江東豪族関連

2019年11月10日 (日)

呉の四姓の順番

細かい点だけど、某先生の本を読んでいて、「呉の四姓」を挙げる際に「陸、顧~」と陸氏を一番最初に挙げて書いているところが気になった。
私の知っている範囲の史料だと、「顧、陸~」と顧氏を陸氏より先に持ってきているイメージだったので。

『呉志』陸凱伝
「先帝外仗顧、陸、朱、張

『世説新語』政事
「檢校諸顧、陸役使官兵及(後略)」

同 賞誉
吳四姓舊目云:「張文、朱武、陸忠、顧厚。」
注、吳錄士林曰:「吳郡有顧、陸、朱、張,為四姓。(後略)」

『文選』巻28
呉趨行の注、張勃吳錄曰:(前略)四姓,朱、張、顧、陸也。

上に引いた5つの記述のうち、『世説新語』賞誉のものだけ「陸顧」の順番で(逆にすると顧陸朱張だ)、それ以外は「顧陸」という並べ方。顧氏を陸氏より先に挙げているものが多い。
この印象が残っていたから本での順番の違う書き方にちょっと違和感を覚えた。陸氏の人物の方が知名度が高いから~くらいの理
由かもしれないけど。

それと、順序が違うように見えて「顧&陸」「朱&張」という組み合わせはいじられていないね。たとえば「張、顧、朱、陸」みたいな順番は、引用したものの中には見られない。

これらの並べ方には意味があるんだろうか。
①家格の上下
②地理的な近さ
③ルーツの近さ
④語呂が良いから(発音などの関係)
等々、何かしらの理由がつけられるものなのかな。
たとえば親子兄弟も書くときはだいたい目上・目下の順だしちょっと気になる。


(この記事はツイッターで呟いたものをブログ用に一部加筆修正したものです。)

2019年9月23日 (月)

姚敷

呉の人物である姚信の父親の名を「姚敷」だとする出典はなんだろうと気になっていたんだけど『新唐書』かな。

(『新唐書』巻74下)

姚姓,虞舜生於姚墟,因以為姓。陳胡公裔孫敬仲仕齊為田氏,其後居魯,至田豐,王莽封為代睦侯,以奉舜後。子恢避莽亂,過江居吳郡,改姓為媯。五世孫敷,復改姓姚,居吳興武康。敷生信,吳選曹尚書。

維基文庫より引用


姚信の一族については姚察・姚思廉のことは知っていたが他にも名前のわかっている人がいるんだね。
「遜外生」が陸遜の姉妹の子を指すとすれば、陸遜の姉妹が嫁いだ相手はこの姚敷ということになる。陸遜や顧邵に近い年代の人なんだろうか? そうだとすれば、息子の姚信は顧譚・顧承兄弟と年が近かったとも考えられるかも。
また、『新唐書』のこの情報からは、姚敷が呉朝において官位を得ていたかどうかがわからない。仕えたけれど書かれていないのか、仕えていなかったのか、仕える前に亡くなったのか。

ところで姚信自身について、裴松之は姚信の集から陸鬱生のことは紹介しているのに姚信自身の情報は残していない。孫弘や袁夫人などは野史から僅かながらも補足しているのになぜだろう。
興味がなかったか、うっかり忘れたか、実はちゃんと注釈を入れていたのがどこかで抜け落ちたか。
姚信の子孫は続いていて、裴松之自身も姚信の集を史料として引っ張り出しているのに、姚信本人の情報は見つけられなかったというのはないように思うが。そして姚信は字いくつ持ってるんだ。



関連記事:
時系列と姚信のこと
姚信と姚察と姚思廉
賀循+α


2008年5月28日 (水)

朱桓と朱異と朱拠

朱桓と朱拠の関係性ははっきりしない。

『呉志』朱桓伝には「(朱異の)従父の朱拠」と書かれており、私はこれを勝手にイトコだと思い込んでいた。だから三国志大戦の設定で朱拠が朱桓の弟とされていることに首を傾げていたのだけど、『漢字源』を引いたら「従父=父の兄弟」と出ていたので納得した。S○GAの人はここから判断したのかもしれない。

