちゃごちゃしている。
全夫人が追放されたのは孫綝の一族が誅殺された後という可能性はないのかな?全夫人は孫綝寄りの行動をとっているし。母親も、全尚のことは難しかっただろうが娘は守ってくれた可能性はある。だが孫休が孫綝を誅殺して以降はそれも出来なかっただろう。
・孫亮が孫奮や孫基を助けたのは孫綝を意識してのことだと思う。本流である孫亮の兄弟はボロボロなのに対して、傍流の孫綝は兄弟で一致団結していたから、対抗したかった。そこで対象となったのが孫亮の即位に不満を持っていそうな孫奮と、孫亮に敬意のなさそうな孫基なのが残念すぎるけど。
・孫亮は孫峻に腹を立てていたんじゃないかという気がしてきた。朱損らを殺した理由も「不匡正孫峻」らしいし(孫綝伝)。孫亮は自分の兄弟や甥らを取り立てているが、かつて彼の兄弟や甥らを殺したのは孫峻。含むところがなかったとは言えないのでは。孫峻の後を継いだ孫綝はそら目障りだろう。もし「孫綝ウザい」というのが先にあったとしたら、そこから「元を辿れば孫峻のせいじゃん」と悪感情を抱くようになったのかも。孫綝が言うようにこの頃の孫亮が後宮に関心を寄せていたとしたら、孫峻が宮女に手を付けていたのもまあ不愉快だろう。
・『呉志』孫亮伝には、孫亮が親政を始めると孫綝の表奏に対する難問が多くなったとある。孫綝へのイメージからどうせ孫綝の表奏に問題があったんだろうで済まされそうな記述であるが、表奏の内容が記録されていないため彼がどのような上奏をしていたかはわからない。
ただ、裴注『呉歴』には先帝孫権のようにできないと不平を言う孫亮の様子が記されている。孫亮は孫綝の意見を許可するだけの状況が不満だったのだ。そんな彼が親政を始めたなら、それまでの不満を孫綝にぶつけ、もうお前の言うことはきかんと反発したとしても不思議ではない。つまり孫綝への難問が多かったのは彼の意見に問題があったからとは限らないのである。孫亮親政前だって孫綝におかしな上奏があったならば可と書かなければ済む話。孫亮期における孫綝の表奏が記録にないのは、孫綝は極悪非道であるというイメージを崩さないためかもしれない。
・『江表伝』にある孫亮の孫綝誅殺計画の記述は孫亮を擁護しようとして全尚を下げている印象がある。正史の記述にしろこちらの記述にしろ全氏の人間から情報が漏れたのは変わらない。孫亮は全尚をマヌケと罵ったが、その言葉は孫綝と姻戚関係にある全尚系の人間を計画に加えた彼に返ってくるのでは。なお、『建康実録』の書き方だと全紀から事が漏れたみたいに見える。『呉志』は全夫人、『江表伝』は全尚。いずれにせよ孫綝の従姉とつながりの深い人たちだね。
他に『江表伝』が孫亮を擁護しているのではと思う理由は、この中にある孫亮が全紀に語ったという話の内容が、孫綝の従姉が密告したという結果ありきで書かれたもののように感じるから。孫亮は賢いからちゃんと孫綝の従姉を警戒してたんですよ、という具合に。
・『呉志』孫奐伝「及孫綝誅滕胤、呂據,據、胤皆壹皆之妹夫也,壹弟封又知胤、據謀,自殺。綝遣朱異潛襲壹。異至武昌,壹知其攻己,率部曲千餘口過將胤妻奔魏。」
孫壱が孫綝に警戒されていたっぽいのって、妹が呂拠・滕胤に嫁いでいたのが関係しているだろうけど、弟の孫封が滕胤・呂拠の謀を知っていたことの方が重要そう。
これは『呉歴』の説だが、かつて孫峻が孫和を殺したとき、桓慮という人物が孫峻を殺して孫英(孫登の息子)を立てようと企てた。孫峻周辺に業を煮やした呂拠は桓慮と同じことをしようとしたんじゃないか?すなわち孫綝を殺して孫壱を立てようという計画を立て、呂拠はそれを孫封らに打ち明けていた。だから彼らが敗れると共謀者たる孫封も自殺した。後に孫壱が魏に逃れるとき妹も同行しているが、その妹は呂拠と共に孫綝と対立した滕胤の妻だった人だ。孫綝が孫壱を狙った理由は、彼女が孫壱の近くに居た状況が鍵なのかもしれない。
孫英は孫権本流だけど孫壱は傍流?そんなの孫峻ラインをどうにかした後に調整すればいいので些末な問題よ。ところで孫綝って孫峻の従兄弟であるのみならず皇后の親族、つまり外戚でもあるよね。「孫峻ライン」にはそこまで含まれます。
・孫休が滕胤・呂拠のことを持ち出したのは、孫綝を排除する理由付けとしてそれが一番都合が良く手っ取り早かったからだと思う。孫亮らの件を孫綝の罪としたら後釜で即位した孫休の立場がなくなるもんね 。一方、同じく孫綝を排除したがっていた孫亮には滕胤・呂拠のことを口実にしようとした様子が見られない。これが少し気になった。もしかしたら滕胤・呂拠に対する認識が孫亮と孫休とでは違っていたのかも。というか、孫休が孫綝誅殺の際に利用したことで認識が変えられたのか。
・『抱朴子』外篇良規は結局、霍光らの行いを否定しているし、孫綝の名を出したのは近い時代の事例だからかと思う。のだけど、それでも孫綝のことを槍玉に挙げて叩いているわけじゃないのは、「自分の父祖が使えた国の人だしあまり悪し様に言いたくないな」という心理が働いたりしたんだろうか。廃立を非難しつつ実は孫綝のその行いが結果的に葛洪の一族の得となった(孫休の代に昇進した等)という裏があれば面白いな。葛洪の一族がどうかはわからないが、孫晧らにとってはそうだと言える。逆に孫綝が健在だったら滕后は誕生しなかったかも。
・葛洪が『抱朴子』外篇良規で孫綝の名前を挙げたのって、孫綝本人がどうこうというより「三国時代に天子を廃立した人物」をほのめかしたかったのかな。葛洪もさすがに本命の名前は出せないから代理的な 良規の内容的には周公、伊尹、霍光だけで事足りていて(特に霍光)、孫綝の名前を出す必要性はないと感じた。でも葛洪は彼の名を挙げたわけで、そこに意図があるとしたらと考えると前述の理由などが思い浮かぶ。
・『捜神記』巻1には孫氏政権の中心人物の話が収録されている。この掲載順が、孫策が于吉に祟られる話→孫権が介琰に袖にされる話ときて次にくるのが孫綝が徐光に祟られる話というところがじわじわくる。孫権の後継者は孫綝だったんだね。
(この記事はツイッターに呟いた孫綝関係の話題をまとめるために一部加筆修正したものです)
『呉志』妃嬪伝歩夫人の条(以下歩夫人伝)に記される皇后関連の記述について考える。
歩夫人について語られるとき情報のほとんどが歩夫人伝に依拠するのであるが、その歩夫人伝の記述を無謬のものとして扱う向きがあるように感じたことが動機である。
また、史書の記述から些か離れたイメージが独り歩きしているようにも感じられる。たとえば歩夫人は「孫権最愛の妻」とされることがそれに該当する。このイメージは歩夫人伝の「寵冠後庭」がもととなっているのだろう。確かに『呉志』孫登伝にも「後徐氏以妒廢處吳,而步夫人最寵。」と記されることから、歩夫人が孫権の妻妾の中で最も盛んな寵愛を受けていた時期はあったと考えられるが、その時期が歩夫人が没するまで続いていたかどうかはわからない。くわえて孫権の生涯で最も愛した女性であったかどうかも断定はできない。歩夫人の後に最も愛情を傾けた女性が出現しなかったと言い切れるだろうか。孫権の寵愛ぶりやその美貌ぶりが後代に伝えられるのは、むしろ潘夫人である(『拾遺記』)。ゆえに歩夫人が孫権最愛の女性であると断言されるのには違和感を覚えるのである。
こういった歩夫人の記述やイメージに対する違和感や疑問は、言語化するためにこのブログでも何度か記事にしてきた。
今回は上述のような点も併せて、これまでのまとめのつもりで『呉志』歩夫人伝の皇后関連の記述を改めて見ていきたい。
1.孫権は十余年、歩夫人を皇后にしたがっていたか?
