陸氏関連

2019年7月 9日 (火)

笑い上戸

陸雲の「笑疾」についてだが、陸雲は極度の笑い上戸だったのかもしれない。
なぜそう思うのかというと、私自身が笑い上戸なので思い当たる節があるからだ。自分の経験の中で最も性質の悪い笑いのパターンを挙げると、まったく笑う要素がないのにツボに入ってしまい、一度笑い出すと自分では止められないのでお腹が痛いのと呼吸が整えられない状態がずっと続き、それでも笑いがおさまらず、ガチの苦しさのあまりその場にうずくまる

文章だとわかりにくいし冗談のような話だけど真面目にきつくて笑いごとじゃない。笑ってるけど。
自分がこんなだから、陸雲の笑疾にまつわるエピソードは「あ~、あんな感じかな?」と想像しやすかったりする。
陸雲がこうした笑い上戸だったかはわからないし、理由はそれぞれ異なるかもしれないが、なぜか笑いが止まらなくなる人は実際にいるんだよと。
なので、笑疾の逸話を陸雲自身の人格に結び付けて問題があるのではという見方をするのにはなかなか頷き難いものがある。

おもしろエピソードを他人に話そうとするも思い出し笑いが止まらず結局話せないという厄介な現象も笑い上戸あるあるだと思う。陸雲もそういうことがあったかもしれない。
陸雲「この前おもしろいことがあったんです。実はwww士光がwwwwww」
陸機「…………」

2018年10月 2日 (火)

陸遜の娘=陸抗の姉妹

陸雲の「歳暮賦」という作品には姉と並んで姑という言葉が出てくる。これが姑(おば)=父親の姉妹を指すとすると、陸抗には姉か妹がいたことになる。

この「歳暮賦」は、序に永寧2年(302年)とあるためそれ以降の作と推測されるらしい。さらに故郷を離れてから6年経ったこと・姑と姉が亡くなったことが書いてあるそう。6年の間に2人が亡くなったということなのかな。
わからないが、とりあえずそう仮定すると、翌303年には陸雲自身が…なので、姑が亡くなった時期はさかのぼっても298年がギリギリのラインか。陸抗の生年226年を基準にすると298年時点で72歳。
それを考えると、どちらかというと妹かもしれない。同じ陸氏一族の陸凱や陸曄の享年が70歳代であることを見れば長命な姉の可能性もあるけども。
詳しいことは他の史料でも見つからない限り知りようもないが、陸抗と同母の姉妹だったら面白いね。

陸抗の姉妹ということは当然、陸遜の娘ということになる。
仮に陸抗の妹だとすると、陸遜死去時の年齢は、陸抗が19歳だったためそれより下の最高18歳。娘が当時ある程度長じていたとすれば、陸遜存命中に嫁いだ可能性ありだ。

気になるのはその嫁ぎ先だが、顧氏、張氏、姚氏といった土着の豪族かもしれないし、陸抗が張承の娘を娶った例からして呉朝の有力人士の子弟かもしれない。
もし陸抗が張承の娘を娶ったのと同時期に娘も嫁いだのだとしたら、張承周辺の誰かの妻となったと考えることもできるやも。
詳しいことは史料でも見つからない限り(略)


「歳暮賦」に姑と一緒に出てくる姉は”伯姉”と書かれている。一番上のお姉ちゃん=陸抗の長女という意味かな。顧栄の妻は何女だったんだろう。
それにしても、陸機も陸雲も親兄弟をはじめ親族に関する作品を残しているあたり仲が良かったんだろうな。姑も陸雲に慕われていたからこそ姉と共に死を嘆かれたのだと思うし。
陸遜と陸瑁なんて『呉志』陸瑁伝に陸遜の弟と書かれていなければ兄弟なのかもわからないレベルだからたまに自分の中で疎遠疑惑が浮上しかけるけど、子孫が親しいのを見るにまあこの二人も普通に(?)兄弟やってたんだろう。同じ行動をとってたりするし。兄ちゃんは西からやるからお前は東からやるんやで弟よというやりとりがあったのかもしれない。

