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2019年5月

2019年5月18日 (土)

二宮についての雑感

『呉志』に太子派または魯王派として名前が挙げられる人物の共通点はその事件で命を落としたか追放されていること。呉安、孫奇、諸葛恪の息子なんて事件に関わっていたと突然名前が出てくる。そのことで殺されたからだ。
逆に言うと、事件に関わっても生き延びた、あるいは事件と関係なく死んだ者についてはほとんど触れられていないということではないか? このことが何を意味するかはわからない。


処罰された人物の記述を読むと、そうなった理由はおそらくこうだろう。
孫権が新政権樹立を急いで反対者を弾圧した結果であると。
殺されたり追放された人たちの行動のタイミングを見ると、そうなんじゃないかと思う。


張休や陸遜、吾粲、顧譚らは、孫覇の政権を立てるために排除した。
朱拠や屈晃、張純、陳正らは、孫亮の政権を立てるために排除した。
なぜなら彼らは太子廃嫡を反対したことによって新政権の反対者と見なされたから。だから弾圧された。

彼らの行動は孫和への支持と必ずしもイコールではないと思う。屈晃などは反対の理由として「この時期はまずい」と言っているのでそういうことだろう。
ところが孫晧が自分の正統性を主張するために、太子の変更に反対した者を孫和を認めて支持した者としてすり替えた。だから『呉志』はややこしくなってしまった。これまで考えてきた上でそんな印象を受けた。

私は『呉志』が孫和派とされる人物を守っているとは思わない。編纂の都合でやってもいないことをやったように書かれているのはこの人たちの方だからだ。名前の書かれていない者の方がよほど守られていると感じるね。

その名前の書かれていない者というのは主として『通語』に列挙された人物のことだが、これを「呉志に書いてないので通語の間違い」と簡単に切り捨てるのには賛成できない。『通語』の著者は当時のことを知っている(または聞かされている)と思われ、その記述には当時の人々の認識が反映されているかもしれないからだ。
そもそも『通語』には名前が挙げられてはいても具体的な行動は記されていない。そのため名前が挙げられるなら皆が皆吾粲や朱拠のようにわかりやすい行動をとったはずだという先入観が生まれ、彼らが行動した時期以外のエアポケットに動いた者がいることや、消極的支持者がいたかもといった可能性を潰してしまっているのでは。


私見では顧譚は「太子と王を同じ宮殿で生活させるのは後々面倒なことになると思う」という上疏以外の行動はしていない。ただここから孫和が太子である状況を肯定しているとは受け取れる。殷基はそれを孫和支持と見なして『呉志』同様に顧譚を太子派として分けたのかもしれない。
たとえば是儀や羊ドウなども、彼らの上疏から孫和が太子である状況を維持する向きが見られることから、どちらかに分けるなら孫和支持者として私も書く。顧譚も、また他にもそういうパターンで名前が出ている人物がいる可能性は考えられるわけだ。
滕胤などは伝自体が未完成の状態なので、実は行動を書こうと思っていたが間に合わなかったなんてこともあるかも。


先に述べたように、『呉志』に行動が記されている人物は大きな局面で行動して損害を受けた者がほとんどで、それ以外の者たちについては省略されたのではと考えられる。それとは別に、孫晧が自身の正統性を主張するために孫和についた者として陸遜や顧譚といった名望のある人物の名前を挙げたのだとしたら、孫覇についた者の名は逆に伏せるだろう。歩騭といった名望のある人から父は支持されなかったなどと書く理由がないからだ。

嫡庶を長幼とするのは研究者の論文にでも書いてあるんだろうか? 仮に嫡庶に長幼の意味があるとしても当時長幼について述べた人物は見当たらないし、わざわざ嫡庶を長幼という言葉に置き換える必要性がまるで感じられないんだが。


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2019年5月14日 (火)