(『呉志』歩夫人伝)
夫人性不妒忌,多所推進,故久見愛待。權為王及帝,意欲以為后,而羣臣議在徐氏,權依違者十餘年,然宮內皆稱皇后,親戚上疏稱中宮。及薨,臣下緣權指,請追正名號,乃贈印綬,策命曰:「惟赤烏元年閏月戊子,皇帝曰:嗚呼皇后,惟后佐命,共承天地。虔恭夙夜,與朕均勞。內教脩整,禮義不愆。寬容慈惠,有淑懿之德。民臣縣望,遠近歸心。朕以世難未夷,大統未一,緣后雅志,每懷謙損。是以于時未授名號,亦必謂后降年有永,永與朕躬對揚天休。不寤奄忽,大命近止。朕恨本意不早昭顯,傷后殂逝,不終天祿。愍悼之至,痛于厥心。今使使持節丞相(醴陵亭侯雍)〔醴陵侯雍〕,奉策授號,配食先后。魂而有靈,嘉其寵榮。嗚呼哀哉!」葬於蔣陵。
皇后関連の記述とは上記の文章を指す。
まず気になるのは、孫権は十余年にも渡り歩夫人を皇后にしたいと思っていたという部分である(下線部)。
率直に、悩んだ時間が長すぎると思う。
この時期における孫権の他の行動や、『呉志』潘夫人伝に引く『呉録』袁夫人の記事「及步夫人薨,權欲立之」(※1)という記述と比べても、孫権の決断力が歩夫人の立后に関しては鳴りをひそめているのは気になるところだ。
実際には孫権が歩夫人を立てることを考えたのは「及薨,臣下緣權指,請追正名號」このときが初めてだったのではないだろうか。そうして孫権の指に縁って臣下らは歩夫人に名号を追正するように請うという手続きを踏んだ。ただそれだけのことではなかったか。
思うに、歩夫人伝では皇后を追贈する際の策命にある内容を遡及して適用したのだろう。
策命には「歩夫人は立派な淑女だった。多事多難な世だから謙遜して名号を授けなかったし、またきっと歩夫人の寿命は長く、ずっと共にやっていけると思っていた。だが歩夫人は死去した。本意を早く明らかにしなかったことを恨む。いま号を授ける」といったことが書かれている。「本当は前から歩夫人を皇后に立てたいと思っていた」と読むことのできる内容である。
この「本当は前から歩夫人を皇后に立てたいと思っていた」という策命の内容と「群臣の議は徐夫人にあった」という当時の状況をすり合わせた結果、「權為王及帝,意欲以為后,而群臣議在徐氏,權依違者十餘年」という書き方になったのだろう。
つまり、孫権は歩夫人の生前から皇后にしたいと思っていたため死後に位を追贈したのではなく、死後に作られた策命の内容に沿って孫権が歩夫人の生前から皇后にしたいと思っていたということになった。実際の時系列が、歩夫人伝の叙述により逆転したのである。
238年(赤烏元年)の歩夫人皇后追贈の際に下された策命が後に編纂の始まる『呉書』にも流用され、「意欲以為后…權依違者十餘年」と書かれるに至った。さらに歩夫人伝の末尾に該当の策命が載せられたことで、実は事の順序が前後しているにも関わらず、孫権が十余年に渡り歩夫人を立てたいと思っていたとする記述は説得力を得た。
これこそが歩夫人伝の皇后関連の記述が無謬のものとして受け入れられる原因の一つなのではあるまいか。策命という証拠があるから記述は真実なのだ、と。そしてそれゆえに策命に書かれた内容もまた孫権の偽りない本心であると受け止められることになったのだ。
しかし、歩夫人死後の238年に語られたことが果たして十余年の真実であったと言えるのか。歩夫人伝の記述自体が策命に沿った後付けのものならば、策命の言葉が十余年の真実であるとは限らない。
それに、あれが孫権の嘘偽りのない気持ちであると受け止めるには歩夫人の立后は複雑な背景を抱えていた。
太子や群臣から支持された徐夫人という皇后候補が存在した以上、この策命の内容は徐夫人を立てない(あるいは立てなかった)(※2)ことへの説明という側面も持っていたとは考えられないだろうか。あるいは歩夫人を中宮と呼んでいた親戚への、存命のうちに立てなかったことへの弁明といった一面がないとも言えまい(※3)。この策命が孫権の本心を素直に述べたものであるといえるほど事は単純ではないように思われる。
歩夫人に皇后が追贈されたことは事実だ。けれども、歩夫人伝の記述を鵜呑みにしてその理由や経緯が語られるのは大いに疑問である。
孫権は十余年愛する歩夫人を皇后にしたいと切望したがそれは叶わず、死後ようやく皇后にすることができたという見方は物語としては美しい。
だが実のところは歩夫人を立てることに積極的意志はなかったとする方が、生前に立后しなかった事実や裴注『呉録』袁夫人の記事と照らし合わせてもしっくりいくし、「孫権は袁夫人を立てたいと思っていたが歩夫人存命中はそれができなかった」といった新たな見方も可能となろう。
そもそも皇后の位を与えるための策命で対象者を良く書かないわけがなく、歩夫人伝の終わりにその策命が引用された以上、歩夫人に関する記述がその内容と違うものになるはずもない(※4)。
(※1)裴注『呉録』「袁夫人者,袁術女也,有節行而無子。權數以諸姬子與養之,輒不育。及步夫人薨,權欲立之。夫人自以無子,固辭不受。」
(※2)徐夫人の没年は不明。そのため歩夫人より先に死去した可能性も考えられる。
(※3)「親戚上疏稱中宮」中宮と称したということは孫権が尊号を称して以降の行動だろう。
(※4)『呉志』妃嬪伝に策命が載るのは歩夫人伝のみ。
2.歩夫人が嫉妬せず多くの女性を推進したのは事実か?