とにかく二陸のおかげで史書ではわからない情報の一片を知れるのはありがたい。特に女性に関しては書かれないことの方が多いだろうが、姻戚関係が事件の重要な鍵であるケースも多々あるのだから、断片的にでも娘や姉妹の存在を掴めるのは大変に有用だ。持つべきものは優秀な子孫なんだなあ。



参考文献:
劉運好『陸士龍文集校注』鳳凰出版社,2010.


2018年7月31日 (火)

陸雲「与平原書」

陸雲の手紙に出てくる人名をまとめようかと思うけど、その人たちの事跡を辿るのは難しそうだなあ。
「与朱光録書」の朱光録候補である朱誕については前に書いたけどそれ以外の人物はどんなもんだろう。(→朱誕、字は永長

気になるのは顧令文(おそらく顧栄より目上の人)、公然(おそらく陸曄より目下の人)、陸典(手紙の内容の印象だと陸氏の中でも陸雲に近い立場の人な気がする)あたりなので何かしら史料に痕跡が残っていないものかな。

戴淵と二陸なんかも『世説新語』の逸話だけだとあまりにドラマチックだけども、手紙に「若思が最近しょんぼりしてる」なんて出てくるあたり本当にちゃんと接点があったんだなあと実感するから面白いね。

2018年7月20日 (金)

二陸の作品で気になるやつ

人名が出てくるもの。

 

 

<陸士衡文集>
愍思賦 …同生姉という言葉が出てくる。陸機の姉、陸抗の娘。
贈尚書郎顧彦先 …顧栄。顧雍の孫。陸機の姉の夫。
贈顧交趾公眞 …顧秘。
贈従兄車騎 …陸曄。陸瑁の孫。陸機のはとこ。
答張士然詩 …張悛。呉郡の人。親交があった。
贈馮文羆 …馮熊。同僚。
答潘尼 …潘尼。同僚。
贈潘尼
贈紀士
為陸思遠婦作
為顧彦先贈婦 …顧栄
為周夫人贈車騎 …陸曄?陸曄の妻は周氏?
吊蔡邕文
呉大帝誄 …孫権
呉貞献處士陸君誄 …陸玄?
呉丞相江陵侯陸公誄 …陸遜
呉大司馬陸公誄 …陸抗
晋劉處士參妻王氏夫人誄
呉大司馬陸公少女哀辭 …陸抗の娘。
贈顧令文為宜春令 …顧令文。陸雲の「与平原書」にも名前が出てくる。顧栄の兄か従兄?
贈武昌太守夏少明詩
贈斥丘令馮文羆詩 …馮熊
贈顧彦先詩 …顧栄
為顧彦先作詩 …顧栄
贈潘正叔 …潘尼
贈潘尼
贈馮文羆詩 …馮熊
贈顧尚書及征西大將軍詩
策問秀才紀瞻 …紀瞻。親交があった。陸機の遺児の面倒をみてくれたらしい。
贈潘岳詩
薦賀循郭訥表 …賀循。会稽の彦先。
與趙王倫牋進戴淵 …戴淵。若思。親交があった。陸機とのハートフルストーリーが『世説新語』にある。
薦張暢表 …張暢。
顧譚傳 …『呉志』裴注に引くあれ。
呉太常顧譚誄 …逸文。誄じゃなく↑の顧譚伝の一部かもしれない?
與長沙顧母書 …陸機の従祖弟・士璜という人物がいたらしい。その母が顧氏。いつもの顧陸。
與長沙夫人書
孫権誄
[田比]陵侯君誄
父誄
姊誄
呉丞相陸遜銘





