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2019年5月 5日 (日)

全皇后と張妃

『呉志』を読むと、後継者争いが起きた結果として芍陂の役の論功行賞問題が生じたという書き方になっているが、因果関係が逆ではないだろうか。
論功行賞で生まれた不満がきっかけとなって、後継者問題に発展していったのだと思う。

芍陂の役は241年のこと。この論功行賞で張休は全琮の息子たちよりも高く評価された。
そして翌年242年には孫和が太子に立てられて、その妃に張承の娘が迎えられた。

張昭伝附張承伝によると、孫権は孫和に命じて張承に対し子婿の礼をしばしばとらせたという。このように、この時期の孫権は張氏一族を尊重する動きを見せている。

全氏としては面白くなかっただろう。先の論功行賞で全氏は張氏の下に置かれ、さらに彼らは次期皇帝の外戚というポジションに迎えられた。
同時期の後宮へ視点を移すと、こちらにも不満の種となりそうな事態が見られる。

孫権の張承への配慮を踏まえると、寵姫を外に出すという後宮の女性たちを序列づけるような彼の行動も、張承の娘が孫和の妃に納れられ、瑯邪の王夫人と縁戚関係を結んだことが理由の一つとしてあったのかもしれない。
その孫権の後宮には歩夫人を皇后とする派閥があったと推測され、歩夫人の死後だれも皇后に立てられることがなかったためにその派閥が席巻し続けた可能性がある。そうであれば、張氏一族の娘が太子の妃となった結果それまでの序列にメスが入れられることとなった状況に対して、歩夫人の娘である全公主が不快感を抱いたとしても何らおかしくはないのである。

また先に述べたように、孫権は孫和に張承を尊重させた。こうしたことから、その母である王夫人にも張妃への接し方について何らかの指示を出したと考えることはできるだろう。王夫人は全公主よりも張妃を優先したかもしれない、ということである。王夫人と全公主の仲違いもこうしたことがきっかけで生じた可能性があるのではないか(以前から二人の仲が悪かったとしたら、ますます溝が深まっただけのことだ)。
とはいえ、孫和や王夫人は孫権の意向を受けて言いつけを守ったに過ぎない。

全公主は孫家の出だが全琮との間に息子をもうけており、この息子は当然全氏一族に属するので、その母として全氏一族の立場に立ちその利害のために動いていたのだろう。

このように全氏一族の不満は着実に蓄積されていった。

劉繇伝には次のような記述がある。

(『呉志』劉繇伝附劉基伝)
後權為子霸納基女,賜第一區,四時寵賜,與全、張比。


全氏と張氏が同列に遇されていた様子が窺われる。

全氏は全琮が孫権の娘(全公主)を娶ったことで重んじられたが、次代では張氏がその立場になろうとしていた。これまでの序列がまさに張氏に傾く形で変わろうとしていたのである。
その大きな流れに対して全氏は反感を覚えたのではないだろうか。


孫権末期の一連の事件のきっかけは、皇帝の代替わりにより変化しようとする環境に全氏が不満を抱いたことにあった。

不幸なのは、孫権が太子と魯王を同等に遇するという状況を作っていたことである。
張氏を敵視する全氏が彼らを擁する太子につかず魯王に接近したのは当然の動きであり、当初から若い魯王を利用して事態を動かす意図があったのだろう。全氏ほどの家柄の人間が魯王に近づいたことは周囲に大きな影響を与えたに違いない。
こうして火種は後継者の問題まで広がり、孫権が強引に鎮火させるまで燃え続けることとなったのである。


騒動の結果、孫亮が次代の皇帝となりその皇后には全氏の娘が立てられた。全氏一族は外戚の立場を変わらず保つことに成功したわけだ。
太子であった孫和は廃されて藩臣となり、
次代の皇后となるはずだった張妃は臣下の妻として全氏の娘――全皇后に上疏する立場となってしまったのだった。

この流れに沿って孫和伝に記される諸葛恪の張妃への言葉を見ると、何とも意味深い発言に思えてくるのである。


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