夫人性不妒忌,多所推進,故久見愛待。權為王及帝,意欲以為后,而羣臣議在徐氏,權依違者十餘年,然宮內皆稱皇后,親戚上疏稱中宮。
下線部の記述は具体的なようでそうでないことは以前から触れてきた。
歩夫人よりも後に孫権の妻妾となった女性は『呉志』に複数確認でき、中には妃嬪伝に記録を残す者も存在するにも関わらず、歩夫人に推進されたといった記述は裴松之注を含めて一切ない。
潘夫人などは譖害した相手について「袁夫人等」と固有の名が書かれているのであって、歩夫人が推進した女性の名も書こうと思えば書けたはずである。
然るに「多」くの人を推進した、「皆」が皇后と称したと、歩夫人の記述は具体性に欠くのは何故か。
まず、歩夫人の人柄について記す「夫人性不妒忌,多所推進,故久見愛待」という文章は、直後に続く「權為王及帝,意欲以為后」と結びつくものだろう。
1では238年の策命に沿って「孫権は十余年に渡り歩夫人を皇后にしたいと思い悩んだ」と後付けされたのだと結論付けた。では何故孫権は歩夫人を立てたいと思っていたのか?その問いへの答えが歩夫人の人柄に関する該当の記述であろう。歩夫人の淑やかな人格が愛され皇后にも望まれたのだという文脈で書かれたと考えられる。
そうなると、1で述べた「權為王及帝,意欲以為后,而羣臣議在徐氏,權依違者十餘年」という記述同様、こちらも皇后追贈という結果を踏まえた上で組み込まれた可能性が高い。
とはいえ、もしもそうだとして、何故策命には見えない「嫉妬せず多くの他人を推薦した」という内容で書かれたのか。策命に書かれた文言をそのまま流用することもできたと思うが、「嫉妬しない」を強調するように書かれたのには何か理由があったのだろうか。
薄井俊二「前漢成帝期の后妃論をめぐって―前漢末期における儒家的后妃像・皇后像の提案―」によると、前漢成帝期に「后妃論」と呼びうる議論が数多く見られ始めたという。その中で薄井先生は、当時理想的な后妃像として考えられていた要素の一つに「皇帝の寵愛を独占しない、嫉妬をせずに側室を夫に数多く薦めることも求められている。」と指摘している(斜体部分は引用)。
前漢同時期の劉向は風俗の乱れを憂いて『列女伝』を著し、その中で賢明な后妃の一人として見事に後宮を統率した湯妃有㜪を書いた。
また、後漢の班固は『漢書』の中に班婕妤の記事を残し、彼女の行動として帝のために侍女を差し出す姿を書き残した(※1)。班婕妤は班固の親戚であることを考えるに、その行動は嫉妬せず他者を進める徳行として記されたものだろう(※2)。
そして後漢末の鄭玄は「毛詩鄭箋」の中で『詩経』周南・関雎について「后妃は君子のために淑女を進めんと願い、その淑女(三夫人・九嬪)がより位の卑しい衆妾を和好する」と読み、「皆な后妃の徳に化され、嫉妬せざるを言う」と注釈し、後宮の秩序が后妃の徳によって保たれていたとする(※3)。
前漢成帝期から後漢末にかけて見られる理想的な后妃像と、『呉志』が記す「嫉妬をせず、他人を多く推薦し、宮内では皆が皇后と称した」という歩夫人の人物像は一致しているといってよい。
これについては歩夫人の実際の行動が理想の后妃像と一致していたのだと捉えることもできようが、しかし先に述べたように歩夫人のこうした記述には不明瞭な部分がある。その意味するところはこういうことではないだろうか。
理想の后妃像を歩夫人に当てはめたのだと。
そう考えれば「多所推進」と個人名の挙がらぬ理由も見えてくる。歩夫人に推進された女性たちはたまたま名前が書かれなかったのではない。事実ではないために書ける名前がなかったのだ。
そして「然宮內皆稱皇后」もまた、衆妾を和合させることができるという理想の后妃像に基づいて書かれたものと解することができよう。
つまるところ、「夫人性不妒忌,多所推進,故久見愛待。權為王及帝,意欲以為后,而羣臣議在徐氏,權依違者十餘年,然宮內皆稱皇后,」とは「歩夫人は皇后にふさわしい資質を備えており、孫権は理想的な后妃である彼女を立てたいと思っていて、宮内の者も夫人の徳に教化されて皇后と称していた。だから死後に皇后を追贈されたのだ」という理由付けのための文章なのである。
歩夫人伝を編むにあたり、美辞で連ねられた策命の中の抽象的な人物像では説得力に欠けるため、より皇后を追贈されるにふさわしい人物像の提示が求められた結果であろう。
しかし、理想の后妃像を当てはめたに過ぎないとすれば、孫権が歩夫人を皇后にふさわしいと思っていたかはもとより、彼女の人柄ゆえに長く愛されたのだという記述にも疑義が生じる。
歩夫人が重んじられていたのなら、それは彼女の資質によるのではなく、もっと別の理由があったのだろう。
(※1)『漢書』巻97下「婕妤進侍者李平,平得幸,立為婕妤。」
(※2)前掲薄井俊二「前漢成帝期の后妃論をめぐって―前漢末期における儒家的后妃像・皇后像の提案―」『中国哲学論集』24,1998年
(※3)保科季子「天子の好逑―漢代の儒教的皇后論―」『東洋史研究』第61巻第2号,2002年。字が斜体の文章はすべてこちらの論文から引用させていただいた。
3.なぜ歩夫人の記述はこうなったのか?
1、2で見てきたように歩夫人伝の皇后関連の記述は全体的に皇后追贈という結論に向かって叙述されている。さらにその筆致は歩夫人がいかに皇后にふさわしくその資質を皆に認められていたかということに重点が置かれているようである。
もう一歩踏み込んで想像すると、歩夫人伝を編纂するに際し何か参考にした文献があるとすれば、それは劉向『列女伝』湯妃有㜪の逸話が該当するのではないかと思う(※1)。
『列女伝』そのものの後世への影響力、后妃について書いたものでは湯妃有㜪の記事が簡潔で取り入れやすいのと、「毛詩」にて后妃の徳をうたうとされる周南・関雎の詩が含まれていること、鄭玄の周南・関雎の注釈も『列女伝』湯妃有㜪の解釈に基づくとされ前例となっていることからそのように考えた。
明確な裏付けがあるわけではない想像だが、考察の一助になることを期待し、そう仮定した上で以下考えてみたい。
有㜪氏は湯王の妃として、九嬪(後宮の女官たち)を統率し、後宮に秩序をもたらした。誰一人嫉妬して秩序に背く者はなく、そうして王の功業を完成させたのである。
君子の思うに、妃は〔ものごとの道理に〕明らかで秩序を生み出した。「詩」に、「たおやかな淑女は、君子の好きつれあい」というが、それは賢女が君子のために衆妾を和合させることができるという意味だ。それこそ有㜪氏のことにほかならない。
中島みどり『列女伝1』平凡社,2001,p91-94.
殷を創始した湯王の妃である有㜪氏は立派に内をおさめて王業を完成させたという。
訳者の中島先生は湯妃の記事について「叙述内容に具体性、固有性がまったくない。おそらくは劉向の作文。」と注釈される(斜体部分は引用)。
そうしたところも含めて湯妃の記事は『呉志』歩夫人伝を彷彿とさせるのであるが、仮に湯妃の記事を参考にしたとして、大皇帝の后たる歩夫人を書くにあたりそのような潤色が加えられるのはある意味当然かもしれない。
しかしそうなると気になるのは、同じく孫権の皇后である潘夫人については筆誅を加えるが如き書きぶりであることだ。
(『呉志』歩夫人伝)
夫人性不妒忌,多所推進,故久見愛待。權為王及帝,意欲以為后,而羣臣議在徐氏,權依違者十餘年,然宮內皆稱皇后,
(『呉志』潘夫人伝)
性險妒容媚,自始至卒,譖害袁夫人等甚眾。權不豫,夫人使問中書令孫弘呂后專制故事。侍疾疲勞,因以羸疾,諸宮人伺其昬臥,共縊殺之,
『呉志』はいう、「歩夫人は嫉妬をせず、他人を推薦するところ多く、宮内の者は皆彼女を皇后と称した」と。
『呉志』はいう、「潘夫人はよこしまで妬み深く、袁夫人等を譖害すること甚だ多く、諸宮人に殺害された」と。
『呉志』に記される孫権の二人の皇后はまったく正反対の人物像であり、皇后関連の記事を照らし合わせるとその対照的な様は明らかである。
試しに『列女伝』湯妃有㜪の記事を下敷きにして比べてみると、
「歩夫人は嫉妬せず湯妃のように後宮を統率し、秩序をもたらし、ゆえに皆から皇后と呼ばれた」
「潘夫人は嫉妬深く湯妃のように後宮を統率することができず、秩序を乱し、ゆえに諸宮人に殺害された」
このような構図が浮かび上がる。
歩夫人の方が潘夫人よりも皇后にふさわしく湯妃のような君子の好きつれあいであったと誰もが認識するだろう。
潘夫人のみならず徐夫人も「嫉妬を以て廃された(以夫人妒忌,廢處吳)」として、歩夫人の「嫉妬しないので長く愛待された」という記述と対比的な書き方がなされている。
実際に徐夫人と潘夫人は嫉妬して問題を起こしたからこう書かれ、歩夫人にはそうした出来事がなかったためにたまたま対照的な記述になったのだろうか?
