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2019年5月14日 (火)

陸氏は孫和を支持しなかった説

諸葛恪誅殺に関する記述や孫亮の鼠の話は複数の文献から引用されているため、『呉録』や『呉歴』、『江表伝』の記述に他との異同があることがわかる。
しかし、一つの史料のみに見られる記述については、他の史書との内容の比較ができない。

 

(陸凱伝注引『呉録』)
太子自懼黜廢,而魯王覬覦益甚。權時見楊竺,辟左右而論霸之才,竺深述霸有文武英姿,宜為嫡嗣,於是權乃許立焉。有給使伏于牀下,具聞之,以告太子。胤當至武昌,往辭太子。太子不見,而微服至其車上,與共密議,欲令陸遜表諫。既而遜有表極諫,權疑竺泄之,竺辭不服。權使竺出尋其由,竺白頃惟胤西行,必其所道。又遣問遜何由知之,遜言胤所述。召胤考問,胤為太子隱曰:「楊竺向臣道之。」遂共為獄。竺不勝痛毒,服是所道。初權疑竺泄之,及服,以為果然,乃斬竺。


上記の記述はその一つである。

他の史書との比較検討ができないため、この『呉録』の記述だけを見た上で気になる点を挙げてみる。

この記述について最も気になるのは、陸胤が孫和からどの程度の情報を与えられたかという点である。
『呉録』がいうには、孫権と楊竺の密談を聞いた給使が孫和に情報を伝え、恐れた孫和は人目につかないよう陸胤の元へ行き、ともに密議して、陸遜に止めてもらおうという話になったという。
これを見ると、陸胤は孫和からすべての事情を知らされたようにも受け取れる。
しかしそうすると、その後の陸胤の行動が不自然に感じる。相当な用心をしている孫和と比べて、陸胤はあまりにも警戒心が薄いように見えるのだ。

この一件で陸胤が生き延びたのはただの僥倖だった。
楊竺が嘘の自供をしたのは結果としてそうなっただけであって、それより先に陸胤が死んでいたかもしれないし、二人揃って殺される可能性もあった。たとえ釈放されたとしても、傷が原因で死んでいたかもしれない。陸胤は運良く助かったに過ぎず、はっきりと言えば死ぬ確率の方が高かった。
陸遜に諌止するよう伝えた陸胤は、その行動の結果、自分や陸遜が罪に問われることを予想していなかったのだろうか?

もしかすると陸胤は、孫和の情報が孫権と楊竺の密談を盗み聞きしたものだとは知らされていなかった、という可能性があるのではないか。
その可能性について考えてみたい。

『呉録』では、陸遜に諌止してもらうという話になったのは武昌に向かう陸胤の車上でとなっている。
陸胤の武昌行きは以前から予定されていたことであり、諌止の件はこの車上で決まった副次的な理由だったのだろう。
これから
都を離れてしまう陸胤に、なぜ孫和はリスクをおかしてまで会いに行く必要があったのか。

陸胤を通して陸遜を動かそうと考えていたからではないかと思われる。

つまり、陸胤と協議した結果陸遜に諌止してもらう結論になったのではなく、孫和ははじめから陸遜に諌止させるつもりだった。だから、武昌に行こうとする陸胤に微服してまで会いに行き話を持ちかけたのである。
こう考えると、このときの孫和の注意深さも腑に落ちる。彼は人前で陸胤に見えることをせず、その車上に赴く際も微服して細心の注意を払っている。すべての事情を知っている孫和は、自分の情報によってなされるであろう陸遜の諌止という行動と自身を結びつける要素を出来る限り取り除いておきたかったのだろう。

これから武昌に行く陸胤には情報収集をする時間はなかったろうから、孫和の情報をそのまま西へ運んだはずだが、問題なのは孫和が陸胤にどこまで話したかである。
切羽詰まっていたであろう孫和はどうにかして陸遜に動いてもらいたかったに違いない。孫権が孫覇を立てるのを許したと聞き、窮地に立たされた孫和は、孫権を止めるにはどうすればいいか、誰なら止められるかを考えたはずである。そうして考えた末に陸遜を頼みの綱としたのだ。