しかし本当に弟ならば陸瑁のように「陸遜の弟である」と一言書かれていそうな気もする。孫権が朱拠に向かって朱異のことを褒めた件は、顧雍に向かって孫の顧承を褒めた逸話を彷彿とさせることからも、朱桓父子と朱拠の関係の近さを感じさせるが。
昔の続柄を表す単語は意味が広くて紛らわしい。「舅」とか。


2008年5月17日 (土)

朱誕、字は永長

陸雲には「与平原書」の他に「与朱光禄書」がある。この「朱光禄」について、佐藤先生は『晋書』顧衆伝の「光禄朱誕器之」という記述を示して朱誕のことであろうかと指摘されている。朱誕なる人物のことは前々から気になっていたので、この機会に少し調べてみた。

朱誕の情報について比較的まとまっていると思われるのは『捜神記』と『世説新語』の注にある以下の記述。

『捜神記』
呉孫皓世,淮南内史朱誕,字永長,為建安太守。

孫晧の治世、淮南内史の朱誕、字永長は建安太守であったという。
淮南内史朱誕の名は『晋書』陸雲伝にも見える(「
大将軍参軍孫恵与淮南内史朱誕書」)。おそらく孫恵が書を送った朱誕は『捜神記』に出てくる朱誕(字永長)と同一人物だろう。

『世説新語』注引『蔡洪集』「与刺史周俊書」
朱誕字永長,呉郡人。…呉朝挙賢良,累遷議郎。

字永長と明記されているから、こちらの朱誕も先述の朱誕と同一人物だろう。蔡洪によれば、彼は呉郡出身で、呉のとき賢良に挙げられ議郎に累遷したという。朱誕が呉郡の人物であることは、『晋書』賀循伝にも「
惟循与呉郡朱誕」と見える通りである(※『呉志』賀邵伝の裴注では同郡朱誕となっている)。

ここまでの情報をまとめると、朱誕(字永長)は、呉朝では賢良に挙げられて議郎、建安太守となり、晋朝では淮南内史をつとめていた人物となる。
もう一つ手がかりになりそうな情報は『芸文類聚』にある「
呉録曰朱光為建安太守」という引用文。この記事は『太平御覧』にもあるようで、そちらは「朱光禄為建安郡」となっているらしい。私は御覧を持っていないため未確認であるが、そうだとすれば、建安郡とは建安太守と同じ意味と思われるので、『呉録』の記述は「朱光禄為建安太守」ということになる。さらに最初にあげた『晋書』顧衆伝の記事を見てみる。そこにある「光禄朱誕」という記述から、朱光禄は朱誕を指すのだと十分に考えられ得るだろう。『呉録』の逸文に出てくる建安太守であった朱光禄とは、『捜神記』に登場する孫晧のとき建安太守であった朱誕(字永長)のことと判断して良いと思う。
以上のことから、佐藤先生のご賢察の通り「与朱光禄書」の朱光禄とは朱誕の可能性が高いと考える。

以上、私が持っている朱永長に関する情報を基に推測してみた。

朱誕は呉郡呉県の出身なんだろうか?
朱光禄が朱誕なら、彼は陸雲と書簡のやりとりをする間柄だったということだ。別人であったとしても、孫恵がわざわざ陸機兄弟のことで書簡を送るくらいだから朱誕もまた兄弟と面識はあったのだと思う。朱誕が評価している顧衆もまた呉郡呉県の人。それだけじゃ判断はつかないけれどそうだったら面白いな。
呉県の朱氏でなくても、呉で郡太守・晋で内史になっていたり、陳敏から誘いを受けていたり、蔡洪が呉の人士として名を挙げているなどのことから、それなりの家柄だったんじゃなかろうか。あと、光禄(光禄大夫だよね)というのはたぶん朱誕の極官だと思うけど、東晋では呉の人がよく与えられていた官位っぽい。

2008年3月 9日 (日)

賀循+α

『晋書』賀循伝
賀 循 字 彦 先 , 會 稽 山 陰 人 也 。 其 先 慶 普 , 漢 世 傳 禮 , 世 所 謂 慶 氏 學 。 族 高 祖 純 , 博 學 有 重 名 , 漢 安 帝 時 為 侍 中 , 避 安 帝 父 諱 , 改 為 賀 氏 。

 