そうではあるまい。徐夫人と歩夫人は皇后の座をめぐり争ったライバルであり、潘夫人は孫権の妻妾の中で唯一存命中に立てられた皇后だ。意図的に対比する形で書かれたとしてもおかしくない関係性といえよう。こうした間柄を考えるに、三人の比較するような記述が単なる偶然と片付けることはできない。
実は『呉志』妃嬪伝に記述のある女性の中で「妒(正確には妒忌、険妒)」という言葉が使われるのは孫権夫人の徐夫人・歩夫人・潘夫人の三名のみである。
このうち徐夫人・潘夫人については悪い意味で使われ、歩夫人だけが良い意味で使われる。「嫉妬しない」というのが歩夫人の記述において重要なファクターである以上これはかなり作為的だ。
2で述べたような「嫉妬せず他人を進めるのが理想的な后妃」という価値観に沿えば、嫉妬する徐夫人・潘夫人は后妃にふさわしくない。すなわち皇后にふさわしくない人物であり、ただ嫉妬しない歩夫人だけが皇后にふさわしいということになるのである。
おそらく、彼女たちの皇后関連の記述の意図はそこにあるのだろう。
嫉妬を以て廃された徐夫人は孫権から皇后にふさわしいと認められなかった。
嫉妬をして後宮の秩序を乱した潘夫人は皇后にふさわしくなく宮内の者から認められなかった。
嫉妬をせず孫権からも宮内の者からも認められた歩夫人こそ大皇帝の皇后にふさわしいただ一人の女性である。
三人の記述にはこのような強烈なメッセージが込められているように感じられるのだ。
徐夫人伝・歩夫人伝・潘夫人伝の皇后関連の記述はただ単に事実を叙述しただけの平面的なものではなく、歩夫人を称揚するための立体的な構造を持つといえよう。
それでは、何故そうなったのか?
正史『三国志』の編者である陳寿には孫権夫人についてそのように格差をつけて書く理由はないだろう。となれば、陳寿が参考にしたと考えられている『呉書』の時点でそうなっていたことになる。
しかしながら、『呉書』編纂者たちにしてもそのような書き方をする動機があるかどうか。
元々孫権の妃であり息子を養育し太子や群臣に支持された徐夫人と、皇帝を生み存命中に正式な皇后となった潘夫人を貶めてまで、死後に皇后を追贈されたに過ぎない歩夫人を美化する理由が彼らにあったとは考えにくい。
先に述べたように、『呉志』妃嬪伝において「妒」という言葉は徐夫人・歩夫人・潘夫人だけに使われる。
「妒」が使われない三人以外の孫権夫人である二人の王夫人は、子孫である孫休・孫晧が即位し追尊したことで妃嬪伝に記されたのであろうから、彼女たちに関しては少なくとも孫休即位以降に書かれたはずだ。その記述は皇帝の(祖)母であるにしては来歴を叙述するだけの簡素なものであり、また孫休・孫晧に自身の(祖)母を差し置いてまで歩夫人を称揚する理由はないだろう。
こうしたことと、徐夫人・歩夫人・潘夫人の関係性、三人の対照的な伝の内容、『呉書』の編纂が韋昭らに託された孫亮即位時には三人とも没していたことなどから、「妒」が用いられる三人の記述は同時期に書かれたと推測する。そしてそれは孫休母の王夫人が追尊されるよりも以前、すなわち孫亮期に成立した可能性が高い。
思うに、歩夫人にはその存命中に彼女を中宮と称する「親戚」が存在した。孫亮期においてはそうした人々への配慮があったのではないだろうか。
班固が親戚の班婕妤を理想的な后妃の姿で描いたように、歩夫人もまた親戚が望む「大皇帝に認められた唯一の皇后」という理想的な姿で書かれたのではなかったか。
逆に徐夫人は歩夫人とは異なり親類縁者が高位高官にのぼったわけではないために、名誉回復がされぬまま終わることとなったのである。
潘夫人に関しては、息子の孫亮が即位して至尊の存在となった。だが、即位したときの孫亮はわずか十歳であり、実権を握ったのは周りの執政者たちだった。後に親政を始めたものの約一年後には十六歳で廃位されている。しかもその時期には諸葛誕の乱が発生し、その後も孫亮にとっては目の上の瘤ともいえる孫綝をどうにかすることが目下の急務であったろう。
そのような状況もあって結局潘夫人も名誉回復がされぬままの状態で記述が陳寿の『三国志』へと引き継がれることになったのだ。もしも孫亮が廃位されず帝位に在り続けていたならば、潘夫人の記述も今とは違った内容になっていたはずである。
こうして妃嬪伝の徐夫人・歩夫人・潘夫人の記述は編纂当初のまま形を変えることはなかった。
このことは、孫亮期に書かれた記事がそのままの形で呉滅亡まで残され、そうして現行の正史『三国志』にも受け継がれたケースがあることを示すものではなかろうか。
(※1)『太平御覧』所収『列女伝』湯妃有㜪の逸文では現行のものと異なる部分(脱文?)があるようだが、湯妃が後宮を訓化した点に異同はない。(下見隆雄「「列女傳」注釈及び解釈Ⅰ」1983年)脱文がある可能性については中島先生も前掲書の注釈において指摘されている。
4.まとめ
歩夫人について語られるとき依拠するところは『呉志』歩夫人伝の記述がすべてだった。
その伝の内容からか、孫権と歩夫人のいわばラブストーリーとして―しばしば他の夫人たちを踏み台にして―消費される傾向があり、その叙述について深く立ち入られることがあまりなかったように思う。
そこで自身の疑問や違和感の正体を確かめるために今回改めて歩夫人伝について考えたのであるが、そのまとめは以下の通りである。
全体的に歩夫人伝の記述は歩夫人が皇后を追贈されるという結果に向けての叙述となっている。
まず、238年に孫権が歩夫人に皇后を追贈した。その際に出された策命には「本当は前から歩夫人を皇后に立てたいと思っていた」と読める内容が書いてあった。後に編纂が始まる『呉書』にその策命が流用され、群臣の議は徐夫人にあったという当時の状況とすり合わせて、孫権が歩夫人の生前から十余年に渡り彼女の立后を望み思い悩んでいたかのように書かれることになった。
くわえて「嫉妬をせず他の女性を夫に薦める」「衆妾を和合し後宮を統率する」という理想的な后妃像を当てはめることにより、歩夫人が皇后にふさわしい資質を備えた人物でありそのため孫権や宮内の者からも認められて死後に皇后を追贈されたのだという理由付けがなされた。
そのような記述になったのは、ただ歩夫人が皇后を追贈されたために潤色されたわけではなく、歩夫人を称揚しようとする明確な意志が働いていたからであった。
そしてその意志は、ただ歩夫人を美化するだけに留まらない。
「妒」という言葉を用いて歩夫人を称揚する一方、生前のライバルである徐夫人と、死後のライバルである潘夫人を皇后にふさわしくない人物として書き、歩夫人こそが孫権をはじめ宮内の者すべてに認められたただ一人の大皇帝の皇后という構図を作り出したのである。これこそが歩夫人の立后を望んだ者の理想的な在り方だったからだ。
歩夫人伝に書かれる大皇帝の好逑、最愛の女性といった歩夫人は、真実の姿ではないのだろう。
参考文献:
薄井俊二「前漢成帝期の后妃論をめぐって―前漢末期における儒家的后妃像・皇后像の提案―」『中国哲学論集』24,1998年
保科季子「天子の好逑―漢代の儒教的皇后論―」『東洋史研究』第61巻第2号,2002年
中島みどり『列女伝1』平凡社,2001年
下見隆雄「「列女傳」注釈及び解釈Ⅰ」広島大学文学部紀要 43(特輯号1), p5-194,1983年
テキスト引用元:
漢籍電子文献資料庫
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孫権の本命は袁夫人
雑感:
