呉関連

2019年11月26日 (火)

陸機「弁亡論」に出てくる人名と出てこない人名

陸機の「弁亡論」には、『三国志』呉書に立伝されている人物の名が多く挙げられている一方で、挙げられていない名も多い。


【『呉志』の列伝と「弁亡論」に列挙される人物表】
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「弁亡論」に名前が挙げられていないが『呉志』に立伝されている人
宗室全般、張紘、カン沢、程秉、厳畯、薛綜、徐盛、朱治、陸瑁、朱拠、吾粲、全琮、鍾離牧、周魴、胡綜、是儀、劉惇、諸葛恪、滕胤、濮陽興、王蕃、韋昭、華覈

「弁亡論」に名前が挙げられているが『呉志』に立伝されていない人
孟宗、丁固、范慎、鍾離斐、張惇、趙咨、沈珩

「弁亡論」に名前が挙げられていないが『呉志』に立伝されている人物は、附伝を含めるともっといる
張休、顧邵、顧譚、顧承、諸葛融、薛ク、薛瑩、唐固、朱異などなど

父子で「弁亡論」に名前が挙げられている人
張昭・張承、陸遜・陸抗、朱然・施績。祖父と孫なら賀斉と賀邵。歩闡は反乱した枠で名前が出てくるので、歩騭父子は他と毛色が違う


・韓当、歩騭などは子孫が魏に亡命・謀叛した。諸葛瑾の子孫は罪を得て族誅された。陸機は子孫の行いと当人への評価は切り離した上で「弁亡論」に取り上げている。作中に名前が挙げられていないのは子孫の行動が原因、とはならない。

・諸葛氏族誅の原因となった諸葛恪だが、陸機は自作「顧譚伝」の中で孫登の元に集った傑物として真っ先に彼の名を挙げている(『呉志』顧雍伝裴松之注)。陸機は諸葛恪を評価していなかったわけではないのだろう。「弁亡論」でいう孫亮期の「姦回」とやらに諸葛恪は含まれていないと思う。



(この記事はツイッターで呟いたものをブログ用に一部加筆修正したものです。)

2019年10月27日 (日)

呉帝・孫峻と皇后・孫魯班

『魏志』毌丘検伝裴注に引く『魏書』の「遂得入吳,孫峻厚待之」という部分について、ちくま訳の第4巻該当箇所では「かくて呉に入ることができ、〔呉帝の〕孫峻に厚遇された」と訳されている。
おそらく第4巻は『呉志』ではないということから、孫峻がどういう立場の人物だったかを補足しようとしてくれたのだろう。
それがなぜか呉帝になってしまった(笑)

孫峻は呉の帝ではないからこれは誤りではあるのだけれど、別にそれを非難するためにここで取り上げるわけではない。逆に、そう思われるような立場の人ではあったのかもなあと思う。
そして、「呉帝」孫峻ならば腑に落ちる記述が『呉志』にある。その点について覚書として簡単に書いておく。

(『呉志』孫峻伝)
峻素無重名,驕矜險害,多所刑殺,百姓囂然。又姦亂宮人,與公主魯班私通。


孫峻は権力を持つようになると宮人を姦乱し、公主の魯班と私通したという。
この記述、孫峻が呉帝であれば納得がいく気がする。なぜなら皇帝が宮人に手をつけるのは当たり前だから。

さらに孫魯班は、全夫人を積極的に孫権にすすめたいわば後見人。まだ幼いと思われる皇后・全氏に代わり皇后代理として後宮をおさめていたのではないだろうか。

皇帝と皇后は夫婦なのだから、男女の関係があっても何の不思議もないのである。

孫峻伝の記述はそういうことだったんだね。きっと孫魯班は母親の歩夫人にならって呉帝・孫峻に宮人を多く推進したのでしょう。


皇后・孫魯班の雲行きが怪しくなるのは呉帝・孫峻が崩御なさってから。なんと跡継ぎが二人も現れて、権力争いをするようになってしまったのだ。
跡継ぎの一人は孫亮、もう一人は孫綝。
皇后代理・孫魯班は弟の孫亮を支持し、ライバル孫綝の縁者である朱熊・朱損の殺害などを画策していく。

忘れてはならないのは、孫魯班はあくまで皇后代理であって、実際に皇后の座にいるのは全夫人という点である。
皇后が幼い時分には後見人として権勢をふるうことのできた孫魯班だったが、皇后が成長するにつれ不安を抱くようになっていった。この娘ははたして自分を尊重するのだろうか、と。
なぜなら皇后・全氏は孫亮の妃でありながら、彼と敵対する孫綝の従姉の娘でもあったからだ。

(『呉志』孫綝伝)
孫綝字子通,與峻同祖。(中略)亮內嫌綝,乃推魯育見殺本末,責怒虎林督朱熊、熊弟外部督朱損不匡正孫峻,乃令丁奉殺熊於虎林,殺損於建業。綝入諫不從,亮遂與公主魯班、太常全尚、將軍劉承議誅綝。亮妃,綝從姊女也,以其謀告綝。


(『呉志』妃嬪伝全夫人の条)
孫亮全夫人,全尚女也。(尚)從祖母公主愛之,每進見輒與俱。及潘夫人母子有寵,全主自以與孫和母有隙,乃勸權為潘氏男亮納夫人,亮遂為嗣。


(『呉志』妃嬪伝朱夫人の条)
建興中,孫峻專政,公族皆患之。全尚妻即峻姊。故惟全主祐焉。(中略)太平中,孫亮知朱主為全主所害,問朱主死意?全主懼曰:「我實不知,皆據二子熊、損所白。」亮殺熊、損。損妻是峻妹也,孫綝益忌亮,遂廢亮,立休。


