« 全氏のターゲットは顧譚ではなく張休 | トップページ | 孫権の本命は歩夫人ではなく袁夫人 »

2018年12月26日 (水)

時系列と孫覇の年齢

孫和は224年生まれ、孫休は235年生まれ。孫休の上に孫奮がいるが、ここでははっきりしている孫休の生年を上限とする。
二人の生年を基準にすると、孫覇の生年はおおよそ225~234。年齢にすると王となった242年時点で数え9~18歳。
これ以上年齢を絞るのは難しいが、兄弟たちの記述を基に推測してみる。

孫覇が王に立てられた当初は孫和と同じ宮殿に住んでいたこともあり(『通語』)、孫和と同じくカン沢が学問を授けることになった(カン沢伝)。
もしもそれ以前に別の誰かがついていたら、その人物が魯王となった後も継続してついていたと思う。なので、王となる前の242年以前に孫覇に専属の教育係はいなかったのだろう。
孫和にカン沢がついたのは孫和が14歳のときで、孫休に射慈、盛冲がついたのは孫休が13歳のとき。孫慮、孫奮は不明で孫登の場合は立太子という背景もあるが、一応こちらも13歳のときだ。
他の兄弟の状況を見ると、大体13歳を過ぎたあたりで後見役がつけられているように思われる。
例外はあるかもしれないが、仮にそうだとすると、242年時点の孫覇は13歳に届くか届かないかという年齢だった可能性が出てくる。
だからそれまで専属の教育係がおらず、王となったのをきっかけとして、カン沢が孫覇も兼任することになったのではないか。

もちろんこれだけでは断定できないが、孫覇がその程度に年若かったとすればなんとなく腑に落ちることがある。
まず、王となった時点でそれなりに長じていれば、孫慮のときのように顧雍らが軍権を持たせ外を守らせるよう主張していてもおかしくないはずだが、顧雍はそうしていない。
孫慮は数え19歳で開府したが、このときの孫覇はその年齢よりも年少だったことが顧雍がそうしなかった理由なのではないか。
もっと言えば、当初太子と同じ宮殿に住んでいてもみな表立って何も言わなかったのはそれほど孫覇が幼かったからでは、という考え。

私は顧雍伝と陸遜伝にある顧譚と陸遜の上疏は『通語』のいう「群公の議」であると考えているが、それをここでは顧雍死後のものと仮定する。
理由は顧雍の存命中ならば彼がやっていたと思うから。が、そうでないのは彼が没していたためだろう。顧雍は243年11月に死去したのでそれ以降。おそらく244年に入ってからじゃないかと思う。
244年といえば242年から2年経っており、その分孫覇も年を重ねている。
仮に242年時点で13歳としたら15歳になる。体も成長しているだろう。それなりに大きくなっていたかもしれない。
大きくなった孫覇が、変わらず太子と同じ宮殿に住んでいて、等しい待遇を受けている。そのため、当時大臣だった顧譚や陸遜が代表して「(魯王も成長したしそろそろ)待遇を変えても良いのではないか」と上疏するに至ったのだ。
しかし、顧譚と陸遜は上疏の中で太子と王には待遇に差があるべきとは言っているが、孫慮のときに顧雍たちが主張したように軍権を持たせて出鎮するのがよいとまでは言っていない。
思うに、この時点で孫覇は成長はしたが軍権を持たせて外に出すとするには若過ぎたのだろう。だから、同じ宮殿に住んでいる状況についてのみ言及されるに留まった。

とはいえ孫慮の前例もあるので、はっきり言っていないだけでいずれは彼のようになるだろうしそうするべきという認識が臣下間にはあったのかもしれない。
だから、宮を分けはしたものの近接していたことから両宮間に摩擦が生じる事態になると、羊ドウは「嫡庶をはっきりわけて、子弟を封建し、国の守りとするのが先例」とさりげなく主張し、また魯王傅となった是儀は率直に魯王を外の守りにあたらせるようにとの意見を述べたのだ。
孫覇が昔の孫慮ほど長じていたならば、顧譚や陸遜も軍権を与えて国の守りにあたらせるようにという主張を最初からしていたことだろう。

なお、吾粲が魯王を夏口に駐屯させるよう主張したのは、楊竺の名も上げていることから孫権と楊竺の密議(『呉録』)を耳に入れた後のことと推測する。楊竺への言及をした吾粲と陸遜には『呉録』のいう密議を孫和から聞かされたという共通点があるためである。(当時の吾粲は太子太傅なので報告を受けただろう)


関連記事:
陸遜、顧譚、是儀の行動について
二宮の変の太子派について

« 全氏のターゲットは顧譚ではなく張休 | トップページ | 孫権の本命は歩夫人ではなく袁夫人 »

呉関連」カテゴリの記事

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 時系列と孫覇の年齢:

« 全氏のターゲットは顧譚ではなく張休 | トップページ | 孫権の本命は歩夫人ではなく袁夫人 »