・孫権の最初の妃である謝夫人については、「妒」という言葉が用いられないために本記事では取り上げなかった。ただ謝夫人の記述そのものは「妒」と表現され得るものである印象を受ける。
・歩夫人を正室格であったとする意見を見たことがあるが論拠が気になる。『呉志』の記述から、孫権は徐夫人を廃した後は妃を納れなかったとみられる。こうした状況の中で歩夫人の立場がどういうものであったかはよくわからない。甘夫人は劉備の嫡室がしばしば喪われる中で奥向きの仕事を代行していたというが(『蜀志』先主甘皇后)、だからといって甘夫人が正室格であったと言われるだろうか。ましてや歩夫人には甘夫人のような行動をとったという記述はないのだから。これも独り歩きしたイメージの一つだろう。
・歩夫人が夫人と書かれるのは『三国志』において呉の皇帝が皇帝扱いされないために妻たちも皇后扱いされていないだけで、歩氏が生前に夫人の位についていたというわけではないだろう。だから本文中に「歩氏を立てて夫人とした」とは書かれない。これは『呉志』妃嬪伝に記される他の女性たちも同様である。
・孫権の息子孫登は209年生まれ、孫慮は213年生まれ。さらに歩夫人の所生である孫魯班・孫魯育の間には異母の姉妹がいたという(『呉歴』)。このことから、歩夫人が最も寵愛を受けていたであろう時期であっても孫権には他に目をかけていた女性がいたと考えられる。くわえて孫権の歩夫人への寵愛は220年以前に薄れつつあったのではないかという考えは以前述べた。
・徐夫人は孫登を養育した。そのため孫登から母と認識されたのであるが、そもそも徐夫人が孫登を養育したのは夫である孫権の指示による。徐夫人は孫登の母としてのみならず、孫権の妻としての務めもしっかり果たしたといえるのではなかろうか。太子孫登が徐夫人を支持していたことなど、歩夫人に都合の悪いことは妃嬪伝には書かれていないという疑問については以前述べた。
・『資治通鑑』の注において胡三省は「潘后殺害は用事の臣の為す所(斯事也,實吳用事之臣所爲也。)」との見解を示した。潘夫人・孫亮が皇后・太子の座についたのは彼女たちの力によるのではなく、後ろ盾となった者たちの助力があってこそだろう。そうでありながら孫権の崩じた後に呂后の故事にならい称制への意欲を見せたのなら、それは協力者からすれば潘夫人の裏切り行為と映ったかもしれない。潘夫人の死と手厳しい記述の原因にはそうした背景も関係するか。
・韋昭、周昭、梁広、薛瑩、華覈は諸葛恪によって『呉書』編纂を命じられた(『呉志』韋曜伝)。諸葛恪が誅殺されたことで彼と親交のあった聶友や滕胤は身の危険を感じていた節があること、皇族も含めて多数の関係者が殺害されたこと、姻戚の者も保身のため縁を切るなどの行動をとっていることから、編纂者らも身を守るために筆を枉げざるを得なかったという事情があったのかもしれない。
・当時は「嫉妬せず他の女性を君子に薦める」のが理想的な后妃像と考えられていたがために歩夫人は「嫉妬せず他人を多く推薦した」人物として描写された。これがもし「諸子百家の書を諳んじることができる才女こそ皇后にふさわしい」という価値観がスタンダートであったならば、歩夫人もまた学識豊かな才女として書かれていたことだろう。その場合は「歩夫人は多くの優れた詩賦を作った」と書かれながらも実際の作品や集の存在は確認できない状態になっていたと思われる。
・歩夫人が皇后位を追贈された理由は歩夫人の資質によるものではないと考えるが、それでは何故皇后が追贈されたのかということまではまとまらなかった。この点についてはまた改めて思案したい。
呉の顧承は字を子直といい、顧雍の孫、顧邵の子、顧譚の弟である。母は陸遜の姉妹と考えられ(「陸遜伝」)、妻は張温の妹と伝えられる(『文士伝』)。舅の陸瑁と共に召し出されて孫権に仕えたが、後に政争に巻き込まれて37歳で死去した。
若く亡くなったこともあってか顧承の記述はそう多くはないが、今回の記事では顧承が得た将軍号について考えてみたい。
1.顧承は奮威将軍ではなく「奮武将軍」だった?
この顧承について、正史『三国志』呉書(以下『呉志』)では奮威将軍になったことが記されている。
(『呉志』顧雍伝附顧承伝)
承字子直,嘉禾中與舅陸瑁俱以禮徵。權賜丞相雍書曰:「貴孫子直,令問休休,至與相見,過於所聞,為君嘉之。」拜騎都尉,領羽林兵。後為吳郡西部都尉,與諸葛恪等共平山越,別得精兵八千人,還屯軍章阬,拜昭義中郎將,入為侍中。芍陂之役,拜奮威將軍,出領京下督。
芍陂の役の論功行賞で顧承が雑号将軍に任ぜられたことは兄である顧譚の附伝にも記述がある。
(『呉志』顧雍伝附顧譚伝)
時論功行賞,以為駐敵之功大,退敵之功小,休、承並為雜號將軍,緒、端偏裨而已。
雑号将軍とはすなわち附顧承伝でいう奮威将軍を指すのだろう。この数年後、全琮父子に讒訴され交州へ流されたことを踏まえると、奮威将軍が顧承の最終官位と考えられる。
ここまで引用した各記述に不自然な点はない。
ところが実は、顧承は「奮武将軍」であったとする史料が別に存在する。
『初学記』巻十七
《吳先賢傳 奮武將軍顧承贊》曰:于鑠奮武,奕奕全德;在家必聞,鴻飛高陟。
『初学記』に『呉先賢伝』という書から引かれた賛があり、そこには「奮武将軍顧承」と記されているのである。
この記述は『呉志』の「顧承は奮威将軍を拝した」という記述と相違する。
可能性として、『呉先賢伝』の記述を『初学記』へ写す際に奮威を「奮武」と書き間違えたと考えることはできる。
だが、この『初学記』は唐の玄宗の勅命により編纂されたもので、諸皇子の参考書となる役目を担った類書なのだ。その背景を考えると撰者が粗末な仕事をしたとは考えにくく、さらに『初学記』は引用資料の精確さは『芸文類聚』に勝ると評価される史料でもある(『四庫全書総目提要』)。
引用記事そのものを見てみても、「奮武将軍顧承賛」「于鑠奮武」と二度も「奮武」という単語が出ており、そこに不一致はない。このことからも、撰者ははっきり「奮武将軍」と認識した上で書き写したと考えるのが自然だろう。
「奮武将軍顧承」とは『呉先賢伝』の時点でそう書かれていたのだ。だからこそ『初学記』にも「奮武」と書写されたのである。
※もちろん、『初学記』原本と現行テキストに文字の異同がある可能性も否定できない。だが、それを確認するのは困難を極める。『呉先賢伝』についても同様である。本記事では各原本から「奮武将軍」となっていたという前提のもと考えを進めていく。
2.『呉先賢伝』と陸凱と顧承
今回重要となる『呉先賢伝』とはいかなる書なのだろうか。『隋書』経籍志は以下のように記録する。
(『隋書』経籍志)
吳先賢傳四卷吳左丞相陸凱撰。
『呉先賢伝』は呉の左丞相陸凱が撰したという。
呉左丞相陸凱とは、三国呉に仕えた呉郡呉県の陸凱、字は敬風(198-269)のことだろう。『呉志』陸凱伝によれば、彼は軍事に携わることになっても書物を手離さなかった。他にも太玄経注などを撰していることから、著述に精力的な人物だったのかもしれない。
この陸凱が撰した『呉先賢伝』については、『初学記』に「奮武将軍顧承賛」「揚州別駕従事戴矯賛」「上虞令史胄賛」が逸文として残るだけであり、書の全容を知るのは非常に困難だ。ただその書名からして、呉の地に関わりの深い人物伝と推測される。詳細不明の戴矯と史胄はともかく、呉郡出身の顧承の記述が見られることはその傍証となる。
しかしそもそも、『呉先賢伝』のいう「奮武将軍顧承」は顧承(字子直)であると断じていいものか?