孫峻と孫綝は祖父を同じくする従兄弟(いとこ)である。
全尚の妻は孫峻の姉である。全夫人の母親は孫綝の従姉である。
朱損の妻は孫峻の妹である。すなわち朱損の妻は全尚妻=全夫人母と姉妹であり、孫綝の従姉にあたる。


孫峻のときは孫魯班自身が孫峻と私通していたので立場は安定し、孫亮も幼く孫峻との権力争いには至らなかった。
しかし、孫峻が死んで孫綝が実権を握ってからは状況が変わる。
まず、孫綝と孫魯班には私的なつながりがなかった。少なくともそうとれる記述は見られない。さらに孫亮が成長したことにより、孫綝との間に確執が生まれたのである。

他方、孫亮が成長すると共に、全夫人もまた成長していった。
幼い頃から全夫人を可愛がり後見人的立場となった孫魯班だったが、孫亮と孫綝が対立するようになると雲行きは怪しくなっていく。全夫人の母親は孫綝の従姉だったからである。

成長した全夫人が実の母と後見人の孫魯班を天秤にかけた場合、どちらを重んじるか。
孫綝に権力が集中すれば自身の立場が脅かされる危険性があると孫魯班は考えたのだろう。

こうしたことから、孫亮が成長したこと、自身が孫綝と親密な関係を築けていないことを考慮して、孫魯班は実弟の孫亮へ積極的に関わるようになっていった。
孫亮が孫綝の一族の力を削ごうとするのは、立場を保持しようとする孫魯班にとっては得なことだったといえよう。朱熊・朱損殺害もそんな対立構造の中で起きた事件と思われる。そしてこのとき殺された朱損の妻こそが孫綝の従姉、すなわち全夫人の母親の姉妹だった。

『呉志』妃嬪伝朱夫人の条によれば、孫峻の妹を妻にもつ朱損が殺されたことで孫綝は孫亮を忌んだという。
ならば、朱損の妻の姉妹である全夫人の母親の感情は? 孫亮のみならず、事件に関わっていた孫魯班をも恨んだとしても不思議ではない。そして、母の感情が娘である皇后・全氏に影響を与える可能性は否定できないのである。

もはや皇后・全氏との関係が良好に保てるかどうかも楽観視できない状況になっていた。
だから孫魯班は孫亮の孫綝誅殺計画にも関与した。これにより孫亮政権における自身の影響力を強めようと意図したのだろう。孫綝の誅殺が成功すれば、孫亮は協力者を厚遇するはずだからだ。

結局この計画は成功しなかった。
事情を知った全夫人母が孫綝に密告したためである。結果、孫亮は廃されて孫魯班は都から追放されたのだった。

孫亮と孫綝の仲が険悪になるにつれて、全夫人を通してその母と孫魯班もまた水面下で対立していった、かもしれない。

2019年10月 5日 (土)

魯王孫覇は優秀だったか?

孫権の息子である魯王孫覇は優秀だったとする主張を見たことがある。論拠は是儀と楊竺の発言である。しかしながら、彼らの言葉をもって魯王孫覇の素質を論ずるのには疑義がある。


1.是儀の上疏
まずは是儀の発言について。

(『呉志』是儀伝)
南、魯二宮初立,儀以本職領魯王傅。儀嫌二宮相近切,乃上疏曰:"臣竊以魯王天挺懿德,兼資文武,當今之宜,宜鎮四方,為國藩輔。宣揚德美,廣耀威靈,乃國家之良規,海內所瞻望。但臣言辭鄙野,不能究盡其意。愚以二宮宜有降殺,正上下之序,明教化之本。"書三四上。

上に引いた是儀の上疏を見ればわかるが、是儀には太子と魯王について降殺(※1)があるべきで、上下の序を正したいという考えがあった。単に孫覇を買って出鎮させるよう求めるだけならば書く必要のない文言である。おそらく是儀の主張の本命はこちら「愚以二宮宜有降殺,正上下之序,明教化之本」の方なのだろう。
太子と魯王の上下を明確にする、そのための手段として孫覇を国の藩輔とする=出鎮させるように主張しているのがこの上疏なのである。

(※1)『廣漢和辞典』によると「降殺」とは、順さがりに減らすこと。太子と王が受けていた当時の待遇を指して、序列づけるように言っているのだろう。

是儀は太子と魯王のことで危機感を抱いた。だからこそ孫覇を外に出すことで火種を消そうと図ったのだ。彼にそうした目的があったと踏まえて考えると、是儀が本心から孫覇の才能を発揮できるように取り計らったととらえるのは早計である。
孫覇を中央から遠ざけるという目的を達成するために「孫覇は優秀だから」という建前を持ち出したというのが実際のところではないか。

これは孫慮のときに丞相・顧雍を初めとする臣下たちがとった行動と同じである。顧雍らも孫慮の才能を認めたというよりは、孫権の孫慮への偏愛や皇后問題などを勘案した結果として太子孫登の地位を守るために孫慮を中央から遠ざけたものと考えられ、是儀はそれにならったのかもしれない。
孫覇を中央から遠ざけることは、孫和の立場を守ると同時に孫覇の身を守ることにも繋がるのである。


