呉後期関連

2019年11月30日 (土)

孫魯育の改葬

孫峻に殺され石子岡に埋められた孫魯育を改葬したのは孫晧。これは『捜神記』と『建康実録』に記述がある。

(干宝『捜神記』第二巻)

吳孫峻殺朱主,埋於石子岡。歸命即位,將欲改葬之,冢墓相亞,不可識別。而宮人頗識主亡時所著衣服,乃使兩巫各住一處,以伺其靈,使察鑒之,不得相近。久時,二人俱白見一女人,年可三十餘,上著青錦束頭,紫白袷裳,丹綈絲履,從石子岡上半岡,而以手抑膝長太息,小住須臾,更進一冢上,便止,徘徊良久,奄然不見。二人之言,不謀而合。於是開冢,衣服如之。

維基文庫より引用

(『建康実録』)

元興元年…(中略)…以禮葬魯育公主

※元興元年は264年

 

孫晧の前の皇帝である孫休は、孫魯育らのことを理由に孫峻の棺を暴いて印綬を奪ったりしているのに、孫魯育を埋葬し直したりはしていない。
孫休にとって孫魯育は実の姉であり、皇后の実母でもある。先代の政治的混乱が原因となって無残にも石子岡に埋められた彼女について思いを馳せなかったとは思い難いのに、なぜだろうか。


おそらく、孫休は改葬しなかったのではなく出来なかったんだと思う。

『捜神記』によると、孫晧は孫魯育を改葬しようとしたけれど墓を識別できなかったそうだ。
孫魯育が殺害されたのは255年、孫休の即位は258年。3年も経っていたせいで、孫休もどれが誰の墓か判別できなかったのだろう。
孫晧が孫魯育の墓を見つけ出せたのは巫に霊視(?)させるという方法をとったからであり、孫休は巫に霊視させて姉の墓を識別したろ!とは考えなかったんだろうね。

ちなみに『捜神記』のこの逸話の一つ前に孫休と覡の話が載っている。孫休も巫や覡を信じていなかったわけではないみたい。



(この記事はツイッターで呟いたものをブログ用に一部加筆修正したものです。)

2019年4月 5日 (金)

薛瑩の『條列呉事』

『世説新語』にある孫休と雉の話 の注に出てくる『條列呉事』について。
あまり聞かない名前なので気になっていたが、どうも薛瑩が書いたものらしい。
『太平御覧』巻二百二十に『薛瑩條列呉事』からの引用がある。内容は胡沖についてのこと。

 

《薛瑩條列吳事》曰︰胡沖意性調美,心趣解暢,有刀筆才,閑于時事。爲中書令,雖不能匡矯,亦自守不苟求容媚。

維基文庫より引用

『世説新語』規箴篇
孫休好射雉,至其時則晨去夕反。群臣莫不止諫:「此為小物,何足甚躭?」休曰:「雖為小物,耿介過人,朕所以好之。」
環濟吳紀曰:「休字子烈,吳大帝第六子。初封琅邪王,夢乘龍上天,顧不見尾。孫琳廢少主,迎休立之。銳意典籍,欲畢覽百家之事。頗好射雉,至春,晨出莫反,唯此時舍書。崩,謚景皇帝。」條列吳事曰:「休在位烝烝無有遺事,唯射雉可譏。」

維基文庫より引用


薛瑩は諸葛恪に命じられて韋昭らと共に『呉書』の編纂にあたった人だ。そのときに集めた資料が手元に残っており、後年それらをまとめて私的に作ったとかなのかな。
確認できた二つの引用が、孫休・胡沖と後期の人物に関するものである点も気になる。孫休を諱で書いているのは原文からなのか、注をつける際に改められたのか。前者だとしたら『條列呉事』は呉滅亡後に作られた?

それから、同書巻三百二十八に薛瑩の「答華永先詩」が引かれている。永先は華覈の字。先に華覈が薛瑩に詩を贈ったんだろうね。仲良いね。『呉志』の評で華覈について「文賦の才は韋昭以上」と書かれていることを思い出した。


2018年8月 5日 (日)

滕芳蘭

私が約10年ファンをやっている滕后こと滕夫人こと滕芳蘭が三国志大戦にデビューしちゃうのかあ。感慨に耽ってしまうなあ。と思いながら調べていたら既にさんすま等のソシャゲに出ていることを知り、時の流れを感じたのだった。
滕芳蘭は呉で最も長く皇后だった女性やぞ。しかもあの孫皓の在位期間にやぞ。すごいぞ。

そういえばなぜ潘夫人のように滕夫人ではなく滕芳蘭って諱表示なんだろうかと気になったけどwikiに諱で記事が作られているからなのかな?何にせよ芳蘭って名前、字でも音でもキレイで可愛いから良いと思うぞ。(上から)