(超てきとーな訳)
賀循は字を彦先といい、会稽山陰の人である。その祖先の慶普は漢の世に礼を伝えた。世に言う所の慶氏学である。族高祖の賀純は、博学で重名があり、漢の安帝の時に侍中となった。安帝の父の諱を避けて、姓を改めて賀氏とした。

慶普は戴徳・戴聖と共に后蒼から学んだそうだ。よく知らない(^ ^;
これを見て思ったのだが、賀斉は活動時期が時期だけに武将として活躍しただけで、元来は高い教養のある人なんだろうか。
賀斉の孫の賀邵については次のような記述があった。

 

『晋書』儒林伝
范 平 字 子 安 , 呉 郡 錢 塘 人 也 。 其 先 銍 侯 馥 , 避 王 莽 之 亂 適 呉 , 因 家 焉 。平 研 覽 墳 素 , 遍 該 百 氏 , 姚 信 、 賀 邵 之 徒 皆 從 受 業 。 呉 時 舉 茂 才 , 累 遷 臨 海 太 守 , 政 有 異 能 。 孫 皓 初 , 謝 病 還 家 , 敦 悅 儒 學 。 呉 平 , 太 康 中 , 頻 徴 不 起 , 年 六 十 九 卒 。 有 詔 追 加 諡 號 曰 文 貞 先 生 , 賀 循 勒 碑 紀 其 德 行 。 三 子 : 奭 、 咸 、 泉 , 並 以 儒 學 至 大 官 。

 

范平という人物のもとで姚信や賀邵らは学業に励んでいたらしい。学んだのは主に儒学だろうか。
さらに賀邵の子の賀循は太常に任ぜられ、「朝 廷 疑 滯 皆 諮 之 於 循 , 循 輒 依 經 禮 而 對 , 為 當 世 儒 宗 。」当世の儒宗とされたとある。へー。

ちなみに姚信については、陸雲が「與平原書」の中で「姚公のことは儒林伝に書けば良いのではないか」と述べている。この姚公が姚信を指すと判断して良いのならば、儒林伝にとあること、呉の時に太常になっていることから、儒学に通じた人なのだろうと思う。当時の人はだいたいそうだろうけど。


2007年6月 2日 (土)

呉県の朱氏

三国志大戦の朱拠はイラストも台詞もかっこよくて誠実そうで、呉の中でも地味な感否めない彼がこんな風に素敵な具合にキャラクター化されたというのはやっぱり嬉しい。
一般的に朱拠にどのようなイメージがあるのかはわからないが、個人的にはお人好しなイメージがある。彼自身のことでパッと思い浮かぶことを書き出してみると、


・朱桓と同族で、妻が孫魯育

・呂壱事件で孫権に疑われて何度も問責された
・二宮の変で孫和を擁護して棒叩きを喰らったあげく左遷された上に偽詔書によって自殺させられた


なんというか、脇が甘いというか隙だらけというか、権謀術数うずまく政界では生き残れないタイプなのかもしれない。好きな言葉は真実一路です!とか言いそう(※イメージ)


ところで、呉郡呉県の朱氏一族にはある共通点があることに気が付いた。まず、上記の通り朱拠は孫氏一族の跡継ぎ絡みで世を去ることになったのだが、そのほかの呉県の朱氏一族とそれに関係する人物の死に方を見てみると、

・朱異…孫チンに殺された
・朱夫人…孫晧に殺された
・朱公主…孫峻に殺された
・朱熊、朱損…孫亮に殺された


なんと朱家の皆さんには孫家の呪いがかかっていたのである。関羽の呪いどころじゃないよ、もっと強力だよ。
といっても大体が孫亮時代の出来事であり、呉の混迷期にあってそれだけ権力に近かったことの裏返しなのかもしれない。

朱熊の息子の朱宣は孫休の治世に爵位を継いで公主を賜り、孫晧の時代には驃騎将軍にまで昇ったそう(位は祖父と一緒)。
孫晧は朱宣のおばにあたる朱夫人(と孫休の息子たち)を殺害してはいるけれど、朱宣にはそういった記述がないあたり一応は無事に過ごすことができたのだろうか?