2.楊竺の主張
もう一つは楊竺の発言だが、こちらは正史『呉志』ではなく裴松之注『呉録』に記される。

(『呉志』陸凱伝注引『呉録』)
権時見楊竺,辟左右而論霸之才,竺深述霸有文武英姿,宜為嫡嗣,於是権乃許立焉。

楊竺についても是儀と同様、目的のための発言であると考えられる。
楊竺には孫覇を嫡嗣にするという目的があった。その目的達成のために孫覇には才能があるとして孫権を説得しようとしたのであり、本当に才能があったかどうかはこの発言をもって断定することはできない。

またこの記事の孫権の様子からして、孫権自身が孫覇を優秀であると考えていたとは言い難いように思う。はっきりと息子の才能を見抜いて評価していたならば、なぜ他人と議論する必要があるのだろう? 孫慮のときは、孫権自ら息子に才能があるとして可愛がった。ところが『呉録』のこの話からはそうした主体性が感じられない。
孫権としては孫覇の才を評価しかねて迷っていたのだろう。だからこそ楊竺は「孫覇は優秀だから」と強く主張したのである。そう言わなければ孫権に決断してもらえないと思ったのではないか。


3.まとめ
以上のことから、是儀や楊竺の言葉をもって魯王孫覇が優秀であったと決めつけるのは安易であると考える。
みなそれぞれに目的があった上で、目的を達成するべく孫覇を持ち上げた。そしてそれに乗ったのは他でもない孫覇自身だったのだろう。

ついでなので孫覇について述べたもう一人の人物、裴松之の言葉を以下に引用する。

(『呉志』孫和伝裴松之注)
和旣正位,適庶分定,就使才德不殊,猶將義不黨庶,況霸實無聞,而和爲令嗣乎?

(下線部:ちくま訳では「ましてや孫覇にはなんの良い評判もなかった」とある)

裴松之は後世の人間であり孫覇本人と面識があるはずもない。とはいえ正史のみならず多数の野史にも目を通した人物による評価であるため、意見の一つとして付け加えておく。


関連記事:
時系列と孫覇の年齢


2019年8月21日 (水)

孫権夫人:謝氏、徐氏、潘氏、歩氏の記述について

『呉志』妃嬪伝にある徐夫人の記述が歩夫人と比較する形で書かれているのではないかという疑念については以前述べた(徐夫人は孫登の母)。
漠然とした疑念ではあったが、これについて考えを進めるうちに認識を少し改めたので、その点について自分の考えをまとめるためにも書いていきたいと思う。


1.謝夫人・徐夫人・潘夫人と歩夫人の記述

まずはじめに引っかかったのは、歩夫人の美点を「嫉妬をしない」とする点だった。聡明だとか礼節を弁えていたとかではないのかと、何となく不思議に思った。
古来より嫉妬から他の女性を害した皇后たちがいたことを鑑みれば、嫉妬せず他の女性を推進したという行動は良妻としてふさわしい描写のように思える。嫉妬しないという表現自体におかしな点はない。

ただ、歩夫人の記述のみならず『呉志』妃嬪伝全体、特に孫権の三人の正室たちの記述と比較してみると、歩夫人の「嫉妬しない」という書き方にはもっと深い意味があるように感じられるのだ。ここではその点について検討してみたい。

孫権には四人の正室がいる。
孫権の母・呉夫人が選んだ謝夫人。謝夫人の次に正室となった徐夫人。息子が太子となったことにより皇后に立てられた潘夫人。そして死後に皇后の位を追贈された歩夫人である。
以下に歩夫人以外の正室三人の記述を引用する。

『呉志』妃嬪伝

(謝夫人)

權母吳,為權聘以為妃,愛幸有寵。後權納姑孫徐氏,欲令謝下之,謝不肯,由是失志①,早卒。

(徐夫人)

權為討虜將軍在吳,聘以為妃,使母養子登。後權遷移,以夫人妬忌,廢處吳②。積十餘年,權為吳王及即尊號,登為太子,羣臣請立夫人為后,權意在步氏,卒不許。後以疾卒。

(潘夫人)

明年,立夫人為皇后。性險妬容媚③,自始至卒,譖害袁夫人等甚衆④。權不豫,夫人使問中書令孫弘呂后專制故事。侍疾疲勞,因以羸疾,諸宮人伺其昏卧,共縊殺之⑤,託言中惡。

 

・謝夫人は、孫権の母・呉夫人が選んで妃とした。後に孫権から徐夫人の下につくよう求められてそれを拒否し、志を失った①。(ちくま訳では「寵愛を失った」と解する。ここではそれにならう)
・徐夫人は、孫権が討虜将軍となり呉にいたときに妃とし、孫登を育てさせた。後に嫉妬を理由に孫権から廃されて遠ざけられた②。
・潘夫人は、息子が太子となり皇后となった。性格はよこしまで妬み深く③、袁夫人らを譖害し④、宮人に殺された⑤。

上に引いた『呉志』妃嬪伝の記述は非常に簡素なものである。そんな簡潔な記事の中で、孫権の正室三人の女性たちはみな来歴とともに欠点が記されているという共通点があることがわかるだろう。いわく、「嫉妬する②③」「他の女性を立てられない①④」。謝夫人・徐夫人・潘夫人の三人は、この欠点により終わりをよくすることができなかった。
次に歩夫人の記述を見てみる。

