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2019年8月21日 (水)

孫権夫人:謝氏、徐氏、潘氏、歩氏の記述について

『呉志』妃嬪伝にある徐夫人の記述が歩夫人と比較する形で書かれているのではないかという疑念については以前述べた(徐夫人は孫登の母)。
漠然とした疑念ではあったが、これについて考えを進めるうちに認識を少し改めたので、その点について自分の考えをまとめるためにも書いていきたいと思う。


1.謝夫人・徐夫人・潘夫人と歩夫人の記述

まずはじめに引っかかったのは、歩夫人の美点を「嫉妬をしない」とする点だった。聡明だとか礼節を弁えていたとかではないのかと、何となく不思議に思った。
古来より嫉妬から他の女性を害した皇后たちがいたことを鑑みれば、嫉妬せず他の女性を推進したという行動は良妻としてふさわしい描写のように思える。嫉妬しないという表現自体におかしな点はない。

ただ、歩夫人の記述のみならず『呉志』妃嬪伝全体、特に孫権の三人の正室たちの記述と比較してみると、歩夫人の「嫉妬しない」という書き方にはもっと深い意味があるように感じられるのだ。ここではその点について検討してみたい。

孫権には四人の正室がいる。
孫権の母・呉夫人が選んだ謝夫人。謝夫人の次に正室となった徐夫人。息子が太子となったことにより皇后に立てられた潘夫人。そして死後に皇后の位を追贈された歩夫人である。
以下に歩夫人以外の正室三人の記述を引用する。

『呉志』妃嬪伝

(謝夫人)

權母吳,為權聘以為妃,愛幸有寵。後權納姑孫徐氏,欲令謝下之,謝不肯,由是失志①,早卒。

(徐夫人)

權為討虜將軍在吳,聘以為妃,使母養子登。後權遷移,以夫人妬忌,廢處吳②。積十餘年,權為吳王及即尊號,登為太子,羣臣請立夫人為后,權意在步氏,卒不許。後以疾卒。

(潘夫人)

明年,立夫人為皇后。性險妬容媚③,自始至卒,譖害袁夫人等甚衆④。權不豫,夫人使問中書令孫弘呂后專制故事。侍疾疲勞,因以羸疾,諸宮人伺其昏卧,共縊殺之⑤,託言中惡。

 

・謝夫人は、孫権の母・呉夫人が選んで妃とした。後に孫権から徐夫人の下につくよう求められてそれを拒否し、志を失った①。(ちくま訳では「寵愛を失った」と解する。ここではそれにならう)
・徐夫人は、孫権が討虜将軍となり呉にいたときに妃とし、孫登を育てさせた。後に嫉妬を理由に孫権から廃されて遠ざけられた②。
・潘夫人は、息子が太子となり皇后となった。性格はよこしまで妬み深く③、袁夫人らを譖害し④、宮人に殺された⑤。

上に引いた『呉志』妃嬪伝の記述は非常に簡素なものである。そんな簡潔な記事の中で、孫権の正室三人の女性たちはみな来歴とともに欠点が記されているという共通点があることがわかるだろう。いわく、「嫉妬する②③」「他の女性を立てられない①④」。謝夫人・徐夫人・潘夫人の三人は、この欠点により終わりをよくすることができなかった。
次に歩夫人の記述を見てみる。

(歩夫人)
夫人性不妬忌多所推進故久見愛待。權為王及帝,意欲以為后,而羣臣議在徐氏,權依違者十餘年,然宮內皆稱皇后,親戚上疏稱中宮。


歩夫人は、嫉妬せず、他の女性を推進し、故に長く大切にされた。孫権は彼女を皇后にしたいと思っており、宮内では皆が皇后と称し、親戚らは中宮と呼んだ。

これを正室三人の記述と並べて比較すると次のようになる。

歩夫人は嫉妬せず(②③との違い)、他の女性を立てたので(①④との違い)、孫権から長い間愛されることができた(①②との違い)。

このように歩夫人は謝夫人・徐夫人・潘夫人の欠点を見事にクリアしている。その結果、孫権から長く寵愛されることができた。彼女が三人の正室よりもいかに優れた女性であったかがよくわかる記述であろう。

そしてこれが、当初抱いた疑念の答えであるように思う。

歩夫人の美点を「嫉妬しない(ので他の女性を立てることができた)」とする書き方には大いに意味があったのだ。嫉妬から身を誤った孫権の正室三人と比較した上で、彼女たちよりも優れた女性であったと強調するために
「宮内では皆が皇后と称した」という記述も、皇后候補であった徐夫人や後に皇后となった潘夫人との比較のために欠かせないものだったのだろう(⑤との違い)。

正室三人が実際に問題のあった女性たちで、ただ歩夫人だけは欠点のないのが事実だからこうした記述になったのだという可能性は否定しない。だが、それだけとは思わない。
歩夫人は生前に正室になることはなかった。しかし、孫権や宮内の者からは認められ、嫉妬せず、他の女性を立てることのできる、正室三人の誰よりも皇后にふさわしい存在だったのだ。
謝夫人・徐夫人・潘夫人と歩夫人の記述からは、そうしたメッセージが強くこめられている印象を受けるのである。


2.孫登・徐夫人と歩夫人の記述

1では正室三人と歩夫人の記述を比較して、歩夫人を称揚する向きがあることについて述べた。それでは逆に、歩夫人に都合が悪いために妃嬪伝中に記されなかった事柄はあるだろうか。