これに関しては『呉先賢伝』の逸文が賛しか残されていない以上、別人の可能性がゼロとは言い切れない。
とはいえ、顧承(字子直)は「奮○将軍」となったことが『呉志』に明記されており、彼以外に同条件の者は確認できない。
加えて陸凱の没年を考慮すれば、『呉先賢伝』で取り上げられたのは当然それ以前に存在した人物のはずなので、この点についても顧承はクリアしている。
それに、陸凱の側から見ても顧承(字子直)は呉の先賢として記述を残す対象足り得る人物だったように思う。
主な理由は、
・顧承には武官としての功績がある
・諸葛恪伝裴注『呉録』を見るに、顧承は兄の顧譚に劣らぬほどの評判があった
・顧承と陸凱はともに呉郡呉県の出身
・顧氏と陸氏は通婚を結んでおり関係が深い。特に顧承は陸氏の血を継いでいる
・顧承と陸凱は活動時期が重なることから面識があった可能性も高く、事績をよく知っていたと思われる。そうした情報を持っているがゆえに人物伝を書きやすい
などである。決定的な裏付けとはならないまでも、伝を残す理由として納得できるものではあるだろう。
同時代に活躍した同郷人で名声のあった人物ゆえに、事績を残しておきたかったのだ。
他に有力な候補がいない以上、陸凱が先賢伝の中に書いたのは顧承(字子直)と見てよかろう。
上で述べた通り、陸凱は顧承のことを知っていたに違いない。伝聞ではなく、直接会って人となりを知っていたとさえ考えられる。
その陸凱が『呉先賢伝』で顧承を「奮武将軍」と呼んでいるのだ。これを陸凱の誤りだと容易に判断してよいものだろうか。
そうは思わない。呉には「奮武将軍」に任命された者として賀斉と朱桓がおり、実際に任命された者がいる以上は顧承もまた「奮武将軍」を拝した可能性は十分にあるのだから。
3.『呉志』の奮威将軍はミスという説
『呉志』では奮威将軍とし、『呉先賢伝』では「奮武将軍」とする。
『初学記』『呉先賢伝』のミスではないという考えについてはすでに述べた。
他に考えられるとすれば次のケースだろう。
『呉志』の奮威将軍が誤りとする説である。
その仮説について以下述べていく。
まず、肝心の『呉志』附顧承伝の記述を改めて見てみる。「拝奮威将軍」と明記されているのがわかる。
ここで注目したいのは、正史『三国志』全体の中で顧承が奮威将軍であると書かれているのは実はこの一カ所だけしかないという点である。
その他の箇所で官位と共に顧承の名が登場するのは、同巻にある諸葛瑾伝裴松之注の中だ。
(『呉志』諸葛瑾伝附諸葛融伝に引く裴注『呉書』)
新都都尉陳表、吳郡都尉顧承各率所領人會佃毗陵,男女各數萬口。
これは芍陂の役より前の記事であるから、顧承はまだ雑号将軍を拝していない。
奮威将軍顧承の名は、正史『三国志』においては附顧承伝の一カ所に記されるのみなのだ。
つまり、『呉志』附顧承伝の一カ所で将軍号の表記ミスが発生していたとしたら、正史において他の記述との比較ができないために、それがミスだと気付くことも出来ないのである。
実際、『初学記』所引『呉先賢伝』の逸文を見るまでは何の疑問も抱かなかった。「奮武将軍」とする逸文が確認できたからこそ『呉志』のあの一カ所が誤りであるという疑問を抱くことが出来たわけだ。
それでは、その一カ所で表記ミスが起きていたとしたら、原因は何なのか?
本記事の仮説で最も重要なのは、その一カ所が『呉志』附顧承伝という場所に存在することだ。
一度、附顧承伝から目を離して『呉志』の構成を見てみる。
顧承伝が附される『呉志』顧雍伝(正史『三国志』巻52)は同巻に張昭や諸葛瑾らが立伝されており、順番としては、張昭伝→顧雍伝→諸葛瑾伝→歩騭伝。これで一つの巻となる形だ。
ポイントは、顧雍伝の前が張昭伝という構成にある。
張昭伝には息子の張承の附伝があり、そこには次のように記される。
(『呉志』張昭伝附張承伝)
承字仲嗣,少以才學知名,與諸葛瑾、步騭、嚴畯相友善。權為驃騎將軍,辟西曹掾,出為長沙西部都尉。討平山寇,得精兵萬五千人。後為濡須都督、奮威將軍,封都鄉侯,領部曲五千人,…(後略)…
張承もまた奮威将軍に任ぜられたという。
彼が奮威将軍であったことは同巻に収録される周昭の論や別巻の呂岱伝に「張奮威」「奮威将軍張承」と記されることからも間違いないだろう。顧承の場合とは異なり、正史『三国志』内にある他の記述との比較により確認がとれる。張承は確かに奮威将軍であったのだ。
話を戻すと、先述の通り張昭伝→顧雍伝と続いていることから、顧承と張承の附伝も同巻内に続く形で存在し、そう離れて位置するわけではない。
また偶然にも二人は顧承、張承と同名である。
さらに顧承が「奮武将軍」であったならば、かたや「奮武将軍顧承」かたや奮威将軍張承と将軍号まで似通っていることになり、編纂する側からすれば紛らわしく感じるかもしれない。
もしかすると、正史『三国志』呉書では、張承の記述に引きずられて顧承の将軍号を間違えてしまったのではないだろうか。
顧承と張承の類似点は上記の他にもあって、
・活動時期や活動内容にかぶる部分がある
・張承には張休という弟がおり、張休と顧承にも浅からぬ縁がある(そのため附張休伝と附顧承伝に互いの名が登場する)
などである。
当然ながら顧承と張承は別の人間だ。
しかし、陳寿のように二人と馴染みのない者からすると、混同しかねない紛らわしい共通点があると言えそうである。
小さな、しかし複数の類似点が重なった結果、正史『三国志』において張承の奮威将軍と顧承の「奮武将軍」がごっちゃになってしまった。
『呉志』は韋昭『呉書』を参考にしたといわれているが、丸写ししたわけではないことは、裴松之が注に引く『呉書』の数々を見ればわかることだ。
特に顧氏の伝に関しては、顧雍の同母弟たる顧徽など韋昭『呉書』にあった記述が『呉志』では大幅に削られており(※1)、のみならず『呉志』にある顧雍、顧邵、顧譚、顧承の記述さえいくらか手を加えられた形跡が見られる(※2)。
おそらくは顧氏の伝を編集する作業中に顧承の将軍号「奮武」が奮威と勘違いされ、書き間違えられてしまったのだろう。
3.まとめ
以上が本記事で述べたかった仮説である。
付け加えるならば、顧雍伝に続く諸葛瑾伝にも奮威将軍という将軍号が出てくる。
(『呉志』諸葛瑾伝附諸葛融伝)
孫權薨,徙奮威將軍。
諸葛融である。
彼についても別の箇所、朱然伝附朱績伝に「奮威将軍諸葛融」と記されることから奮威将軍だったことは間違いなかろう。