(歩夫人)
夫人性不妬忌多所推進故久見愛待。權為王及帝,意欲以為后,而羣臣議在徐氏,權依違者十餘年,然宮內皆稱皇后,親戚上疏稱中宮。


歩夫人は、嫉妬せず、他の女性を推進し、故に長く大切にされた。孫権は彼女を皇后にしたいと思っており、宮内では皆が皇后と称し、親戚らは中宮と呼んだ。

これを正室三人の記述と並べて比較すると次のようになる。

歩夫人は嫉妬せず(②③との違い)、他の女性を立てたので(①④との違い)、孫権から長い間愛されることができた(①②との違い)。

このように歩夫人は謝夫人・徐夫人・潘夫人の欠点を見事にクリアしている。その結果、孫権から長く寵愛されることができた。彼女が三人の正室よりもいかに優れた女性であったかがよくわかる記述であろう。

そしてこれが、当初抱いた疑念の答えであるように思う。

歩夫人の美点を「嫉妬しない(ので他の女性を立てることができた)」とする書き方には大いに意味があったのだ。嫉妬から身を誤った孫権の正室三人と比較した上で、彼女たちよりも優れた女性であったと強調するために
「宮内では皆が皇后と称した」という記述も、皇后候補であった徐夫人や後に皇后となった潘夫人との比較のために欠かせないものだったのだろう(⑤との違い)。

正室三人が実際に問題のあった女性たちで、ただ歩夫人だけは欠点のないのが事実だからこうした記述になったのだという可能性は否定しない。だが、それだけとは思わない。
歩夫人は生前に正室になることはなかった。しかし、孫権や宮内の者からは認められ、嫉妬せず、他の女性を立てることのできる、正室三人の誰よりも皇后にふさわしい存在だったのだ。
謝夫人・徐夫人・潘夫人と歩夫人の記述からは、そうしたメッセージが強くこめられている印象を受けるのである。


2.孫登・徐夫人と歩夫人の記述

1では正室三人と歩夫人の記述を比較して、歩夫人を称揚する向きがあることについて述べた。それでは逆に、歩夫人に都合が悪いために妃嬪伝中に記されなかった事柄はあるだろうか。

この点については二点ほど思い当たる節がある。

(『呉志』孫登伝)
初,登所生庶賤,徐夫人少有母養之恩,後徐氏以妬廢處吳,而步夫人最寵。步氏有賜,登不敢辭,拜受而已。徐氏使至,所賜衣服,必沐浴服之。登將拜太子,辭曰:「本立而道生,欲立太子,宜先立后。」權曰:「卿母安在?」對曰:「在吳。」權嘿然。


まずは孫登に関する記述である。

孫登は徐夫人に養育された恩があり、徐夫人と歩夫人それぞれの対応に差をつけていた。これは見方を変えれば、歩夫人は他子を撫循することができなかった。太子から母として慕われることができなかったということである。
このことは皇后にふさわしい女性としての歩夫人像に傷をつけかねない。だから妃嬪伝には記されず、孫登伝にのみ取り上げられるに留まったのだろう。また、徐夫人について孫登を育てたことは書かれていても、太子となった彼から后として支持された件は記されないのも同様の理由からと思われる。

そしてもう一点は、徐夫人が嫉妬を理由に遠ざけられた件である。

謝夫人は徐夫人相手に、潘夫人は袁夫人ら相手に問題があったことはそれぞれ明記される。ところが、徐夫人に関してはどの女性と衝突したといった具体的な記述が見られない。潘夫人の場合などは、袁夫人の名が妃嬪伝に唐突に出されてまできちんと書かれているのを鑑みると、これは少し気になる部分だ。

徐夫人と関係のある女性として考えられるのは誰だろうか?

孫登伝は次のようにいう「後徐氏以妬廢處吳,而步夫人最寵」と。徐夫人が廃されたことで歩夫人は寵愛を得ることができたとも受け取れよう。
徐夫人が嫉妬したととられる行動を起こしたとすれば、その相手は歩夫人であった可能性がないとは言い切れまい。

後の歩夫人の行動を見るに、曹操の卞夫人が前妻の丁夫人に恭しく接したような様子は見られず(裴注『魏略』)、むしろ皇后の位を徐夫人に譲るつもりはなかった気配すら感じられる。
徐夫人と歩夫人は折り合いが悪く、徐夫人が廃されて遠ざけられた原因には歩夫人が絡んでいたのではなかったか。孫登が歩夫人に馴染まなかったのもそれが理由の一つとしてあったと、そんな風に考えることもできるかもしれない。

だが、それらを記せば嫉妬をせず他の女性を立てることのできる歩夫人像を損ねることになる。ゆえに徐夫人の嫉妬にまつわる事柄が謝・潘両氏のように詳らかに書かれることはなく、ただ嫉妬するの一言で済まされることとなったのである。

もう一つ付け加えるならば、歩夫人は「多所推進」多くの人を推薦したとされるわりに、その具体的な行動や名前が挙げられていない点も気になる。
歩夫人よりも後に孫権の妻妾になったと考えられる女性としては、瑯邪王夫人、南陽王夫人、潘夫人、袁夫人、謝姫、仲姫、何姫の名が挙げられるだろう。しかしどの女性にも、
歩夫人の推薦を受けたという記述は見られない。


3.まとめ
当初抱いたのは、徐夫人についての記述は歩夫人称揚のための作為のあとがあるのではという疑いだった。

その件について妃嬪伝及び重要人物といえる太子孫登の伝を比較して考えを進めていくうちに、疑念は範囲を広げて徐夫人以外の孫権の正室たる謝夫人と潘夫人へも及ぶこととなった。