陸氏は孫和を支持しなかった説

諸葛恪誅殺に関する記述や孫亮の鼠の話は複数の文献から引用されているため、『呉録』や『呉歴』、『江表伝』の記述に他との異同があることがわかる。
しかし、一つの史料のみに見られる記述については、他の史書との内容の比較ができない。

 

(陸凱伝注引『呉録』)
太子自懼黜廢,而魯王覬覦益甚。權時見楊竺,辟左右而論霸之才,竺深述霸有文武英姿,宜為嫡嗣,於是權乃許立焉。有給使伏于牀下,具聞之,以告太子。胤當至武昌,往辭太子。太子不見,而微服至其車上,與共密議,欲令陸遜表諫。既而遜有表極諫,權疑竺泄之,竺辭不服。權使竺出尋其由,竺白頃惟胤西行,必其所道。又遣問遜何由知之,遜言胤所述。召胤考問,胤為太子隱曰:「楊竺向臣道之。」遂共為獄。竺不勝痛毒,服是所道。初權疑竺泄之,及服,以為果然,乃斬竺。


上記の記述はその一つである。

他の史書との比較検討ができないため、この『呉録』の記述だけを見た上で気になる点を挙げてみる。

この記述について最も気になるのは、陸胤が孫和からどの程度の情報を与えられたかという点である。
『呉録』がいうには、孫権と楊竺の密談を聞いた給使が孫和に情報を伝え、恐れた孫和は人目につかないよう陸胤の元へ行き、ともに密議して、陸遜に止めてもらおうという話になったという。
これを見ると、陸胤は孫和からすべての事情を知らされたようにも受け取れる。
しかしそうすると、その後の陸胤の行動が不自然に感じる。相当な用心をしている孫和と比べて、陸胤はあまりにも警戒心が薄いように見えるのだ。

この一件で陸胤が生き延びたのはただの僥倖だった。
楊竺が嘘の自供をしたのは結果としてそうなっただけであって、それより先に陸胤が死んでいたかもしれないし、二人揃って殺される可能性もあった。たとえ釈放されたとしても、傷が原因で死んでいたかもしれない。陸胤は運良く助かったに過ぎず、はっきりと言えば死ぬ確率の方が高かった。
陸遜に諌止するよう伝えた陸胤は、その行動の結果、自分や陸遜が罪に問われることを予想していなかったのだろうか?

もしかすると陸胤は、孫和の情報が孫権と楊竺の密談を盗み聞きしたものだとは知らされていなかった、という可能性があるのではないか。
その可能性について考えてみたい。

『呉録』では、陸遜に諌止してもらうという話になったのは武昌に向かう陸胤の車上でとなっている。
陸胤の武昌行きは以前から予定されていたことであり、諌止の件はこの車上で決まった副次的な理由だったのだろう。
これから
都を離れてしまう陸胤に、なぜ孫和はリスクをおかしてまで会いに行く必要があったのか。

陸胤を通して陸遜を動かそうと考えていたからではないかと思われる。

つまり、陸胤と協議した結果陸遜に諌止してもらう結論になったのではなく、孫和ははじめから陸遜に諌止させるつもりだった。だから、武昌に行こうとする陸胤に微服してまで会いに行き話を持ちかけたのである。
こう考えると、このときの孫和の注意深さも腑に落ちる。彼は人前で陸胤に見えることをせず、その車上に赴く際も微服して細心の注意を払っている。すべての事情を知っている孫和は、自分の情報によってなされるであろう陸遜の諌止という行動と自身を結びつける要素を出来る限り取り除いておきたかったのだろう。

これから武昌に行く陸胤には情報収集をする時間はなかったろうから、孫和の情報をそのまま西へ運んだはずだが、問題なのは孫和が陸胤にどこまで話したかである。
切羽詰まっていたであろう孫和はどうにかして陸遜に動いてもらいたかったに違いない。孫権が孫覇を立てるのを許したと聞き、窮地に立たされた孫和は、孫権を止めるにはどうすればいいか、誰なら止められるかを考えたはずである。そうして考えた末に陸遜を頼みの綱としたのだ。