この点については二点ほど思い当たる節がある。

(『呉志』孫登伝)
初,登所生庶賤,徐夫人少有母養之恩,後徐氏以妬廢處吳,而步夫人最寵。步氏有賜,登不敢辭,拜受而已。徐氏使至,所賜衣服,必沐浴服之。登將拜太子,辭曰:「本立而道生,欲立太子,宜先立后。」權曰:「卿母安在?」對曰:「在吳。」權嘿然。


まずは孫登に関する記述である。

孫登は徐夫人に養育された恩があり、徐夫人と歩夫人それぞれの対応に差をつけていた。これは見方を変えれば、歩夫人は他子を撫循することができなかった。太子から母として慕われることができなかったということである。
このことは皇后にふさわしい女性としての歩夫人像に傷をつけかねない。だから妃嬪伝には記されず、孫登伝にのみ取り上げられるに留まったのだろう。また、徐夫人について孫登を育てたことは書かれていても、太子となった彼から后として支持された件は記されないのも同様の理由からと思われる。

そしてもう一点は、徐夫人が嫉妬を理由に遠ざけられた件である。

謝夫人は徐夫人相手に、潘夫人は袁夫人ら相手に問題があったことはそれぞれ明記される。ところが、徐夫人に関してはどの女性と衝突したといった具体的な記述が見られない。潘夫人の場合などは、袁夫人の名が妃嬪伝に唐突に出されてまできちんと書かれているのを鑑みると、これは少し気になる部分だ。

徐夫人と関係のある女性として考えられるのは誰だろうか?

孫登伝は次のようにいう「後徐氏以妬廢處吳,而步夫人最寵」と。徐夫人が廃されたことで歩夫人は寵愛を得ることができたとも受け取れよう。
徐夫人が嫉妬したととられる行動を起こしたとすれば、その相手は歩夫人であった可能性がないとは言い切れまい。

後の歩夫人の行動を見るに、曹操の卞夫人が前妻の丁夫人に恭しく接したような様子は見られず(裴注『魏略』)、むしろ皇后の位を徐夫人に譲るつもりはなかった気配すら感じられる。
徐夫人と歩夫人は折り合いが悪く、徐夫人が廃されて遠ざけられた原因には歩夫人が絡んでいたのではなかったか。孫登が歩夫人に馴染まなかったのもそれが理由の一つとしてあったと、そんな風に考えることもできるかもしれない。

だが、それらを記せば嫉妬をせず他の女性を立てることのできる歩夫人像を損ねることになる。ゆえに徐夫人の嫉妬にまつわる事柄が謝・潘両氏のように詳らかに書かれることはなく、ただ嫉妬するの一言で済まされることとなったのである。

もう一つ付け加えるならば、歩夫人は「多所推進」多くの人を推薦したとされるわりに、その具体的な行動や名前が挙げられていない点も気になる。
歩夫人よりも後に孫権の妻妾になったと考えられる女性としては、瑯邪王夫人、南陽王夫人、潘夫人、袁夫人、謝姫、仲姫、何姫の名が挙げられるだろう。しかしどの女性にも、
歩夫人の推薦を受けたという記述は見られない。


3.まとめ
当初抱いたのは、徐夫人についての記述は歩夫人称揚のための作為のあとがあるのではという疑いだった。

その件について妃嬪伝及び重要人物といえる太子孫登の伝を比較して考えを進めていくうちに、疑念は範囲を広げて徐夫人以外の孫権の正室たる謝夫人と潘夫人へも及ぶこととなった。

結論として、妃嬪伝にある歩夫人の記述は、孫権の正室だった三人の女性すなわち謝夫人・徐夫人・潘夫人との対比ありきで書かれたのではなかろうか

三人の正室はそれぞれ不名誉な点が自身の伝に明記されているにも関わらず、歩夫人については都合の悪い部分が自身の伝に書かれない。そして歩夫人の美点とされる部分は「嫉妬しない」「他の女性を立てた」という、正室三人の欠点を意識したような筆致で描写される。これら謝夫人・徐夫人・潘夫人の記述と歩夫人の記述とがまったく無関係に書かれたと考えるには、作為的な感触が拭えないのである。

歩夫人の評価は、本人が聡明で礼節を弁えたといった絶対評価ではなく、三人の女性の価値を低めることで成立する相対評価なのだろう。歩夫人のためにも謝夫人・徐夫人・潘夫人それぞれの伝は『呉志』に必要なものだったのだ。

『呉志』の編纂は孫権死後の孫亮の代になってから始められた。孫亮の即位時には謝夫人・徐夫人・歩夫人・潘夫人はみな死去していたのだから、個々人の情報さえ集めておけば、四人の夫人について初めから終わりまでを同時進行で書くことは可能である。
しかしながら、どんな理由があって妃嬪伝がそのような状態になったのか。それについては今後の課題としたい。


余談.
後漢の陰麗華や馬皇后は賢夫人として知られるが、三国時代の女性を二人に当てはめるなら、前者は子がいないからと皇后位を辞退した袁夫人(裴注『呉録』)、後者は自身が馬皇后を尊敬し皇后となってからも親族を戒めたという曹丕の郭皇后だろうか(『魏志』)。
皇后の位を辞退した様子もなく、親戚が皇后問題に干渉することを戒めた様子もない歩夫人は、賢夫人と称された二人の皇后とは正反対であるように思われる。


(2019.10.5 細部の加筆修正)
(2019.11.26 一部加筆)


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