結論として、妃嬪伝にある歩夫人の記述は、孫権の正室だった三人の女性すなわち謝夫人・徐夫人・潘夫人との対比ありきで書かれたのではなかろうか

三人の正室はそれぞれ不名誉な点が自身の伝に明記されているにも関わらず、歩夫人については都合の悪い部分が自身の伝に書かれない。そして歩夫人の美点とされる部分は「嫉妬しない」「他の女性を立てた」という、正室三人の欠点を意識したような筆致で描写される。これら謝夫人・徐夫人・潘夫人の記述と歩夫人の記述とがまったく無関係に書かれたと考えるには、作為的な感触が拭えないのである。

歩夫人の評価は、本人が聡明で礼節を弁えたといった絶対評価ではなく、三人の女性の価値を低めることで成立する相対評価なのだろう。歩夫人のためにも謝夫人・徐夫人・潘夫人それぞれの伝は『呉志』に必要なものだったのだ。

『呉志』の編纂は孫権死後の孫亮の代になってから始められた。孫亮の即位時には謝夫人・徐夫人・歩夫人・潘夫人はみな死去していたのだから、個々人の情報さえ集めておけば、四人の夫人について初めから終わりまでを同時進行で書くことは可能である。
しかしながら、どんな理由があって妃嬪伝がそのような状態になったのか。それについては今後の課題としたい。


余談.
後漢の陰麗華や馬皇后は賢夫人として知られるが、三国時代の女性を二人に当てはめるなら、前者は子がいないからと皇后位を辞退した袁夫人(裴注『呉録』)、後者は自身が馬皇后を尊敬し皇后となってからも親族を戒めたという曹丕の郭皇后だろうか(『魏志』)。
皇后の位を辞退した様子もなく、親戚が皇后問題に干渉することを戒めた様子もない歩夫人は、賢夫人と称された二人の皇后とは正反対であるように思われる。


(2019.10.5 細部の加筆修正)
(2019.11.26 一部加筆)


関連記事:
孫権の本命は歩夫人ではなく袁夫人
歩夫人は嫉妬しない
孫登、孫和、孫魯班の関係性


2019年8月 6日 (火)

諸葛恪の妻

『江表伝』に諸葛恪の妻は陸遜の娘だと書いてある
という書きこみを中国の掲示板で見たことがあるんだが、もう十数年も前のことだからその掲示板がどこにあったのかわからなくなってしまった。

記憶にある範囲では、その書きこみの後に別の人物が 「『江表伝』はすでに失われている」と指摘していた。それに対する先述書き込み者の返信は、自分が確認した限りではなかった。

本当なのか嘘なのか気になり過ぎてもう十年以上朝か昼か夜にしか眠れていない。
もし本当ならさすがに話題になっていそうだし、あの書きこみ以外に同様の発言を見たことがないのでどうかなあと思いつつ絶対にあり得ないとも言い切れないのでもどかしい。だって張氏―諸葛氏―陸氏には一応姻戚関係があったわけだし。そしてさらに、陸遜には娘がいたと思われるので(ただし存在が確認できる陸遜の娘は西晋の時代まで生きていたと思われる)。

投稿者が嘘をついたわけではなくとも、何かの逸文を見て勘違いした可能性や、誰かの創作を信じたケースなども考えられる以上、「可能性は否定できないけれど記述が見つからない以上はわからない」としか言いようがない。
仮に諸葛恪の妻が陸遜の娘だとしたら、『捜神記』の諸葛恪誅殺時の逸話に出てくる妻が陸氏ということになるのでそれはそれで悲しいことになるな。

もし本当にどこかで見たなら私が朝昼夜以外も眠れるようになるために教えて欲しいっすねえ。


関連記事:
陸遜の娘=陸抗の姉妹

2019年7月26日 (金)

名無しの権兵衛

 

(『呉志』孫登伝)
江表傳曰:登使侍中胡綜作賔友目曰:「英才卓越,超踰倫匹,則諸葛恪。精識時機,達幽究微,則顧譚。凝辨宏達,言能釋結,則謝景。究學甄微,游夏同科,則范慎。」衜乃私駁綜曰:「元遜才而疏,子嘿精而狠,叔發辯而浮,孝敬深而狹。」所言皆有指趣。而衜卒以此言見咎,不為恪等所親。後四人皆敗,吳人謂衜之言有徵。

 

この記事すごく気に入らないな。
賓友目とやらは諸葛恪、顧譚、謝景、范慎らが自分で作ったわけじゃない。孫登の命令で胡綜が作ったものだ。その作品に乗じる形で、羊ドウは私(こっそり)駁(反論)し、彼らの欠点をとりあげた。指趣があったとはいうがそれはあくまで羊ドウ視点のものに過ぎない。悪口じゃん。こんなことをいきなり言われたらそりゃ不愉快にもなるよ。

しかし、羊ドウは彼らが生きている間に自分の考えを自身の言葉で述べた。発言の責任を自分で負って、結果を自分で受けた。だから羊ドウが気に入らないわけじゃない。
鬱陶しいのは四人が皆敗れた後、おそらく死後に羊ドウの言葉には兆しがあったのだと言ったらしい名無しの誰か。結果が出てから他人の悪口に便乗するな。あと諸葛恪、顧譚はともかく謝景、范慎は敗れてないだろう。

この記事に限らず名有りの発言を盾にして誰かを批判する名無しや外野から非難する名無しが散見されるけどこの人たち何? どこ住み? ていうか誰だよ。

2019年7月 4日 (木)

なんでや潘夫人かわええやろ

孫権が歩夫人を寵愛した話は美談のごとく称賛されるわりに、同じく孫権が潘夫人を寵愛した話はあまり関心を持たれていなさそうなのはなぜだろう。

彼女たちは容貌の美しさから孫権に愛され、本来ならば皇后に立てられる立場ではないながらも皇后になったという共通点がある。

両者に向ける孫権の愛情に格差があったわけではあるまい。どちらも孫権は愛していただろう。
しかるに後世の人間が片方を称賛し片方には関心を寄せない理由はどこにあるのか?

