« 2019年5月 | トップページ | 2019年7月 »

2019年6月

2019年6月10日 (月)

時系列と姚信のこと

1.姚信のこと
『呉志』陸遜伝には「而遜外生顧譚、顧承、姚信,並以親附太子,枉見流徙。」とある。
顧譚と顧承については顧雍伝に詳細が記されているがそこに姚信の名は見られず、他の伝を見ても彼の具体的な行動については記されていない。
姚信はなぜ南方へ流されることになったのだろうか。

はじめは論功行賞問題に姚信は無関係として楊穆と同時期に流されたのではないかと漠然と考えた。しかしそれでは孫権の陸抗や陸胤らへの対処の違いに説明がつかない。また近頃は陸遜が全琮に書を送ったのは論功行賞問題が関係していると考えるようになったこともあり、姚信は顧譚らと共に流されたとする方が陸遜伝の書き方を見ても筋が通ると認識を改めた。

姚信は、顧譚と共に張休・顧承を弁護した。これが原因で彼らと流されたのではないだろうか。

顧雍伝注引『呉録』と『江表伝』の記述には異同があり、前者に書いてあることが後者にはなく、後者に書いてあることが前者にはない。このため両書の記述が同じ時系列の出来事であるかは断定できず、それぞれを鵜呑みにするのは避けたいところではあるのだが、その上で考えられるのは、顧譚は二人のために弁明しようとしたという可能性だろうか。(※1)

そんな顧譚と意を同じくして張休や顧承のために抗弁したのが姚信だったのではないか。

姚信が陸遜の姉妹の子だとすれば、顧譚と顧承は彼にとって血を分けた従兄弟だったから。後年、一人だけ生き残った姚信はどんな思いで故郷の地を踏んだのだろう。

 

2.時系列
以前から述べている通り、陸氏・顧氏が全氏と敵対したのは芍陂の役の論功行賞問題に端を発する。
この問題により顧譚、顧承、姚信が配流された結果、陸遜が全琮父子に不満を抱くこととなった。陸遜が全琮に手紙を送ったのもこれが原因だろう。甥が三人も流されたというのに果たして何も感じずにいられるだろうか?
陸遜と全琮の仲違いは太子派と魯王派というスタンスがきっかけではないのである。

時系列としてはまず孫権が次期外戚として張氏を厚遇したことに全氏が反発し、その過程で太子孫和との間にも亀裂が走った。このまま孫和が皇帝となるのはまずいとして保身に走った全氏が魯王につく。そして、全氏の行動により太子や張氏に不信感を抱いた孫権は、自分が死ぬ前に現太子とその外戚を排除し、全氏に重きを置いた新たな政権を立てようとした。その一歩として張休を処罰したのである。
ここで顧譚・姚信が張休たちを庇った。彼らの姿勢は全氏を中心とする新政権への敵対行為と見なされ排除されたのだろう。

後継者問題に火がついたのは、孫権が魯王についた全琮父子の言をいれて太子の外戚である張休を殺したことが影響したと思われる。

ところで、全氏に傾いた孫権がその全氏と対立した陸氏(陸遜)をそのままにしておくだろうか? すでに全氏のために顧氏を排斥した結果を出した以上は後戻りできたとは思えない。

楊竺が告発したという「遜二十事」が本当に楊竺の手によるものなのかも気になるところだ。実際に「遜二十事」で行動したのは楊竺ではなく孫権だからである。


(※1)『呉録』の記述について。

張休が投獄された状況と、投獄されていない状況とでは、顧譚の心境に与える影響はまったく異なる。彼の弟も張休と同じ理由で非難の対象とされていたからだ。顧譚とて、張休が投獄されていなければもっと冷静に対応できたかもしれない。だが状況はそうではなかったのである。顧譚に孫権の心の中を読み取れというのは無茶な話であって、このとき彼に認識できたのは張休が繋獄したという事実だけなのだ。どうにかしなければ張休や弟が殺されると焦りを抱き平静を欠いていたとしても何らおかしくはないだろう。ましてや顧譚には、丞相であった祖父の顧雍が呂壱によって処罰されかけた経験があるのだから(顧雍伝、潘濬伝)。


関連記事:
二宮についての雑感
全皇后と張妃
二宮の変の太子派について
ターゲットは顧譚ではなく張休

« 2019年5月 | トップページ | 2019年7月 »