<陸士龍文集>
歳暮賦 …姑(と姉)という言葉が出てくる。陸遜の娘で、陸抗の姉妹?
贈顧驃騎二首
従事中郎張彦明爲中護軍
贈汲郡太守
贈顧彦先 …顧栄
答顧秀才
答大將軍祭酒顧令文 …顧令文。「与平原書」にも顧栄と並んで名前が出ている。
答呉王上將軍顧處微
贈鄱陽府君張仲庸
答孫顯世 …孫丞。親交があった。陸兄弟と共に殺された。『文館詞林』に孫丞から陸雲へ贈った詩がある。
贈鄭曼季
爲顧彦先贈婦往返 …顧栄
答張士然 …張悛。陸機も同じ人に詩を贈っている。
呉故丞相陸公誄 …陸遜
晋故散騎常侍陸府君誄 …陸喜。陸瑁の子。
晋故豫章内史夏府君誄
張二侯頌 …張昭と張承。
與朱光禄書 …朱誕?朱誕は字を永長、呉郡の人。
與張光禄書 …張華。上洛後お世話になっていた。
與厳宛陵書 …厳隠?字は仲弼、呉郡の人。
與戴季甫書
與楊彦明書
與陸典書書 …同族の目上の人っぽい。
答車茂安書 …車永
弔陳永長書
弔陳伯華書
移書太常府薦張瞻 …張瞻。呉郡の人?
贈顧彦先詩 …顧栄

 

 

 

 

抜けがあるので後々追記予定。

 

顧栄に贈った詩が多いのは、共に上洛した身内で、数少ない心許せる相手だったからかななどと考えるとなんとも言えない気持ちになるな。

(2018.7.22追記)

2008年9月17日 (水)

陸景と陸機と陸曄

中国のサイトに「陸景・陸機・陸曄は三虎と呼ばれていた」と書いてあった。出典は何だろう?(陸曄は陸瑁の孫で陸英の息子。字は士光)

陸景は250年生まれで陸機は261年生まれ。
陸曄はというと、『晋書』本伝には74歳で死去したとあり、成帝紀には「(咸和九年=334年)九月戊寅,散騎常侍、衛将軍、江陵公陸曄卒。」と記されているので、逆算すると261年生まれということになる。陸機と同い年。
陸景については詳しくわからないが、後の二人については陸機が陸曄を褒めていたと陸曄伝には書かれている。また、陸機の作品「贈従兄車騎」の従兄車騎とは陸曄を指すと言われている。仲良かったのかな。

彼らや陸抗・陸喜などを見ていて常々思うのは、陸遜と陸瑁の関係はどうだったんだろうということ。処世は異なっているものの仲が悪いというわけではなさそうだというのが今のところの印象。

2008年6月16日 (月)

陸遜の長男

陸延はいつ頃亡くなったんだろう。
これといった確証はないが、陸延が夭折してから陸抗が誕生するまでの期間が長く空いている可能性はあまり考えていない。もしその期間が長かったならばその間に養子をもらっていそうな気がするからだ。次男の陸抗が生まれたときの陸遜は44歳というそれなりの年齢であるから尚更。子孫を絶やすのは当時の価値観だとまずいんだろうし。

陸遜の場合は弟の陸瑁に男児が多いので、彼の子を養子にするのはありえそう。
陸瑁の息子たちの生年は不明のため陸抗より先に生まれたとは断言できないが、少なくとも次男の陸喜は陸凱の上表文の書かれ方からして陸抗より年長と考えることはできるんじゃないかな。陸英は微妙だけど陸抗より年長と考えられないでもない。
諸葛亮や司馬師も兄弟の男児を養子にしているし、鍾会も兄の子を養っていたような記述がある。なので、陸延が死去したのは陸抗誕生のずっと前とは現時点では考えないかなー。

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(08.06.18追記)
う~ん。↑やっぱちょっと強引かな~。