おそらく史書に記される二人の人柄が大きな要素を占めているのではなかろうか。

俗な言い方をすれば歩夫人は良い人潘夫人は悪い人という印象を『呉志』からは受けるだろう。

良い人を愛したなら「身分にとらわれず善良な人を愛した」と良い話風になる。

悪い人を愛したなら「顔だけで寵愛して分不相応な地位を与えた」と悪い話風になる。

みんな良い話風が好きなんだ。そういうことなんだなあ。

別の見方をするなら、孫権の評価に関わるからという理由もあるかもしれない。

孫権にとってはどちらも同じ愛した女性でも、後世の人間にとっては孫権の印象に関わる問題となる(と思っている)ため愛を取捨選択してしまうのだ。世知辛いね。


なんとなく思っただけなので実際どうなのかはわかりません。

2019年6月10日 (月)

時系列と姚信のこと

1.姚信のこと
『呉志』陸遜伝には「而遜外生顧譚、顧承、姚信,並以親附太子,枉見流徙。」とある。
顧譚と顧承については顧雍伝に詳細が記されているがそこに姚信の名は見られず、他の伝を見ても彼の具体的な行動については記されていない。
姚信はなぜ南方へ流されることになったのだろうか。

はじめは論功行賞問題に姚信は無関係として楊穆と同時期に流されたのではないかと漠然と考えた。しかしそれでは孫権の陸抗や陸胤らへの対処の違いに説明がつかない。また近頃は陸遜が全琮に書を送ったのは論功行賞問題が関係していると考えるようになったこともあり、姚信は顧譚らと共に流されたとする方が陸遜伝の書き方を見ても筋が通ると認識を改めた。

姚信は、顧譚と共に張休・顧承を弁護した。これが原因で彼らと流されたのではないだろうか。

顧雍伝注引『呉録』と『江表伝』の記述には異同があり、前者に書いてあることが後者にはなく、後者に書いてあることが前者にはない。このため両書の記述が同じ時系列の出来事であるかは断定できず、それぞれを鵜呑みにするのは避けたいところではあるのだが、その上で考えられるのは、顧譚は二人のために弁明しようとしたという可能性だろうか。(※1)

そんな顧譚と意を同じくして張休や顧承のために抗弁したのが姚信だったのではないか。

姚信が陸遜の姉妹の子だとすれば、顧譚と顧承は彼にとって血を分けた従兄弟だったから。後年、一人だけ生き残った姚信はどんな思いで故郷の地を踏んだのだろう。

 

2.時系列
以前から述べている通り、陸氏・顧氏が全氏と敵対したのは芍陂の役の論功行賞問題に端を発する。
この問題により顧譚、顧承、姚信が配流された結果、陸遜が全琮父子に不満を抱くこととなった。陸遜が全琮に手紙を送ったのもこれが原因だろう。甥が三人も流されたというのに果たして何も感じずにいられるだろうか?
陸遜と全琮の仲違いは太子派と魯王派というスタンスがきっかけではないのである。

時系列としてはまず孫権が次期外戚として張氏を厚遇したことに全氏が反発し、その過程で太子孫和との間にも亀裂が走った。このまま孫和が皇帝となるのはまずいとして保身に走った全氏が魯王につく。そして、全氏の行動により太子や張氏に不信感を抱いた孫権は、自分が死ぬ前に現太子とその外戚を排除し、全氏に重きを置いた新たな政権を立てようとした。その一歩として張休を処罰したのである。
ここで顧譚・姚信が張休たちを庇った。彼らの姿勢は全氏を中心とする新政権への敵対行為と見なされ排除されたのだろう。

後継者問題に火がついたのは、孫権が魯王についた全琮父子の言をいれて太子の外戚である張休を殺したことが影響したと思われる。

ところで、全氏に傾いた孫権がその全氏と対立した陸氏(陸遜)をそのままにしておくだろうか? すでに全氏のために顧氏を排斥した結果を出した以上は後戻りできたとは思えない。

楊竺が告発したという「遜二十事」が本当に楊竺の手によるものなのかも気になるところだ。実際に「遜二十事」で行動したのは楊竺ではなく孫権だからである。


(※1)『呉録』の記述について。

張休が投獄された状況と、投獄されていない状況とでは、顧譚の心境に与える影響はまったく異なる。彼の弟も張休と同じ理由で非難の対象とされていたからだ。顧譚とて、張休が投獄されていなければもっと冷静に対応できたかもしれない。だが状況はそうではなかったのである。顧譚に孫権の心の中を読み取れというのは無茶な話であって、このとき彼に認識できたのは張休が繋獄したという事実だけなのだ。どうにかしなければ張休や弟が殺されると焦りを抱き平静を欠いていたとしても何らおかしくはないだろう。ましてや顧譚には、丞相であった祖父の顧雍が呂壱によって処罰されかけた経験があるのだから(顧雍伝、潘濬伝)。


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二宮についての雑感

『呉志』に太子派または魯王派として名前が挙げられる人物の共通点はその事件で命を落としたか追放されていること。呉安、孫奇、諸葛恪の息子なんて事件に関わっていたと突然名前が出てくる。そのことで殺されたからだ。
逆に言うと、事件に関わっても生き延びた、あるいは事件と関係なく死んだ者についてはほとんど触れられていないということではないか? このことが何を意味するかはわからない。


