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2019年2月17日 (日)

二宮の変の太子派について

『呉志』が記す二宮の変の太子派とされる人物と、その記述について考えたいと思う。


【太子派と”嫡庶之分”】

まず、『呉志』及び陳寿が参考にしたという韋昭『呉書』(裴松之注)で確認できる二宮の変において孫和を擁護したとされる人物は、陸遜、顧譚、吾粲、朱拠、屈晃、顧悌、陳正、陳象である。行動を起こした時期は必ずしも一致しないが、『呉志』及び裴注『呉書』に書かれる彼らの行動には共通点がある。

(孫和伝)
魯王霸覬覦滋甚,陸遜、吾粲、顧譚等數陳適庶之義,理不可奪,全寄、楊竺為魯王霸支黨,譖愬日興。

(顧雍伝注引『呉書』)
權末年,嫡庶不分,悌數與驃騎將軍朱據共陳禍福,言辭切直,朝廷憚之。

(吾粲伝)
遭二宮之變,抗言執正,明嫡庶之分,欲使魯王霸出駐夏口,遣楊竺不得令在都邑。

(陸遜伝)

及太子有不安之議,遜上疏陳:「太子正統,宜有盤石之固,魯王藩臣,當使寵秩有差,彼此得所,上下獲安。謹叩頭流血以聞。」書三四上,及求詣都,欲口論適庶之分,以匡得失。


このように、嫡庶の分について論じたとされる点である。
ところが、『呉志』にも裴注にも嫡庶の分を論じた際の彼らの言葉が見当たらない。

(朱拠伝注引『通語』)
殷基通語載據爭曰:「臣聞太子國之本根,雅性仁孝,天下歸心,今卒責之,將有一朝之慮。昔晉獻用驪姬而申生不存,漢武信江充而戾太子寃死。臣竊懼太子不堪其憂,雖立思子之宮,無所復及矣。」

(孫和伝注引『呉歴』)
吳歷曰:晃入,口諫曰:「太子仁明,顯聞四海。今三方鼎跱,實不宜搖動太子,以生眾心。願陛下少垂聖慮,老臣雖死,猶生之年。」


嫡庶を分けないことの禍福を顧悌と共にしばしば論じたという朱拠と、彼と行動を同じくした屈晃の言葉は、太子は仁徳を備えた人物で皆が心を寄せているので廃嫡すべきでないという孫和個人について述べたものであり、嫡庶の分を説いたものではない。肝心の顧悌、吾粲にいたっては具体的にどんな言葉を述べたのかさえわからない。

彼ら以外で嫡庶の分を論じていると解釈できるものとしては陸遜と顧譚の上疏が該当するだろう。しかし、二人の上疏が本来は「太子と王が同じ宮殿に住んでいたときの群公の議」であった可能性については以前述べたところである。→陸遜、顧譚、是儀の行動について
その可能性について改めて考えてみたい。

(孫和伝注引『通語』)
殷基通語曰:初權既立和為太子,而封霸為魯王,初拜猶同宮室,禮秩未分。羣公之議,以為太子、國王上下有序禮秩宜異,於是分宮別僚,而隙端開矣。

(陸遜伝)
遜上疏陳:「太子正統,宜有盤石之固,魯王藩臣當使寵秩有差,彼此得所,上下獲安。謹叩頭流血以聞。」

(顧譚伝)
祖父雍卒數月,拜太常,代雍平尚書事。是時魯王霸有盛寵,與太子和齊衡,譚上疏曰:「臣聞有國有家者,必明嫡庶之端,異尊卑之禮,使高下有差,階級踰邈,如此則骨肉之恩生,覬覦之望絕。昔賈誼陳治安之計,論諸侯之勢,以為勢重,雖親必有逆節之累,勢輕,雖疎必有保全之祚。故淮南親弟,不終饗國,失之於勢重也;吳芮疎臣,傳祚長沙,得之於勢輕也。昔漢文帝使慎夫人與皇后同席,袁盎退夫人之座,帝有怒色,及盎辨上下之儀,陳人彘之戒,帝既悅懌,夫人亦悟。今臣所陳,非有所偏,誠欲以安太子而便魯王也。」


わかりやすいのは陸遜の上疏で、語句も含めて「群公の議」とかなり近い内容である。顧譚の方は故事を引用して説いているため長くなっているが要約すれば「以為太子、國王上下有序,禮秩宜異」という主張だろう。このように、彼らの上疏と『通語』のいう「群公の議」はその内容、主張せんとするところが極めて近しい。