陸英が陸抗よりも年長かなと思った理由は以下の通り。

『新唐書』の表に、陸瑁には滂、喜、穎、英、偉、顏の六子がいたと書かれている。信憑性の程はわからないが、ここではこれを前提として考える。

陸瑁の息子の陸英は陸曄・陸玩の父でもある。この人の字は季子というらしい。
伯・仲・叔・季」という字の一字は長男・次男・三男・四男を表すものと思っていたのだけど、父方のいとこも兄弟同等の扱いをするとかで、その法則がきっちり当てはまるわけではないそうだ(→参考サイト )(2019.7.9現在はリンク切れ)。張昭の子の張承が“”嗣なのはそのためか? それから“”は末っ子という意味もあるようで、「字に季がついてるから四男だ」となるわけでもないみたいだ。

ただ、陸瑁の息子たちの場合は次男の陸喜の字は恭(文)であり、という字をもつ陸英は『新唐書』の書き方から四男である。その下に弟がいることからも彼は末子ではないだろう。滂、穎の字は不明なれど、こうしたことから陸瑁の息子たちの場合は長男・次男・三男・四男に「伯・仲・叔・季」の文字がストレートにあてられたパターンのように思う。

そこでふと、陸抗の字の“”の字も出生順を表すものなのだろうかと気になった。
幼というのも「伯・仲・叔・季」に続いてよく用いられる一字のようで、たとえば夏侯淵の息子は次男から仲権・叔権・季権ときて五男は幼権。五人兄弟で馬良(季常)の弟である馬謖の字も幼常。八人兄弟の司馬懿(仲達)の弟にも幼達という人物がいる(この人は五男じゃないのか)。
こうした例を見て、も同じパターンで“”の字が使われているのではないかと思った。先に述べたように父方のいとこも兄弟同等の扱いをするというのが陸遜・陸瑁の息子たちにも当てはまるのなら、字の付け方から陸抗は父方のいとこの陸英より年少、つまり先には生まれていないと考えることが可能となるわけだ。

以上が陸英は陸抗より年長と考えられないでもないと書いた理由。陸英の字を知ってから即座に妄想した(笑)
ちなみにこの妄想は、陸延の字の有無はまるっきり無視している。陸延に字はあったのか、つける前に死去したのかはわからない。そもそも字は何歳でつけるんだろう。


(2019.7.9 わかりにくい部分を加筆修正)

2008年5月11日 (日)

陸雲の書簡

陸雲の書簡には当時活躍していた人物の名がちらほら出てくる。
彦先(顧栄)、士光(陸曄)、若思・望之(戴淵・戴バク)、ケイ紹など諸々。「このまえ彦先と会ったよ」とか「若思が落ち込んでいたよ」など当時の彼らの息遣いが聞こえてくるようで面白い。

兄・陸機への書簡「与平原書」では曹操も話題にのぼるが、読んでみると二陸は曹操に好意的なんだなあと感じる。
二陸と曹操といえば、陸機が「弔魏武帝文」を書いたりしている。どうも「弔魏武帝文」については、晋朝に迎合するために曹操を矮小化して書いているという説もあるらしい。たとえそうした偏向があったのだとしても、陸機個人としてはやはり曹操を尊敬していたのではないかなあ、そうだと面白いなあと思う。陸雲が陸機へ送ったという曹操のつまようじも大切に保管していたに違いない。


2008年1月21日 (月)

陸機と葛洪

高橋和巳先生の本に「葛洪は陸機(の文学)ファン」というようなことが書いてあった。
現存の『抱朴子』には残っていないものの、『太平御覧』等諸々の史料にある逸文に陸機(二陸)の話題がいくつか散見されるようである。『晋書』陸機伝にも「葛洪は陸機の文を賞賛した」とある。葛洪は283年生まれらしいので、面識があるかは別として陸機のことは当然知っていたはず。ちなみに陸機が刑死したとき葛洪は数え21歳。

高橋先生が引用されているが、『太平御覧』にある『抱朴子』の記述によれば、葛洪の門下生でかつて陸機の側近だった者が、処刑の前に残した彼の言葉を聞いていたそう。葛洪はそれを書き留めているのだけど、有名な「華亭の鶴云々」よりも生々しく感じるな。