ついでにずっと前から気になっていた「滕后は常に昇平宮を供養していたというのはご機嫌うかがい(ちくま訳)というよりもっと具体的にお世話を焼いていたということなのでは?」という疑問についてちょっと良い感触があったのでメモする。

維基の何姫の項目

孫皓皇后滕氏後來失寵,孫皓有意廢掉她的皇后身份,被何太后所勸阻,後來滕皇后常去升平宮奉養何太后。


奉養という表現がされている。

何姫と滕芳蘭は孫皓が即位する前から姑と嫁で、滕芳蘭は何姫をお世話していただろうから、即位後もその関係が続いたんだろう。きっと仲の良い嫁姑で、だから何姫も滕芳蘭を守ったのだ。という自分の妄想。

後宮には他にも皇后扱いされてるような女性達がおったんやでと記される滕后の立場って、皇帝としての孫皓の立場と通ずるものがあったのかなあ。
滕后が何太后を頼ったように、孫皓もその何氏一族を頼っていたもんね。
皇帝孫皓の生母何姫を皇后滕芳蘭(即位前から嫁姑)も母と慕い、母は娘を守り、母の一族は息子を守り…と皇帝-皇后-皇太后-外戚のラインががっちり結束してたのかななどと妄想してみた。

2011年5月10日 (火)

滕氏こそが孫晧の皇后

滕夫人伝には「長秋官僚,備員而已,受朝賀表疏如故。」とあり、そのあとに「でも後宮内には皇后の印綬を持ってる人がいっぱいいたんだよ」と書いてある。
けれども長秋が配備されていて朝賀表疏を受けるのはもとのままだったというのは、要するに滕芳蘭こそが皇后という証なのでは。

前にも書いた通り「占いで皇后を変えちゃダメと出た」というのは「他に印綬を持ってる者がいても皇后を変えることはない(=滕皇后を廃位するつもりはない)」という理由付けに利用されたんじゃないかと思っている。だから「長秋官僚,備員而已,受朝賀表疏如故。」というのも他の寵姫たちとは明確な差別化が図られていたものと解釈する。他に同様の扱いを受けていた女性がいたという記述はないからな。

滕皇后とは政略結婚っぽいし、寵姫の中に本気で好きになった女性がいたとかそういうことは否定しないけど、それとこれとは話が別だと孫晧も分別をつけていたと思いたい。

2011年3月25日 (金)

孫晧はファザコンか?

孫晧さんのファザコン疑惑について前から思っていたことを書いてみる。

孫和の祭祀で異常なまでに号泣してみせたり、彼を皇帝として書けと迫ったのも、結局のところ自分自身のためというのが一番大きな理由なのでは。
司馬炎は父母の死に際して徹底した服喪を行うことによって孝をアピールした。孫晧はそれに倣ったんじゃないかな。あるいは対抗してみせた。(二人の行動の前後間違ってるかも…)
孫和を皇帝として書けと言ったのは、自分の即位の正統性を確立させたかったから。孫晧の即位の経緯、また評判を思えば、そういうことを考えてもおかしくないだろう。

個人的なイメージとして「孫晧は必死」というのがあって、彼は思いつく限りのことはしてきたんじゃないかなと思う。それが自分だけのためのことだとしてもね。

2010年10月13日 (水)

張布の娘

張布の娘は孫休の代に後宮に入った→張布が処刑されたときに一緒に殺された というのも成立しないだろうか。
孫休が張布を重宝していたのは姻戚関係にあったからというのはどうだろう。
孫休の正妻は朱氏だけど、朱氏一族が権威を振りかざしていたみたいな記述はないんだよね。孫亮の代に排除されたっていうのもあるかもしれないが。

2009年10月18日 (日)

滕夫人が気になる

父の滕牧は憂死してしまったけれど、娘の滕芳蘭は最後まで皇后のまま国の滅亡を迎えて、夫が先立つと自ら哀策を作ってもいる。ということは孫晧が死去するまで一緒に居たということだよね。この人けっこう強い女性なのかも。

滕夫人伝には、孫晧は巫女の言葉を信じていたから皇后を変えなかったのだとある。「滕芳蘭の他に皇后の印璽を佩いた女性が居た」というのが事実だったとしたら、これは「巫女が皇后は変えない方が良いと言っている」ことを理由にして「だから他に皇后の印璽を持っている者が居ても滕皇后を廃位することはないのだ」という意思表示をしたとも解釈できるんじゃないかと、安田先生の論文を読んでいて思った。
何姫と滕芳蘭に関するわずかな記述からも、皇太后である何姫は皇后の滕芳蘭をはっきりとわかる形で支持していたと推測することができると思う。