2007年5月 5日 (土)

モカ珈琲はかくまで苦し

北人の南人差別みたいな部分は後々きちんと調べてみたい。陸機の誅殺にも絡んでくる要素のようなので。

陸機が孟超に浴びせられた「貉奴(むじな)如きに都督がよくつとまるな!」という罵倒に出てくる「貉奴」という言葉は南人に対する蔑称だったらしい。『世説新語』には、晋へ亡命した孫家の孫秀が現地で娶った奥さんにやきもちを妬かれて罵倒されたエピソードが載っているのだけど、その罵声が「貉奴!」だったため、孫秀はひどく気分を害したらしい。てことは、孫秀は貉奴が蔑称だとわかっていたのか。なぜ貉奴なんだろう? 調べれば何か出てくるかな。
また、同じく『世説新語』には司馬炎と孫晧の「爾汝歌」エピソードがある。これも司馬炎が南方の文化を小馬鹿にしているようにも解釈できる。

うろ覚えだが、確か宮崎市定先生の本に「晋(東晋?)では呉の人たちは仕官する前にまず北方の言葉遣いを習得しなければならなかった」といったことが書いてあった記憶がある。そして、おそらくそのことと関わりがあるのだと思うけど、葛洪が『抱朴子』の中でそういう風潮を嘆いていた憶えがある。これもうろ覚えだが。
さらに葛洪は呉平定後の呉に対する扱いに対しても、「差別するにもやり方があろう!」と憤慨していた。どうも官職につくための試験も受けさせてもらえなかったらしい。

陸雲の書簡には、彼が呉出身者を北方へ手引きすることに汲汲とし、また多くの人材が官途に就けないことを嘆いている様子が見られるらしい。

2007年2月 5日 (月)

姚信と姚察と姚思廉

『陳書』姚察伝
姚察字伯審,呉興武康人也。九世祖信,呉太常卿,有名江左。

『新唐書』姚思廉伝
姚思廉字簡之,雍州萬年人。父察,陳吏部尚書

姚察と姚思廉は『陳書』『梁書』を著述した人たち。その姚察より九世上の祖が呉で太常を務めた姚信という人物であるとのことだが、呉で太常に任ぜられた姚信といったら遜外生姚信と見て間違いないだろう。九世というのも三国後期とほぼかぶる、たぶん。

『呉志』に出てくる姚氏は姚信を含めてもごくわずかしか居ないのでどういった家柄なのかはわからないが、陸家と婚姻関係を結んでいると思われること、姚信が著述をよくした人物であるらしいこと、また江左で名が知られていたとあることから考えると、まずまずの家柄だったのではないかと推測される。
『呉志』にある姚信の記述で最も新しいものは269年に出された陸凱の上表文の中であり、それ以降に彼がどうなったのかは不明である。殺されたという記述もないので、在官のまま天寿を全うしたのかもしれない。(孫晧伝を見ると276年には周処が太常を兼務しているから、それ以前に死去?)


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姚敷


2006年10月17日 (火)

呉郡の張さん

『晋書』に張翰という人の記述がある。見てみると、「張翰は呉郡呉出身。父の張儼は呉で大鴻臚をつとめていた」と記される。
裴松之が『呉志』に注を引く際に使用した『呉録』の著者・張勃の父も大鴻臚の張儼。ということはこの二人は兄弟になるのだろうか。呉郡呉の張氏ということは、「呉の四姓」の張氏ということかな。

呉郡出身の張氏で『呉志』に記述があるのは張温、張敦とその息子の張純あたり。専伝を有するのは張温で、後者二人はオマケ程度にちょろっと書かれているだけ。が、よく見ると二人とも張勃の『呉録』から詳細が引用されていたりする。同族だから詳しく知っているということだろうか?
ちなみに張勃本人の記述は『呉志』にはまったくなく、裴松之の注にもなく、『晋書』の張翰伝でも触れられていないため、どういう人物なのかは不明。本当に張儼の息子なのかもわからない。気になる。どこかに情報が載ってないかね。


張翰は西晋の詩人の一人で、顧栄や賀循と親しかった様子。顧栄が死去したときの張翰の嘆きっぷりは凄まじい。物事にこだわらず後世に名を残すことよりも今生きることを大切にした人で、晋に仕えはしたものの、さっさと見切りをつけて隠棲生活を始めた。そのおかげで八王の乱にも巻き込まれずに済んだと書かれている。