しかし、もし情報の出所も含めてすべての事情を説明したならば、警戒して動いてくれない可能性も考えられた。それは崖っぷちに立った孫和にとって非常にまずい。
そのために孫和は、どういう経緯で知ったのかは伏せた上で陸胤を説得した という風にも考えることができるのである。

孫和としては太子を変えることを止めてくれさえすれば良いのだから、ひょっとしたら孫権の存在は伏せて、楊竺の名前くらいしか出さなかったかもしれない。
肝心の『呉録』は陸遜が極諫したと記すも実際の上表文は引用しておらず、どんな内容であったかを知ることはできない。そのため内容は想像するしかないのだが、もし仮に「魯王が太子になるのではないかという噂が流れているようですが」くらいの触れ方であったとしても、”孫覇を”嫡嗣とする意思を楊竺との密談以外で示したことがなければ、孫権は楊竺が情報を漏らしたのではないかと疑ってもおかしくはないのである。

陸胤は召されて考問される事態となって初めてまずいものを掴まされたと察したのだろう。自身が考問を受けた時点で、孫和の名を出せば事態がかなり厄介なことになる想像はできたはずである。楊竺の名前を出したのは、孫和から楊竺の動きについては聞かされていたからで、孫和の名前を出すことはできなかったため、咄嗟に名前を出してしまったのだろう。事情を把握していなかったとすれば陸胤も相当混乱したに違いない。

 

(陸凱伝附陸胤伝)
會全寄、楊竺等阿附魯王霸,與和分爭,陰相譖搆,胤坐收下獄,楚毒備至,終無他辭。

 

廃嫡を懼れて情報を漏らしたのは、孫和である。陸胤は経緯を知らなかったにも関わらず犯人として捕らわれたが、孫和が漏らしたのだとは一切口にしなかった。ゆえに、他言なし、と。

陸遜や陸胤が被害を受ける事態は孫和としても予想外だったかもしれない。孫権の決定を聞いた上で陸遜に頼ろうという発想になる孫和であるから、孫権が陸遜らにああ出るとは思ってもみなかったのではないか。陸遜が止めれば孫権も考え直すかもと期待しての孫和の行動であろうから。

また、孫和が人目につかないように動いたのは、陸遜らの行動に自分が関わっていることを知られたくなかったのもあるだろうが、そのほかにも以前、全公主から讒言されたのを鑑みて警戒するようになったのだとも思える。
給使から話を聞いてかなり動揺しただろうし、どうにかしなければという焦りも相当あっただろう。孫権の子供同士で貶め合う状況の中、藁にも縋る思いで行動していたのかもしれない。

ともあれ、結果的に孫和は陸氏を騙して利用する形となってしまった。

陸胤が孫和としっかり情報共有した上で行動した場合と、陸胤が孫和から正しい情報を与えられないまま行動した場合に違いはあるかというと、あると思う。
陸胤が生き延びたことによって、一連の出来事が彼の口から一族内に共有されることとなった。陸氏視点では、孫和はひとまず窮地を免れたかもしれないが、こちらは相当なダメージを負わされたと感じていたとしても不思議ではない。何しろ陸遜が亡くなってしまったので。
仮に陸胤自身は己の失態であると納得したとしても、はたして親族は同じ心境になれただろうか。

後年、孫和が廃嫡されることになると多くの人が反対した。
例として同郷出身者の名を挙げるならば、朱拠、張純(顧悌も?)などが廃嫡に反対したという。ところが、陸遜の死後、後継者問題に関する陸氏の動きは史書に一切確認できない。

あの事件があったため下手に動けなかったというのもあるだろう。中央から外されていたからというのも考えられるかもしれない。
ただ陸氏には、他家とは異なり、孫和個人を積極的に支持しない理由があったのかもしれない、ということである。


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二宮の変の太子派について

2019年5月 5日 (日)