『太平御覧』欲しい。顧雍が公孫淵の一件の際に「死を賭して反対します!」的な行動をとったという記述が載っているらしく、また他にも気になる記述があるようなのできちんと確かめたい。でも金銭的にキビシイ。顧雍の話なら一応は読んだ本に原文が引用されてはいるけど。あと『資治通鑑』の注も見たい。本文ならネット上で見られるけど注は見られない。探せばあるのかな。もしくは注だけ販売してたりとかないかな。そういや『三国志集解』も持ってないや。

2007年5月18日 (金)

陸雲癖

『晋書』陸雲伝より一部抜粋

機初詣張華,華問雲何在。機曰:「雲有笑疾,未敢自見。」俄而雲至。華為人多姿制,又好帛繩纏鬚。雲見而大笑,不能自已。先是,嘗著縗絰上船,於水中顧見其影,因大笑落水,人救獲免。

(意訳)
陸機が初めて張華に会ったとき、張華は陸雲の所在を問うた。陸機は言った「雲は“笑い病”持ちでして、お会いするのをはばかっているのです」 にわかに陸雲がやって来た。張華は身なりを気にする人で、絹のひもで鬚を結ぶことを好んだ。陸雲はそれを見て大笑いし、止める事が出来なかった。これより先、喪服を着て船にのっていたとき、水面に映ったその影を見て、大笑いして水に落ち、人に救助されて命拾いしたこともあった。

後世、笑い病のことを「陸雲癖」とも呼ぶようになりましたとさ。(大漢和辞典)
自分の喪服姿で死にかける陸雲もさることながら、ヒゲにリボンの張華にもツッコミを入れたい。お洒落さんだったのか。

2007年5月11日 (金)

陸喜も大変だったのかも

呉平定直後の呉の人士の様子がわかりそうな記述はないかと探しているのだが、『晋書』附陸喜伝なんかも参考になりそう。以下、一部抜粋。

吳平,又作《西州清論》傳於世,借稱諸葛孔明以行其書也。有《較論格品篇》曰:
或問予,薛瑩最是國士之第一者乎?答曰:'以理推之,在乎四五之間,問者愕然請問。答曰:'夫孫皓無道,肆其暴虐,若龍蛇其身,沈默其體,潛而勿用,趣不可測,此第一人也。避尊居卑,祿代耕養,玄靜守約,沖退澹然,此第二人也。侃然體國思治,心不辭貴,以方見憚,執政不懼,此第三人也。斟酌時宜,在亂猶顯,意不忘忠,時獻微益,此第四人也。溫恭修慎,不為諂首,無所雲補,從容保寵,此第五人也。過此已往,不足復數。故第二已上,多淪沒而遠悔吝,第三已下,有聲位而近咎累。是以深識君子,晦其明而履柔順也。'問者曰:'始聞高論,終年啟寤矣。'

維基文庫より引用

 

まだ解読中だが、陸喜が書いた『西州清論』なる書の中で名指しで「あいつはランク4か5くらいの男だよ」なんて言われているっぽい薛瑩かわいそう。どうも、呉朝廷(孫晧の治世)に深く関わっていた人は下の方みたい。

しかしながら陸凱の遺言からして陸喜自身も孫晧の時代に呉に仕えていたと思われ、また同族の陸抗らも高位高官にあった。へたをすればブーメランになってしまう。陸喜はそんなことは承知の上で書いたはず。執筆の意図が知りたいところ。陸抗死後から呉滅亡までの陸氏一族がどのような立場であったかによっても解釈は変わってきそうだ。

ちなみに陸雲には「晋故散騎常侍陸府君誄」という陸喜のために作った誄がある。また、彼の甥である陸曄と二陸は親しかったことから、上述の陸喜の論を以て同族内に不和があったとはいえないだろう。


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