また、上疏がされた時期については顧譚伝によると「是時魯王霸有盛寵,與太子和齊衡」という背景があったためとあり、これが太子と魯王が同じ宮室に住んでいた時期を指すと考えられる。
つまり、顧譚は孫権により身分の違いが定められたにも関わらず、礼秩を同じくする状況をよろしくないとして「礼秩を宜しく異にするべし」という内容の上疏をしたのである。同様に「群公の議」の内容と酷似した陸遜の上疏も本来はこの時期のもので、おそらく彼が意見をとりまとめた形だろう。

すでに述べたように、嫡庶の分について論じていると見なすことができる上疏等が確認できるのは陸遜と顧譚の二人だけである。朱拠や屈晃の言葉として残されるのは、孫和の資質について述べたものであって、嫡庶の区別をつけるべしという内容のものではない。
彼らがしばしば嫡庶の分を論じたのは本当で、『呉志』でも裴松之の注でもその内容のものはたまたま引用されなかっただけなのだろうか? おそらくそうではないのだろう。彼らは嫡庶の分を論じていなかった。だから、『呉志』にも裴松之の注にも該当する言葉が記されていないのだ。

では、逆になぜ陸遜と顧譚は太子と王の身分の差について論じたのか。
それが必要だと感じる状況が彼らの生存中に起きていたからだ。そして、彼ら以外に同様の上疏をした者が確認できないのは、彼らの上疏によりその状況が解消されたためと考えられる。
要するにこうである。「太子と王が同等の待遇を受けていることについて丞相の陸遜と太常の顧譚が代表して上疏し、宮室を同じくする状況を解消するという措置がとられたため、それ以降太子と王の身分の差について論じる必要がなくなった」。

以上のことから、陸遜と顧譚の太子と王に関する上疏は『通語』のいう「群公の議」であり、『呉志』が言うような孫和廃嫡の阻止を目的としたものではないと考える。
吾粲や朱拠、顧悌といった人たちの嫡庶の分について説いた・あるいはそうと見なせる言葉が『呉志』をはじめとする史書に記されていない理由も、彼らが嫡庶の分を論じていなかったためと推測される。
裴松之が引用する朱拠や屈晃の言葉が『呉志』に記されなかったのは、嫡庶の分について説き孫和を擁護したという『呉志』の記述と矛盾するためだったのだ。
『通語』が記す「初拜猶同宮室,禮秩未分」という状況が『呉志』に見られないのも、陸遜・顧譚が上疏をした背景を伏せる目的があったのだろう。
そうなると、顧譚には孫和の廃嫡に関する具体的行動が見られないことになる。

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【太子派とされる人物の伝に見られる全寄と楊竺の記述について】

太子についた者として孫和伝にまとめて名前が挙げられるのは陸遜・顧譚・吾粲であり、魯王についた者としては全寄・楊竺の名が挙げられている。彼らの間にはどのような出来事があったのだろうか。全寄と楊竺に関する記述は、陸遜・顧譚・吾粲それぞれの伝では次のような状態となっている。

・全寄に触れられている→顧譚伝、陸遜伝
・楊竺に触れられている→吾粲伝、陸遜伝

魯王派とされる人物への言及が三つの伝でばらつきがあることがわかる。顧譚伝は全寄のみ、吾粲伝は楊竺のみ、陸遜伝は全寄と楊竺どちらもだ。
これの意味するところはこうだろう。

・その人物が全寄が関わる出来事に関係しているから全寄に触れられている。
・その人物が楊竺が関わる出来事に関係しているから楊竺に触れられている。

単純な理由ではあるがこれに関して熟考する機会がなかったためここで検討を加えてみたい。
重要なのは全寄・楊竺の関わる出来事とは何かということだが、わかりやすいのは全寄の方で、『呉志』及び『呉録』の記述からして芍陂の役の論功行賞問題である。
楊竺に関しては『呉志』には見られない代わりに『呉録』に記される。孫権に孫覇を立てるようにすすめたという一件である。

1.全寄、顧譚、陸遜

顧譚は芍陂の役の論功行賞問題に関係しているため、顧譚伝に全寄の名が出てくるのは当然といえる。
それに対して、同じく伝に全寄の名が出てくる陸遜はこの問題の当事者ではない。にもかかわらず全寄に言及しているのは、彼が魯王についたこと自体を陸遜が非難したからだと決めつけるのは早計であり、太子派と魯王派という対立構造ありきの捉え方であろう。

陸遜は論功行賞問題の当事者ではないが当事者の親族なのである。彼がこの騒動に関して発言した可能性は十分に考えられることなのだ。そもそも、全寄からしてもとは論功行賞の当事者ではなく当事者の親族に過ぎない。
陸遜が全琮に書を送り、全寄のみならず全琮の行動についても言及している理由は、論功行賞問題に全琮が関わっているためだ。『呉志』顧譚伝及びその注に引く『呉録』にそれぞれ「寄父子」「全琮父子」とある以上、全寄単独の行動とは思われない。逆に言えば「父子」両方に言及していることが、この書が論功行賞問題について述べたものだという裏付けとなるのである。