全皇后と張妃

『呉志』を読むと、後継者争いが起きた結果として芍陂の役の論功行賞問題が生じたという書き方になっているが、因果関係が逆ではないだろうか。
論功行賞で生まれた不満がきっかけとなって、後継者問題に発展していったのだと思う。

芍陂の役は241年のこと。この論功行賞で張休は全琮の息子たちよりも高く評価された。
そして翌年242年には孫和が太子に立てられて、その妃に張承の娘が迎えられた。

張昭伝附張承伝によると、孫権は孫和に命じて張承に対し子婿の礼をしばしばとらせたという。このように、この時期の孫権は張氏一族を尊重する動きを見せている。

全氏としては面白くなかっただろう。先の論功行賞で全氏は張氏の下に置かれ、さらに彼らは次期皇帝の外戚というポジションに迎えられた。
同時期の後宮へ視点を移すと、こちらにも不満の種となりそうな事態が見られる。

孫権の張承への配慮を踏まえると、寵姫を外に出すという後宮の女性たちを序列づけるような彼の行動も、張承の娘が孫和の妃に納れられ、瑯邪の王夫人と縁戚関係を結んだことが理由の一つとしてあったのかもしれない。
その孫権の後宮には歩夫人を皇后とする派閥があったと推測され、歩夫人の死後だれも皇后に立てられることがなかったためにその派閥が席巻し続けた可能性がある。そうであれば、張氏一族の娘が太子の妃となった結果それまでの序列にメスが入れられることとなった状況に対して、歩夫人の娘である全公主が不快感を抱いたとしても何らおかしくはないのである。

また先に述べたように、孫権は孫和に張承を尊重させた。こうしたことから、その母である王夫人にも張妃への接し方について何らかの指示を出したと考えることはできるだろう。王夫人は全公主よりも張妃を優先したかもしれない、ということである。王夫人と全公主の仲違いもこうしたことがきっかけで生じた可能性があるのではないか(以前から二人の仲が悪かったとしたら、ますます溝が深まっただけのことだ)。
とはいえ、孫和や王夫人は孫権の意向を受けて言いつけを守ったに過ぎない。

全公主は孫家の出だが全琮との間に息子をもうけており、この息子は当然全氏一族に属するので、その母として全氏一族の立場に立ちその利害のために動いていたのだろう。

このように全氏一族の不満は着実に蓄積されていった。

劉繇伝には次のような記述がある。

(『呉志』劉繇伝附劉基伝)
後權為子霸納基女,賜第一區,四時寵賜,與全、張比。


全氏と張氏が同列に遇されていた様子が窺われる。

全氏は全琮が孫権の娘(全公主)を娶ったことで重んじられたが、次代では張氏がその立場になろうとしていた。これまでの序列がまさに張氏に傾く形で変わろうとしていたのである。
その大きな流れに対して全氏は反感を覚えたのではないだろうか。


孫権末期の一連の事件のきっかけは、皇帝の代替わりにより変化しようとする環境に全氏が不満を抱いたことにあった。

不幸なのは、孫権が太子と魯王を同等に遇するという状況を作っていたことである。
張氏を敵視する全氏が彼らを擁する太子につかず魯王に接近したのは当然の動きであり、当初から若い魯王を利用して事態を動かす意図があったのだろう。全氏ほどの家柄の人間が魯王に近づいたことは周囲に大きな影響を与えたに違いない。
こうして火種は後継者の問題まで広がり、孫権が強引に鎮火させるまで燃え続けることとなったのである。


騒動の結果、孫亮が次代の皇帝となりその皇后には全氏の娘が立てられた。全氏一族は外戚の立場を変わらず保つことに成功したわけだ。
太子であった孫和は廃されて藩臣となり、
次代の皇后となるはずだった張妃は臣下の妻として全氏の娘――全皇后に上疏する立場となってしまったのだった。

この流れに沿って孫和伝に記される諸葛恪の張妃への言葉を見ると、何とも意味深い発言に思えてくるのである。


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