孫晧は滕牧のこともあった故に一時的には本気で皇后の廃位を考えたこともあったかもしれないが、最終的には「皇后は滕芳蘭のまま変えない」と決断して、それは国が滅ぶまで変わらなかったんじゃないかと妄想している。
太子の孫瑾が滕芳蘭の実子なのか気になるところだけど史料がなさすぎるな。

2008年7月 5日 (土)

孫休と雉

『世説新語』規箴篇にある孫休の雉狩りの話。

孫休好射雉,至其時則晨去夕反。群臣莫不止諫:「此為小物,何足甚躭?」休曰:「雖為小物,耿介過人,朕所以好之。」
環濟吳紀曰:「休字子烈,吳大帝第六子。初封琅邪王,夢乘龍上天,顧不見尾。孫琳廢少主,迎休立之。銳意典籍,欲畢覽百家之事。頗好射雉,至春,晨出莫反,唯此時舍書。崩,謚景皇帝。」條列吳事曰:「休在位烝烝無有遺事,唯射雉可譏。」

維基文庫より引用


『條列呉事』にある「烝烝」というのは『漢字源』には「よいほうにどんどん進むさま」と出ていた。
孫休には雉の話題が多い(?)けど、それだけ度を越していたということなのかなあ。終日雉狩りしたり諸子百家の書を読破したがったり、孫休はのめりこむタイプなんだろうか。発揮する方向はともかく集中力はありそうだ。
それにしても、朝っぱらから出かけて一日中帰って来なかったり、息子に俺の考えた最強の名前をつけてみたりと、けっこうフリーダムでアグレッシブだよね。あの名前に関する詔なんて、臣下もリアクションに困ると思う。孫休本人は大真面目だろうからシュールだ。

 

2007年11月12日 (月)

華覈

『建康実録』に「華覈は天紀二年の5月に年六十で死去した」と書かれていると小耳に挟んだのだが、それが本当なら彼は219年生まれか。孫晧の治世はそれくらいの年代の人が多々いるからおかしくはないね。

孫晧が、華覈は老年だから草稿のまま上表していいよと命じたことに対して、華覈が韻文を作って感謝の意を表している。実際に華覈がどういう気持ちだったかはわからないが、あれを読む度にかわいいおじさんだなと思う(笑
右国史に任じられたとき辞退しようとしたのを孫晧が「うだうだ言ってないでやれ」と突っぱねてるのも、華覈的には笑えないだろうけどなんか笑える。

それから同じく『建康実録』に「元興元年の10月、魯育公主を改葬しようとした」とあるらしいことも聞いたが、この話は『捜神記』にもあるね。
いつも思うんだけど、朱拠が亡くなったあと劉簒に嫁いだのになんでいつまで経っても“朱”公主なんだろう。

 

2007年9月 1日 (土)

何姫と滕芳蘭

ちくま訳本を見ると「孫晧は滕牧をうざがってむかついてたけど何姫が口添えしてくれたから滕夫人は廃位させられずに済んだ。そのため滕夫人は升平宮へのご機嫌伺いを欠かさなかった」とある。
この“ご機嫌伺い”の部分、原文では「常供養升平宮」となっていて、供養を辞書(漢字源)で調べてみると「供養:1飲食物の世話をし、親を養う。2祖先のおたまやに食物を供える」と出た。何姫が呉滅亡前に死去したとは記されていないので1の意味で用いられている可能性はあるだろう。

三国志では他にも供養という言葉は使われており(文徳郭皇后伝や孫登伝など)、その部分はちくま訳本で「孝養」や「お世話」と訳されている。滕夫人伝の供養も他伝と同じく「常に升平宮(何姫)のお世話をしていた」という意味で使われているのではないだろうか。
何姫と滕芳蘭は孫晧が即位するまでは皇太后でも皇后でもない姑と嫁だったわけで、嫁の滕芳蘭は姑である何姫のお世話をしていただろう。そしてきっと仲が良かったのだろう。だから何姫は息子夫婦の関係が険悪になった時いつも嫁さんを庇ってやり、滕芳蘭はそんな姑のお世話を怠る事がなかったのだ。皇太后・皇后となっても以前のような良好な姑嫁関係は変わらなかったのである。

と妄想してみたけど、皇后が皇太后の食事を作ったりするとかありえるのかな。文徳郭皇后伝にも「供養永寿宮」とあるけど、どこからどこまでの行為が供養の範疇なのか。そもそも皇后が常に皇太后の世話をするのは当然のことなんだろうか? でも当たり前のことならわざわざ書かない気もするしなあ。

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