しかし、もし情報の出所も含めてすべての事情を説明したならば、警戒して動いてくれない可能性も考えられた。それは崖っぷちに立った孫和にとって非常にまずい。
そのために孫和は、どういう経緯で知ったのかは伏せた上で陸胤を説得した という風にも考えることができるのである。

孫和としては太子を変えることを止めてくれさえすれば良いのだから、ひょっとしたら孫権の存在は伏せて、楊竺の名前くらいしか出さなかったかもしれない。
肝心の『呉録』は陸遜が極諫したと記すも実際の上表文は引用しておらず、どんな内容であったかを知ることはできない。そのため内容は想像するしかないのだが、もし仮に「魯王が太子になるのではないかという噂が流れているようですが」くらいの触れ方であったとしても、”孫覇を”嫡嗣とする意思を楊竺との密談以外で示したことがなければ、孫権は楊竺が情報を漏らしたのではないかと疑ってもおかしくはないのである。

陸胤は召されて考問される事態となって初めてまずいものを掴まされたと察したのだろう。自身が考問を受けた時点で、孫和の名を出せば事態がかなり厄介なことになる想像はできたはずである。楊竺の名前を出したのは、孫和から楊竺の動きについては聞かされていたからで、孫和の名前を出すことはできなかったため、咄嗟に名前を出してしまったのだろう。事情を把握していなかったとすれば陸胤も相当混乱したに違いない。

 

(陸凱伝附陸胤伝)
會全寄、楊竺等阿附魯王霸,與和分爭,陰相譖搆,胤坐收下獄,楚毒備至,終無他辭。

 

廃嫡を懼れて情報を漏らしたのは、孫和である。陸胤は経緯を知らなかったにも関わらず犯人として捕らわれたが、孫和が漏らしたのだとは一切口にしなかった。ゆえに、他言なし、と。

陸遜や陸胤が被害を受ける事態は孫和としても予想外だったかもしれない。孫権の決定を聞いた上で陸遜に頼ろうという発想になる孫和であるから、孫権が陸遜らにああ出るとは思ってもみなかったのではないか。陸遜が止めれば孫権も考え直すかもと期待しての孫和の行動であろうから。

また、孫和が人目につかないように動いたのは、陸遜らの行動に自分が関わっていることを知られたくなかったのもあるだろうが、そのほかにも以前、全公主から讒言されたのを鑑みて警戒するようになったのだとも思える。
給使から話を聞いてかなり動揺しただろうし、どうにかしなければという焦りも相当あっただろう。孫権の子供同士で貶め合う状況の中、藁にも縋る思いで行動していたのかもしれない。

ともあれ、結果的に孫和は陸氏を騙して利用する形となってしまった。

陸胤が孫和としっかり情報共有した上で行動した場合と、陸胤が孫和から正しい情報を与えられないまま行動した場合に違いはあるかというと、あると思う。
陸胤が生き延びたことによって、一連の出来事が彼の口から一族内に共有されることとなった。陸氏視点では、孫和はひとまず窮地を免れたかもしれないが、こちらは相当なダメージを負わされたと感じていたとしても不思議ではない。何しろ陸遜が亡くなってしまったので。
仮に陸胤自身は己の失態であると納得したとしても、はたして親族は同じ心境になれただろうか。

後年、孫和が廃嫡されることになると多くの人が反対した。
例として同郷出身者の名を挙げるならば、朱拠、張純(顧悌も?)などが廃嫡に反対したという。ところが、陸遜の死後、後継者問題に関する陸氏の動きは史書に一切確認できない。

あの事件があったため下手に動けなかったというのもあるだろう。中央から外されていたからというのも考えられるかもしれない。
ただ陸氏には、他家とは異なり、孫和個人を積極的に支持しない理由があったのかもしれない、ということである。


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