陸遜伝に芍陂の役の論功行賞問題という語句が見られないのは、すでに張休伝・顧譚伝で語られているため省略されたからだろう。この問題に関する経緯が陸遜伝で省略されていることは、顧譚顧承兄弟の書かれ方を見ればわかる。「論功行賞問題は魯王派の企てである」という説明もすでになされているのだから、わざわざ陸遜伝にまで詳細を書く必要はなく、そのため「甥が太子についていたことから(魯王派の策略による論功行賞問題で)流された」と簡略化されたのだ。そうでなければ、陸遜が魯王派を批判する立場=太子派であったと印象付けるために伏せられたのであろうか。

以上のことから、顧譚と陸遜は芍陂の役の論功行賞問題に関係しているため伝の中で全寄への言及があるのだと考える。彼らとは異なり、吾粲はこの問題の当事者でも親族でもないため、吾粲伝には全寄への言及が見られないのである。

2.楊竺、吾粲、陸遜
次に楊竺だが、彼について言及があるのは陸遜伝と吾粲伝である。
吾粲が投獄された理由について陸遜へしばしば手紙を送っていたことが関係しているとされるが、丞相であった陸遜に手紙を送っていたのが吾粲だけとは考えにくい。実際に全琮も陸遜へ都の状況報告をしていたのだから、都近辺にいた百官は武昌駐在の陸遜へ書状を送ることがしばしばあったのだろう。
その中でなぜ吾粲が投獄されたかといえば、吾粲自身が諫言したことにより孫権と楊竺の密談を知っていることが明らかとなったからだ。これにより、陸遜に情報を漏らした人物を調査していた楊竺の目に留まり、孫権に報告したことで獄に下されることとなったのである。
『呉録』に吾粲の名は出ていないとはいえ、彼は当時太子太傅であったのだから情報が耳に入っていても不思議ではない。

陸遜伝では楊竺への言及が後継者問題の記述から外れた箇所に書かれているため、関係があるか否かについて考えてみたい。
まず、楊竺の記述と並記されるキエン・諸葛恪に関する内容は、本人の行動に対して本人宛てに直接意見を述べたものである。一方、楊竺については彼が身を滅ぼすことを踏まえた上でその兄に宛てて身を守るための具体的提案をしており、他の事例とは性質が異なる。
兄弟に族を別とするようすすめるというのは、夫婦に置き換えるならば害が及ばないように離縁をすすめるといったところであろうか。そうしたことは害が及ぶ事態に直面してから対応を促すものなのだから、陸遜が楊穆にこの発言をした時点で楊竺の身に何かが起きていたはずである。すでに事が起きていたから楊竺本人に言うことができなかったのだ。そしてその事態とは、『呉録』の事件以外に該当する出来事は見当たらない(注1)。陸遜自身とその事件の関わりは言うまでもないことだろう。

以上のことから、『呉録』が記す事件に関わりのあることが陸遜伝と吾粲伝に楊竺への言及がある理由と考える。
時期は『呉録』と陸遜伝の記述から判断するに陸遜が死去する頃であり、ゆえに失脚していた顧譚の伝には楊竺への言及がないのである。

2-1.吾粲伝、陸遜伝に見られる形跡
『呉志』には『呉録』の出来事が記されていないものの、陸胤伝に近い記述があるのを鑑みるに、二人の伝にも形跡が見られる可能性がある。
そこで吾粲伝を見てみると、彼が楊竺と孫覇の処遇について意見を述べたのは「遭二宮之變」の時だという。おそらくはこの「遭二宮之變」が『呉録』の出来事に該当するものであり、陸遜伝でこれに該当するとすれば、太子のことで上疏をしたという行動からみて「及太子有不安之議」の時であろう。

そう判断した上で二人の行動について考えてみると、吾粲の行動はわかりやすい。「魯王が立太子に意欲を持っており、楊竺が魯王を立てるようにすすめている」と聞いたから「魯王を夏口に出鎮させ、楊竺を都にいさせないで欲しい」と求めたのである。

ここで気になるのは「孫権が魯王を立てることを許した」ことについての具体的な言及がない点である。これは言い換えれば「孫和を廃嫡することを許した」ということだ。孫覇と楊竺への措置に関して忌憚ない発言をしている吾粲がその点については遠回しな言い方をしたとは考えにくく、にも関わらず伝には「明嫡庶之分」と書かれるに過ぎないのである。