処罰された人物の記述を読むと、そうなった理由はおそらくこうだろう。
孫権が新政権樹立を急いで反対者を弾圧した結果であると。
殺されたり追放された人たちの行動のタイミングを見ると、そうなんじゃないかと思う。


張休や陸遜、吾粲、顧譚らは、孫覇の政権を立てるために排除した。
朱拠や屈晃、張純、陳正らは、孫亮の政権を立てるために排除した。
なぜなら彼らは太子廃嫡を反対したことによって新政権の反対者と見なされたから。だから弾圧された。

彼らの行動は孫和への支持と必ずしもイコールではないと思う。屈晃などは反対の理由として「この時期はまずい」と言っているのでそういうことだろう。
ところが孫晧が自分の正統性を主張するために、太子の変更に反対した者を孫和を認めて支持した者としてすり替えた。だから『呉志』はややこしくなってしまった。これまで考えてきた上でそんな印象を受けた。

私は『呉志』が孫和派とされる人物を守っているとは思わない。編纂の都合でやってもいないことをやったように書かれているのはこの人たちの方だからだ。名前の書かれていない者の方がよほど守られていると感じるね。

その名前の書かれていない者というのは主として『通語』に列挙された人物のことだが、これを「呉志に書いてないので通語の間違い」と簡単に切り捨てるのには賛成できない。『通語』の著者は当時のことを知っている(または聞かされている)と思われ、その記述には当時の人々の認識が反映されているかもしれないからだ。
そもそも『通語』には名前が挙げられてはいても具体的な行動は記されていない。そのため名前が挙げられるなら皆が皆吾粲や朱拠のようにわかりやすい行動をとったはずだという先入観が生まれ、彼らが行動した時期以外のエアポケットに動いた者がいることや、消極的支持者がいたかもといった可能性を潰してしまっているのでは。


私見では顧譚は「太子と王を同じ宮殿で生活させるのは後々面倒なことになると思う」という上疏以外の行動はしていない。ただここから孫和が太子である状況を肯定しているとは受け取れる。殷基はそれを孫和支持と見なして『呉志』同様に顧譚を太子派として分けたのかもしれない。
たとえば是儀や羊ドウなども、彼らの上疏から孫和が太子である状況を維持する向きが見られることから、どちらかに分けるなら孫和支持者として私も書く。顧譚も、また他にもそういうパターンで名前が出ている人物がいる可能性は考えられるわけだ。
滕胤などは伝自体が未完成の状態なので、実は行動を書こうと思っていたが間に合わなかったなんてこともあるかも。


先に述べたように、『呉志』に行動が記されている人物は大きな局面で行動して損害を受けた者がほとんどで、それ以外の者たちについては省略されたのではと考えられる。それとは別に、孫晧が自身の正統性を主張するために孫和についた者として陸遜や顧譚といった名望のある人物の名前を挙げたのだとしたら、孫覇についた者の名は逆に伏せるだろう。歩騭といった名望のある人から父は支持されなかったなどと書く理由がないからだ。

嫡庶を長幼とするのは研究者の論文にでも書いてあるんだろうか? 仮に嫡庶に長幼の意味があるとしても当時長幼について述べた人物は見当たらないし、わざわざ嫡庶を長幼という言葉に置き換える必要性がまるで感じられないんだが。


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陸氏は孫和を支持しなかった説

諸葛恪誅殺に関する記述や孫亮の鼠の話は複数の文献から引用されているため、『呉録』や『呉歴』、『江表伝』の記述に他との異同があることがわかる。
しかし、一つの史料のみに見られる記述については、他の史書との内容の比較ができない。

 

(陸凱伝注引『呉録』)
太子自懼黜廢,而魯王覬覦益甚。權時見楊竺,辟左右而論霸之才,竺深述霸有文武英姿,宜為嫡嗣,於是權乃許立焉。有給使伏于牀下,具聞之,以告太子。胤當至武昌,往辭太子。太子不見,而微服至其車上,與共密議,欲令陸遜表諫。既而遜有表極諫,權疑竺泄之,竺辭不服。權使竺出尋其由,竺白頃惟胤西行,必其所道。又遣問遜何由知之,遜言胤所述。召胤考問,胤為太子隱曰:「楊竺向臣道之。」遂共為獄。竺不勝痛毒,服是所道。初權疑竺泄之,及服,以為果然,乃斬竺。


上記の記述はその一つである。

他の史書との比較検討ができないため、この『呉録』の記述だけを見た上で気になる点を挙げてみる。

この記述について最も気になるのは、陸胤が孫和からどの程度の情報を与えられたかという点である。
『呉録』がいうには、孫権と楊竺の密談を聞いた給使が孫和に情報を伝え、恐れた孫和は人目につかないよう陸胤の元へ行き、ともに密議して、陸遜に止めてもらおうという話になったという。
これを見ると、陸胤は孫和からすべての事情を知らされたようにも受け取れる。
しかしそうすると、その後の陸胤の行動が不自然に感じる。相当な用心をしている孫和と比べて、陸胤はあまりにも警戒心が薄いように見えるのだ。

この一件で陸胤が生き延びたのはただの僥倖だった。
楊竺が嘘の自供をしたのは結果としてそうなっただけであって、それより先に陸胤が死んでいたかもしれないし、二人揃って殺される可能性もあった。たとえ釈放されたとしても、傷が原因で死んでいたかもしれない。陸胤は運良く助かったに過ぎず、はっきりと言えば死ぬ確率の方が高かった。
陸遜に諌止するよう伝えた陸胤は、その行動の結果、自分や陸遜が罪に問われることを予想していなかったのだろうか?