奮威将軍張承のみならず、奮威将軍諸葛融に挟まれたことも、顧承の将軍号が混同された原因の一つかもしれない。
さらに、諸葛瑾伝に続く歩騭伝の最後には周昭論が引かれており、その中では「奮威」という言葉が四回ほど登場する。
同巻に同名の者がおり、将軍号も似ていた。さらに奮威将軍となった者に挟まれて、巻の終わりには奮威という言葉が何度も出てくる。
顧承のことをよく知らぬ者が撰したならば、附顧承伝にある一カ所の「奮○将軍」を書き間違えたとしても無理からぬことであろう。
その反面、陸凱は顧承本人を知っており、自身の持つ情報に基づいて顧承のことを記した。
ゆえに陸凱はその将軍号を間違えなかった。
陸凱にとって顧承は年下でありながら自分よりもはるかに早く死去した人物である。その顧承を呉の先賢と定め、敬意をこめて「奮武」と呼んだのだ。
顧承は「奮武将軍」なのである。
(※1)顧雍伝裴注「吳書曰:雍母弟徽,字子歎,少游學,有脣吻。孫權統事,聞徽有才辯,召署主簿。嘗近出行,見營軍將一男子至巿行刑,問之何罪,云盜百錢,徽語使住。須臾,馳詣闕陳啟:「方今畜養士衆以圖北虜,視此兵丁壯健兒,且所盜少,愚乞哀原。」權許而嘉之。轉東曹掾。或傳曹公欲東,權謂徽曰:「卿孤腹心,今傳孟德懷異意,莫足使揣之,卿為吾行。」拜輔義都尉,到北與曹公相見。公具問境內消息,徽應對婉順,因說江東大豐,山藪宿惡,皆慕化為善,義出作兵。公笑曰:「孤與孫將軍一結婚姻,共輔漢室,義如一家,君何為道此?」徽曰:「正以明公與主將義固磐石,休戚共之,必欲知江表消息,是以及耳。」公厚待遣還。權問定云何,徽曰:「敵國隱情,卒難探察。然徽潛采聽,方與袁譚交爭,未有他意。」乃拜徽巴東太守,欲大用之,會卒。子裕,字季則,少知名,位至鎮東將軍。雍族人悌,字子通,以孝悌廉正聞於鄉黨。年十五為郡吏,除郎中,稍遷偏將軍。權末年,嫡庶不分,悌數與驃騎將軍朱據共陳禍福,言辭切直,朝廷憚之。待妻有禮,常夜入晨出,希見其面。嘗疾篤,妻出省之,悌命左右扶起,冠幘加襲,起對,趨令妻還,其貞潔不瀆如此。悌父向歷四縣令,年老致仕,悌每得父書,常灑掃,整衣服,更設几筵,舒書其上,拜跪讀之,每句應諾,畢,復再拜。若父有疾耗之問至,則臨書垂涕,聲語哽咽。父以壽終,悌飲漿不入口五日。權為作布衣一襲,皆摩絮著之,強令悌釋服。悌雖以公議自割,猶以不見父喪,常畫壁作棺柩象,設神座於下,每對之哭泣,服未闋而卒。悌四子:彥、禮、謙、祕。秘,晉交州刺史。祕子衆,尚書僕射。」顧徽や顧悌など大幅に削除されているのがわかる。
(※2)『呉志』附顧譚伝裴注「吳書曰:譚初踐官府,上疏陳事,權輟食稱善,以為過於徐詳。雅性高亮,不脩意氣,或以此望之。然權鑒其能,見待甚隆,數蒙賞賜,特見召請。」この内容は『呉志』には見られない。顧徽らとは異なり『呉志』に伝はあるものの記述の編集はされているようである。
(※3)清の洪飴孫『三國職官表』では奮威将軍を定員一名とする。これに準ずるならば、芍陂の役(241年)の論功行賞で顧承が奮威将軍になった場合、張承が244年に没するまで二人の奮威将軍が同時期に存在していたことになる。定員一名を前提とするならば、やはり顧承は「奮武将軍」と考えた方が筋は通る。ただし、諸葛融と陸抗もまた同時期に奮威将軍だったと思われることから、呉において奮威将軍が定員一名であったかはいまいち判然としない。(諸葛融は孫権が薨ずると奮威将軍になった。陸抗は建興元年に奮威将軍となった。どちらも252年である)
(※4)正史『三国志』が書写されていく中どこかの時代で奮威将軍と書かれた、もしくは『呉書』の時点で間違えられていたなどの可能性もあるだろう。
参考文献:
洪飴孫『三國職官表』
永田 拓治「漢晋期における「家伝」の流行と先賢」東洋学報 : 東洋文庫和文紀要 94(3), 233-266, 2012-12
永田 拓治「『汝南先賢傳』の編纂について」立命館文學 (619), 352-367, 2010-12
学研『漢字源』
テキスト引用及び確認元:
漢籍電子文献資料庫
中国哲学書電子化計画
寒泉
維基文庫
余談:
正史『三国志』の記述で顧承が「奮武将軍」だったと推測できる可能性ならあったかもしれない。
芍陂の役の論功行賞で張休・顧承と因縁があるのは全緒・全端だ。この全緒は裴注『呉書』によると揚武将軍になったらしい。
かの論功行賞で全緒・全端は偏・稗将軍になっただけと書かれる以上、全緒が揚武将軍になったのはそれ以降のことであり、なおかつ孫亮即位により鎮北将軍に遷ったことからそれ以前のことと時期を絞り込める。すなわち240年半ば~252年のどこかで揚武将軍となったのだ。
これは張休と顧承が全氏一族と対立して失脚した時期と重なる。
全緒がなった揚武将軍が、あの論功行賞で張休が拝した将軍号と同じものなのははたして偶然だろうか?
もし全端に「奮武将軍」になったという記述が『呉志』等にあったなら、それを顧承が「奮武将軍」であったことの裏付けと見ることもできたかもしれないが、残念ながら全端については詳細が不明である。
ブログをhttps化しました。とりあえず様子見。
2020年3月分のツイッターログ
3月1日
・記録の断片でしか知ることのできない歴史人物の実際の人間性なんてわからない。けど歴史人物に対してろくな人間じゃないだのクズだのとリアルタイムで言ってる人については、平然と暴言を吐く人間であることが確実にわかるじゃん。そんなのにああだこうだ言われたくないだろう(笑)
3月6日
・孫休が滕胤・呂拠のことを持ち出したのは、孫綝を排除する理由付けとしてそれが一番都合が良く手っ取り早かったからだと思う。孫亮らの件を孫綝の罪としたら後釜で即位した孫休の立場がなくなるもんね
同じく孫綝を排除したがっていた孫亮には滕胤・呂拠のことを口実にしようとした様子が見られない。これが少し気になった。もしかしたら滕胤・呂拠に対する認識が孫亮と孫休とでは違っていたのかも。というか、孫休が孫綝誅殺の際に利用したことで認識が変えられたのか
孫亮期における滕胤・呂拠への認識は今とは正反対だった説。評価一転は孫休が名誉を回復させたことと、孫晧の皇后が滕胤の同族であることも関係しているのかも
3月13日
・同じネタを何度も繰り返す
・他人を貶めてネタにする
こういう人が苦手なんだけどこのジャンルにいるとそういう人を目にする率が高い
3月15日
・沈瑩の出身地はどこだろう。丹陽太守ということは丹陽の人ではなさそう。呉の沈氏と関係はあるのかな?