しかし、太子派とされる人々が嫡庶の分を理由に孫和を擁護したというのには疑義があることはすでに述べた。このことから、孫和廃嫡に対する吾粲の本来の言葉も伏せられた可能性が考えられる。
では、なぜ伏せられたのか。「孫権が孫和を廃嫡して孫覇を立てることを許した」と受け取れる文言であったため、『呉志』の性質上載せることができなかったのだ。(後述)「”嫡庶の分”を明らかにしてください」という主張は、代替の言葉として記されたものだろう。

これと同様の対処が陸遜伝にもなされている。情報を受けた陸遜が『呉録』に書かれる通り諌止したならば、孫権が孫和の廃嫡を認めたことについて触れていないはずがない。しかしそれは吾粲の発言同様に載せることはできない。代わりに引用されたのが、前に太子と王の身分の差=”嫡庶の分”について述べた「群公の議」なのである。

看過できないのは、陸遜らが受け取った情報は「孫権が孫和を廃嫡することを決めた」ではなく「楊竺が孫覇を立てるようにすすめてそれを孫権が許した」ものであることだ。この違いは、情報を受け取った陸遜らの行動するに至った事情に関わる部分であろう。

(注1)孫覇伝に楊竺のみ全寄らと区別して書かれているのは彼だけ死亡時期が異なるからだろう。また、楊穆が南方へうつされたのは弟が処刑されたのと連動しているはずだから、楊穆への処置は『呉録』の事件が関係していると思われる。

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【『呉書』と孫晧の意図】

二宮の変の太子派とされる人物について検討を加えてみたところ、『呉志』の記述と実際の行動に齟齬が見られることが確認できた。
『呉志』の記述を読むと、

・後継者問題は嫡庶の分をおろそかにしたから起きた
・孫和を守ろうとした人たちは嫡庶の分をつけるべきという主張をした

これらの点が基調とされているように感じられる。
しかし、これまで見てきた通り嫡庶の分を理由として孫和を擁護した者がいたとする記述には疑義がある。にも関わらず『呉志』にそう書かれる理由・意味は何なのだろうか。

陳寿が参考にしたという『呉書』編纂に携わった人物として真っ先に挙げられるのは韋昭だろう。気になるのは、即位した孫晧が父・孫和の本紀を作るよう韋昭に要求したという話である(韋昭伝)。
この孫晧の行動を踏まえて考えると、上記の疑問に対する一つの結論が見えてくる。
あれらは孫晧が自らを正統な後継者であると主張するための記述なのである。

嫡庶を明確にしなかった結果後継者争いが起きた→廃嫡は不当。正嫡の孫和が皇帝となるのが正しいあり方→孫和の子である孫晧が帝位につくのは正統である。

孫晧はその即位の経緯からか、実弟や孫休の子をはじめとして自身の地位を脅かす人物を多く排除している。一方で当時高官にあった陸凱や丁奉、丁固らは孫晧を廃そうと企てていたことがまことしやかに記される。
難しい立場に置かれた孫晧にとって、己の正統性を確立させることは非常に重要な意味があっただろう。父の本紀を作るように求めた動機もそこに起因するのではないか。

また彼は即位後に、生母である何姫を皇后とし後に皇太后とした。問題は孫和の正室である張氏には皇后位を追贈していない点である。孫晧としては、 孫和の嫡妻は何姫である→その息子の自分が嫡子である という体裁を整える意図があったと思われる。本来の嫡母であり実子を持つ張氏に皇后の位を贈ることは、その体裁上できなかったのだろう。

このように孫晧自身を大皇帝から連なる正統な世継ぎと主張するためには、孫権が孫和の廃嫡を許可したという『呉録』の出来事など『呉書』に書けるべくもない(後に孫和が廃嫡されたこと自体は避けようのない事実なので別)。
同時に、孫和を擁護した者が嫡庶の分について論じたことになった理由も見えてくる。孫晧は正統性を主張するために嫡庶の分を基軸としたかった。その願望を『呉書』の中の太子派に代弁させたのだろう。

先帝の嫡子でもなく名望のある人物からの支持も得られていない孫晧の立場と、『呉志』が記す太子孫和の姿は実に対照的である。『呉志』の記述から浮かび上がるのは、大皇帝に愛され陸遜や顧譚といった名望のある人たちから支持された正統な嫡子たる父と、その後を継いで即位するべき孫晧の姿である。

なお、孫和を擁護するために嫡庶の分について論じたというのはともかく、後継者問題の原因を嫡庶の分を明らかにしなかった点に見出しているのは、数ある原因の中で孫晧の正統性を主張するのに最も都合が良いことから強調されたに過ぎず、後付けのものでもないだろう。諸葛恪が孫奮に送った手紙を読むに、当時の人々からすでにそういう認識が持たれていた節があるからである。



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