もしかすると陸胤は、孫和の情報が孫権と楊竺の密談を盗み聞きしたものだとは知らされていなかった、という可能性があるのではないか。
その可能性について考えてみたい。

『呉録』では、陸遜に諌止してもらうという話になったのは武昌に向かう陸胤の車上でとなっている。
陸胤の武昌行きは以前から予定されていたことであり、諌止の件はこの車上で決まった副次的な理由だったのだろう。
これから
都を離れてしまう陸胤に、なぜ孫和はリスクをおかしてまで会いに行く必要があったのか。

陸胤を通して陸遜を動かそうと考えていたからではないかと思われる。

つまり、陸胤と協議した結果陸遜に諌止してもらう結論になったのではなく、孫和ははじめから陸遜に諌止させるつもりだった。だから、武昌に行こうとする陸胤に微服してまで会いに行き話を持ちかけたのである。
こう考えると、このときの孫和の注意深さも腑に落ちる。彼は人前で陸胤に見えることをせず、その車上に赴く際も微服して細心の注意を払っている。すべての事情を知っている孫和は、自分の情報によってなされるであろう陸遜の諌止という行動と自身を結びつける要素を出来る限り取り除いておきたかったのだろう。

これから武昌に行く陸胤には情報収集をする時間はなかったろうから、孫和の情報をそのまま西へ運んだはずだが、問題なのは孫和が陸胤にどこまで話したかである。
切羽詰まっていたであろう孫和はどうにかして陸遜に動いてもらいたかったに違いない。孫権が孫覇を立てるのを許したと聞き、窮地に立たされた孫和は、孫権を止めるにはどうすればいいか、誰なら止められるかを考えたはずである。そうして考えた末に陸遜を頼みの綱としたのだ。

しかし、もし情報の出所も含めてすべての事情を説明したならば、警戒して動いてくれない可能性も考えられた。それは崖っぷちに立った孫和にとって非常にまずい。
そのために孫和は、どういう経緯で知ったのかは伏せた上で陸胤を説得した という風にも考えることができるのである。

孫和としては太子を変えることを止めてくれさえすれば良いのだから、ひょっとしたら孫権の存在は伏せて、楊竺の名前くらいしか出さなかったかもしれない。
肝心の『呉録』は陸遜が極諫したと記すも実際の上表文は引用しておらず、どんな内容であったかを知ることはできない。そのため内容は想像するしかないのだが、もし仮に「魯王が太子になるのではないかという噂が流れているようですが」くらいの触れ方であったとしても、”孫覇を”嫡嗣とする意思を楊竺との密談以外で示したことがなければ、孫権は楊竺が情報を漏らしたのではないかと疑ってもおかしくはないのである。

陸胤は召されて考問される事態となって初めてまずいものを掴まされたと察したのだろう。自身が考問を受けた時点で、孫和の名を出せば事態がかなり厄介なことになる想像はできたはずである。楊竺の名前を出したのは、孫和から楊竺の動きについては聞かされていたからで、孫和の名前を出すことはできなかったため、咄嗟に名前を出してしまったのだろう。事情を把握していなかったとすれば陸胤も相当混乱したに違いない。

 

(陸凱伝附陸胤伝)
會全寄、楊竺等阿附魯王霸,與和分爭,陰相譖搆,胤坐收下獄,楚毒備至,終無他辭。

 

廃嫡を懼れて情報を漏らしたのは、孫和である。陸胤は経緯を知らなかったにも関わらず犯人として捕らわれたが、孫和が漏らしたのだとは一切口にしなかった。ゆえに、他言なし、と。

陸遜や陸胤が被害を受ける事態は孫和としても予想外だったかもしれない。孫権の決定を聞いた上で陸遜に頼ろうという発想になる孫和であるから、孫権が陸遜らにああ出るとは思ってもみなかったのではないか。陸遜が止めれば孫権も考え直すかもと期待しての孫和の行動であろうから。

また、孫和が人目につかないように動いたのは、陸遜らの行動に自分が関わっていることを知られたくなかったのもあるだろうが、そのほかにも以前、全公主から讒言されたのを鑑みて警戒するようになったのだとも思える。
給使から話を聞いてかなり動揺しただろうし、どうにかしなければという焦りも相当あっただろう。孫権の子供同士で貶め合う状況の中、藁にも縋る思いで行動していたのかもしれない。

ともあれ、結果的に孫和は陸氏を騙して利用する形となってしまった。

陸胤が孫和としっかり情報共有した上で行動した場合と、陸胤が孫和から正しい情報を与えられないまま行動した場合に違いはあるかというと、あると思う。
陸胤が生き延びたことによって、一連の出来事が彼の口から一族内に共有されることとなった。陸氏視点では、孫和はひとまず窮地を免れたかもしれないが、こちらは相当なダメージを負わされたと感じていたとしても不思議ではない。何しろ陸遜が亡くなってしまったので。
仮に陸胤自身は己の失態であると納得したとしても、はたして親族は同じ心境になれただろうか。

後年、孫和が廃嫡されることになると多くの人が反対した。
例として同郷出身者の名を挙げるならば、朱拠、張純(顧悌も?)などが廃嫡に反対したという。ところが、陸遜の死後、後継者問題に関する陸氏の動きは史書に一切確認できない。

あの事件があったため下手に動けなかったというのもあるだろう。中央から外されていたからというのも考えられるかもしれない。
ただ陸氏には、他家とは異なり、孫和個人を積極的に支持しない理由があったのかもしれない、ということである。


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