陸雲にはいくつかの書簡が残されている。兄・陸機に送った「与平原書」や上洛後に世話を受けた張華へのものとされる「与張光禄書」などがそれである。
それら複数伝わる陸雲の書簡の中に、「与朱光禄書」というものが存在する。この「朱光禄」について、佐藤利行先生は『晋書』顧衆伝の「光禄朱誕器之」という記述を引いてこの朱誕のことであろうかと指摘されている(※1)。
朱誕なる人物については前々から気になっていたので、この機会に少し調べてみた。
1.淮南内史の朱誕
「与朱光禄書」の朱光禄とは、陸雲が手紙を送ったわけであるから、当然ながら陸雲と接点のあった人物ということになる。朱光禄を朱誕と考えるならば、朱誕という名の人と陸雲とに接点があったということになるが、『晋書』陸雲伝にそれをうかがわせる記述がある。
(『晋書』巻54 陸雲伝附陸耽伝)
大將軍參軍孫惠與淮南內史朱誕書曰:「不意三陸相攜暗朝,一旦湮滅,道業淪喪,痛酷之深,荼毒難言。國喪俊望,悲豈一人!」其為州裏所痛悼如此。
陸雲が兄弟と共に殺害されると、彼らと同じ幕下にいた孫恵は「淮南内史の朱誕」に書を送り、陸雲らを失った悲憤を伝えた。その胸中を吐露することができるほど孫恵と朱誕は見知った仲であったことが推測される。
ただどれほど親密であったとしても、非業の最期を嘆く書を、陸雲らとまったく無関係の第三者へ送るのは、ありえなくはないにしても少々違和感がある。朱誕もまた陸雲らと見知った関係であるからこそ、気持ちを共有できる相手として孫恵は手紙を送ったのではないか。
淮南内史の朱誕が陸雲兄弟と面識があったことを想像させる記述はもう一つある。
(『太平御覽』巻602)
又曰:稽君道問二陸優劣。抱朴子曰:「朱淮南嘗言:二陸重規沓矩無多少也。(後略)…
『太平御覧』が引く『抱朴子』の逸文である。
抱朴子こと東晋の葛洪が、「朱淮南」がかつて述べた二陸評を引くのであるが、「朱淮南」とは「淮南内史の朱誕」を指すと見ていいだろう。これを見るに、朱誕は陸雲兄弟を知っていたのだ。
二陸について問われると、その返答の中に名前が出てくる。彼らが死ぬと、悲嘆の書を送られる。
朱誕とは、想像以上に陸雲たちと関係が深い人物なのかもしれない。少なくとも、「淮南内史の朱誕」は陸雲が書を送ってもおかしくない立ち位置の人物であったのだろう。
この「淮南内史の朱誕」についてもう少し詳しく知りたいところだが、あいにく『三国志』にも『晋書』にも立伝されていない。その他の史料でこの名が登場するのは、東晋の干宝が撰した『捜神記』である。
(『捜神記』第17)
吳孫皓世,淮南內史朱誕,字永長,為建安太守。
『捜神記』によると、「呉の孫晧のとき、淮南内史の朱誕、字を永長は、建安太守となった」という。淮南内史の朱誕はかつて呉に仕えており建安太守に任ぜられた経歴を持つ人物であることがわかる。また、字は永長であるらしい。
これ以上の情報は『捜神記』の中には見られないが、「字が永長である朱誕」については『世説新語』の注に記述が見られるため、以下に引用する。
(『世説新語』賞誉 注引『蔡洪集』「与刺史周俊書」)
朱誕字永長,吳郡人。(中略)吳朝舉賢良,累遷議郎,今歸在家。
これは蔡洪という人物が旧呉の人について述べた書で、それによれば、「朱誕は字を永長といい、呉郡の人。呉朝で賢良に挙げられ、議郎に累遷した」。
『捜神記』の「淮南內史朱誕,字永長」と姓名、字が一致しており、呉に仕えていたことも共通する。建安太守であったかどうかはわからないものの、蔡洪が他に挙げた人物が、
・呉で呉郡太守であった呉展
・呉で宛陵令であった厳隠
であることを考慮すると、彼らと並べられた朱誕もまた地方長官的役職についていた可能性はある。そうして呉が滅亡した後、蔡洪などの推薦を受けて晋に仕え淮南内史となったのだろう。
①孫恵が手紙を送った「淮南内史の朱誕」
②『捜神記』のいう「呉で建安太守となった淮南内史の朱誕(字永長)」
③蔡洪のいう「呉に仕えた呉郡の朱誕(字永長)」
①②③の朱誕はみな同一人物であると考えて問題なさそうだ。
呉国に仕えた呉郡出身者ならば、同じく呉国に仕えた呉郡出身者の陸雲と交流があったことは想像に難くない。
ここまでの情報をまとめると、
朱誕は字を永長といい、呉郡の人。呉朝で賢良に挙げられて議郎に累遷し、孫晧の治世では建安太守となった。後に晋に仕えて淮南内史をつとめた、陸雲と交流のあった人物
となる。正史に立伝される人物ではないながら意外と経歴は残っていた。生年まではわからないが、孫晧の時代に太守であったことから、世代的には朱誕の方が陸雲より上かもしれない。
ちなみに「呉郡の朱誕」という文言は『晋書』賀循伝にも見える。
(『晋書』巻68 賀循伝)
惟循與吳郡朱誕不豫其事。
※『呉志』賀邵伝の裴注では「同郡朱誕」となっている。
この記述は陳敏の乱が起きた頃(305年~)のものなので、朱誕はその時期にも存命していたことがわかる。303年に陸雲兄弟が命を落としたとき、孫恵が彼に手紙を送ることは可能だったということである。
2.光禄の朱誕
「淮南内史の朱誕」が陸雲が書を送った「朱光禄」である可能性は高そうだ。
だが、まだ断定はしかねる。この朱誕が光禄になったかどうか、これまでの情報ではわからないからである。
ここで、冒頭で述べた佐藤先生が指摘するところの『晋書』顧衆伝を改めて見てみる。
(『晋書』巻76 顧衆伝)
顧衆,字長始,吳郡吳人,驃騎將軍榮之族弟也。父祕,交州刺史,有文武才幹。衆出後伯父,早終,事伯母以孝聞。光祿朱誕器之。
「光禄朱誕」と確かに書かれている。呼称は「朱光禄」となるだろう。「与”朱光禄”書」にぴたりと当てはまる。
これまで提示してきた史料に登場する「朱誕」が同一人物であると結論付けた以上、『晋書』顧衆伝に登場する「光禄朱誕」もそうであるととらえたいところだが、もう一押し欲しい。
その手助けとなりそうな情報が『芸文類聚』及び『太平御覧』にあった。
(『芸文類聚』 巻86)
吳錄.朱光〈○太平御覽九百六十六光下有祿字.〉為建安太守.有橘.冬月樹上覆裹之.
『呉録』からの引用のようだが、「朱光為建安太守」という一文がある。これにはどうやら脱字があるようで、「朱光」の部分が『太平御覧』では「朱光禄」となっているらしい。
(『太平御覽』巻966)
《吳錄·地理志》曰:朱光祿為建安郡,中庭有橘,冬月樹上覆裹之。
なっていた。
建安郡とは建安太守と同じ意味だろうから、二つの引用文を合わせてまとめると、「朱光禄為建安太守」となる。
引用元の『呉録』は、呉の張儼の息子とされる晋の張勃が私撰した呉の歴史書を指すと思われる。つまり、上記の逸文は呉の時代の話だと考えられるのである。
「朱光禄」の光禄は本名ではなく官名なので、『呉録』の逸文は、「編纂当時には光禄となっていた朱某が呉の建安太守であったときの話」なのだ。『捜神記』の「吳孫皓世,淮南內史朱誕,字永長,為建安太守。」という書き方と同じ。
では、『呉録』のいう「朱光禄」なる朱某は何者なのか?
あつらえ向きに『呉録』の逸文は「朱光禄」が建安太守になった経歴を持つ人物であることを教えてくれている。
”朱”光禄と呼ばれ得る、呉のときには建安太守となり、のち晋に仕えた人物。
それは、「淮南内史の朱誕、字は永長」に他ならない。
顧衆(274~346)の活動時期を考えても、顧衆伝に出てくる「光禄朱誕」は呉郡の朱誕(字永長)と判断していいだろう。
ようやくすべての朱誕、そして「朱光禄」がつながった。彼は淮南内史をつとめた後、何らかの経緯を経て光禄に任ぜられたようだ。時期としては東晋に入った頃であろうか。
3.まとめ
改めて情報をまとめる。
朱誕は字を永長といい、呉郡の人。呉朝で賢良に挙げられて議郎に累遷し、孫晧の治世では建安太守となった。晋に仕えて淮南内史をつとめ、後に光禄にのぼった。陸雲や孫恵、顧衆らと交流があった。
以上のことから、陸雲の「与朱光禄書」が指す朱光禄とは、佐藤先生のご賢察の通り、顧衆伝に出てくる「光禄朱誕」のことであると考える。
朱誕に陸雲や孫恵、顧衆らとの繋がりがあるのも同郷だからなのだ。故国を失い苦境に立たされた呉の者同士で助け合っていたのだろう。
さらに、東晋の干宝『捜神記』、葛洪『抱朴子』にも登場するあたり、当時は名の知れた重要人物だったのかもしれない。
参考文献:
(※1)佐藤利行「西晋文人関係論--陸雲と厳隠」広島大学大学院文学研究科論集.2001,第61巻,p1-8.
佐藤利行『陸雲研究』白帝社.1990.
(この記事は以前書いた記事「朱誕、字は永長」を書き直したものです。引用はすべて「維基文庫」から引きました)
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