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2019年1月18日 (金)

孫権の本命は歩夫人ではなく袁夫人

孫権には歩夫人を皇后にする積極的な意思はなかった可能性がある。
理由は、歩夫人存命中に彼女を立后するための積極的な行動が孫権に見られないからだ。

皇后候補となった他の女性たちにはそれがある。袁夫人は、本人が辞退したということは孫権が皇后に立てる考えをはっきりと表明したということだろう(『呉録』)。潘夫人は言うまでもなく存命中に皇后に立てられた。また、息子が太子に立てられたことで皇后の位につく可能性があった王夫人についても、孫権は彼女を尊重しようとする動きを見せている。その行動については以前考えを述べた。→瑯邪と南陽の王夫人について

ところが、歩夫人に関しては死後に皇后位を追贈された以外、その存命中に孫権が何かしらアクションを起こした様子がないのである。
あるとすれば、「群臣は皇后には徐夫人をという意見だったのに対し孫権は歩夫人を皇后に立てたいと思っていた」という記述が該当するだろうか。

『呉志』妃嬪伝

(徐夫人)
積十餘年,權為吳王及即尊號,登為太子,群臣請立夫人為后,權意在步氏,卒不許。

(歩夫人)
權為王及帝,意欲以為后,而群臣議在徐氏,權依違者十餘年(後略)


しかし、この記述が「孫権は積極的に歩夫人を選んで皇后にしたいと思っていた」ことを示すとは限らない。「孫権は徐夫人を皇后に立てるのを回避するために歩夫人を立てようと考えた」という風に捉えることもできるからだ。
言い換えれば、歩夫人を皇后にしたかったのではなく、徐夫人を皇后にしたくなかったと。孫権に歩夫人立后の積極的な動きが見られないのはこの点にあるのではないか。

最初に后の話が浮上したのは孫権が王位についたころで、孫登の主張等からその母である徐夫人が王后候補に挙げられたが、孫権は彼女を立てることに消極的だった。この当時、妻妾がどれくらいいたかはわからないが、徐夫人を廃してからは歩夫人を最も寵愛したと記されることから、対抗馬となる女性は歩夫人しかいなかったと推測される。そのため孫権の中で彼女が第一候補となった。とはいえあくまで徐夫人の対抗馬としての候補であるため、歩夫人の擁立にも積極的な意思はなかったのだろう。

こうして后が空位のまま孫権は皇帝となる。帝位についてからも徐夫人を立てる気はない一方、歩夫人を立てることにもそれを断行するほどの意欲はないため状況は変わらなかった。
孫権自身の考えはともかく、周囲からは徐夫人が立てられない以上対抗馬と目される歩夫人が選ばれる可能性もあると見られていたのかもしれない。これにより彼女を支持する層が現れてもおかしくない下地が作られた。

二人の皇后候補者がいてどちらが立つかわからない状況の中、群臣の議は徐夫人のまま変わらず(※1)、後宮では歩夫人が派閥を形成・彼女の親族も中宮と呼んで支持するようになっていった。後者について、孫権は徐夫人を立てるのは避けたいのでそうなるよりはという消極的な判断から黙認したものと思われる。

このように五年十年と月日を経ていく内に、孫権の中にはっきりとした皇后候補が現れた可能性は十分に考えられることである。
それが袁夫人だった。袁夫人は諸姫が産んだ子供の養育を何度も任されるほど孫権に信頼されていたようだし、何より『呉録』によれば孫権から擁立の話を受けている。

『呉志』妃嬪伝

(潘夫人伝注引『呉録』)
袁夫人者,袁術女也,有節行而無子。權數以諸姬子與養之,輒不育。及步夫人薨,權欲立之。夫人自以無子,固辭不受。


これがどの時期のことか具体的な数字は記されていないが、「及歩夫人薨,權欲立之」とあることから歩夫人の死後それほど経ってはいないだろう。
徐夫人と歩夫人の時には十年以上もの年月思い悩んだとされる孫権が、袁夫人擁立に関しては迅速に明確な行動に出ているのである。
歩夫人存命中にすでに、孫権の中で袁夫人は皇后の有力候補者となっていたのではないだろうか。

ところが、後宮では歩夫人の党派が形成され彼女の親族も明確に後押ししている。当初は徐夫人を立てるよりはとそれらを黙認した結果、徐夫人ですらない別の女性を皇后にするとは口に出せない状況となっていたのである。
こうしたことから、明確な皇后候補が現れたにも関わらず膠着状態が続くこととなり、長年続いた皇后問題に何の決着もつかず火種だけを残した状況の中で歩夫人は死去した。

袁夫人を皇后に立てるためには、後宮内に浸透する徐夫人VS歩夫人の構造を清算しなければならないと考えた孫権は、死去した歩夫人の方に皇后位を追贈することで決着とし、そうして改めて袁夫人に立后の意思を表明したのである。

結局、袁夫人は固辞して皇后にならなかった。子供がいないからという理由だったが、それがすべてではなかったのかもしれない。
数年後、息子が太子となったことで白羽の矢を立てられたのが王夫人、そして潘夫人であり、譖害されたのが袁夫人、讒言されたのが王夫人、殺害されたのが潘夫人である。

なお、私見を述べると歩夫人自身は皇后となることに意欲を持っていたと考える。曹操の卞夫人は離縁した前妻の丁夫人を丁重にもてなしたというが歩夫人が徐夫人を尊重していたとする記述は見られない。それどころか徐夫人の行動に対抗しているような節がある(※2)。さらに、親戚が自分を中宮と呼ぶことをたしなめた様子もないので、彼らの行動を受け入れていたのだろう。

(※1)群臣は、孫権が歩夫人を皇后にしたいと思っていたことを認識していたのだろうか? 曹丕の郭皇后とは異なり、歩夫人の場合は君主の表明に対して臣下から反対を受けたわけではないように読める。そもそも、孫権が歩夫人を皇后にしたいと思っていたという記述自体が、策命に書かれた内容を遡って適用した結果のものであるように感じられる。
(※2)孫登伝に記される贈り物の件。


(2019.8.22 引用文追加)


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