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2018年12月15日 (土)

全氏のターゲットは顧譚ではなく張休

この記事は、顧譚の太子と魯王に関する上疏は二人が同じ宮殿に住んでいた時の群公の議(『呉志』孫和伝注引『通語』)であり、当時対立していたのは全寄というよりも全琮をはじめとした全氏一族という考えを前提に書いています。

(『呉志』張昭伝附張休伝)
為魯王霸友黨所譖,與顧譚、承俱以芍陂論功事,休、承與典軍陳恂通情,詐增其伐,並徙交州。

張昭伝には張休について、「芍陂の役の論功行賞問題で魯王派から讒訴され交州にうつされることになった」とある。
一見、顛末がしっかり記されているように見えるが、なぜ讒訴されるに至ったかの経緯が書かれていない。そのいきさつと思われる説明は、張昭伝の後に続く顧雍伝に詳細な記述がなされている。

(『呉志』顧雍伝附顧譚伝)
…由是霸與譚有隙。時長公主壻衞將軍全琮子寄為霸賓客,寄素傾邪,譚所不納。先是,譚弟承與張休俱北征壽春,全琮時為大都督,…(中略)…時論功行賞,以為駐敵之功大,退敵之功小,休、承並為雜號將軍,緒、端偏裨而已。寄父子益恨,共搆會譚。譚坐徙交州

それによると、顧譚が太子と王の待遇について上疏した結果魯王と不仲となり、さらに魯王の賓客となっていた全寄とも不仲で、芍陂の役の論功行賞のこともあってますます憎まれ、陥れられた顧譚は交州にうつされることになったというのである。

この記述を見る限り、一連の事件の主体は顧譚であるような印象を受ける。太子派である顧譚が魯王派と対立した結果として論功行賞の件で讒訴され張休は巻き添えをくった、という感じだ。
本来、芍陂の役に密接な関わりを持つのは顧譚よりも張休(と顧承)のはずだが、当該戦役について顧雍伝にその詳細が書かれ、前にある張昭伝で語られないのは、顧譚が主として魯王派と対立したことが事件の発端だからという視点に立てば一応の納得はできる。

しかし、顧譚が擁護したという太子・孫和の伝の記述を見ると、どうも事情が異なるように思われる。
理由は、孫和・王夫人母子と対立していたという全公主が行った讒言の対象には孫和・王夫人のみならず妃の実家も含まれているからである。
太子妃の実家とは張氏一族のことを指す。その張氏一族の人物として具体的に名前を挙げられたのがおそらく張休だった(孫和を出迎えたのは張休だから)。つまり、全公主は張休をも貶めているのである。

妃の実父である張承ではなく叔父の張休が対象とされたのは、張承はすでに死去していたためと想像される。張休が全公主から讒言を受けたのは244年以降の出来事と考えられるのだ。
そして、芍陂の役の論功行賞問題が起きた時期も『呉志』陸遜伝の記述や張休・顧譚らの享年から推測するに244年以降のことと思われる。
要するに、そう離れていない期間に張休は全氏一族から内(全公主)からも外(全父子)からもやり玉にあげられているのである。
こうしたことから張休がただ巻き込まれただけとは思われない。むしろ、主としてターゲットにされたのは張休だったのではという気さえしてくる。

全氏一族は連動して内外から張休(=張氏一族)を失脚させようと画策した。孫和・王夫人のみならず張休(張氏一族)にも不信感を抱いた孫権はそれに便乗した。
最終的に張休は孫権から死を賜ったことや、張休だけが獄に繋がれたという『呉録』の記述が孫権の意思を物語っているように思われる。

やっぱ張休なんすわ。
顧雍伝の「寄父子益恨,共搆會」は顧譚ではなく張休のことやったんや。

ところが、『呉志』(あるいは韋昭『呉書』)ではそうとせず顧譚を主体として事件の経緯を書こうとした。本来は顧譚(と顧承)が巻き込まれた側=副であるところを主とするためには顧譚個人が魯王派から狙われる理由付けが必要となる。そのために顧譚が魯王・全寄と不仲だったということにされたのではないか。(※1)

そしてさらに、張昭伝に結末(=論功行賞問題で交州行き)が書かれ、続く顧雍伝に発端と経緯(=芍陂の役の詳細と論功行賞及び魯王派との関係)が書いてあれば、張休がああなったのは顧譚がこうなったからなのねと読んでしまえるわけで、意図的にそう誘導されているのではないかという考え。
張昭伝に張休が讒訴された理由を書かなかったのは誘導の一環であり、騒動が起きたのは顧譚に端を発するという印象を強めるためだったのだ。

ではなぜ張休がメインで狙われたのではなく顧譚に巻き込まれたという形にする必要があったのか。
孫権を導いた孫呉の超名臣・俺たちの張昭さんの家を孫権が潰そうとしたとは臣下筆頭として張昭が立伝される『呉志』には書けなかったからかも。特に張昭伝はやばやばのやばだったのかも。『呉録』にあるように張休だけ繋獄したくだりも『呉志』は記さない。これも同様の理由。
顧譚についてはあれこれ理由をつけて罰するのを避けた節があるのとは対照的に、流放するだけに留まらず賜死という形で確実に命を奪う方法をとっていることからして、孫権は張休に関しては明確な意思をもって排除するつもりだったのだろう。

孫権が張氏一族を積極的に潰そうとしたとするのがまずいのかもしれない。張休の賜死については孫権の判断だろうが、そのまま記すのを回避した結果、詔書を起草したと思われる中書令・孫弘(別族)の仕業という書き方になったのでは。(そうなると朱拠や諸葛恪も?)

顧雍伝に顧雍の孫の問題みたく書くのはいいのかよって話だが張昭伝よりはマシだったんじゃないすかね(テキトー)
顧承ではなく顧譚にした理由は、顧譚は重職にあったり上疏の件もあったりで色々と都合が良かったため?


(2019.9.24追記)
(※1)もし、例の上疏が原因で魯王孫覇が顧譚を憎むようになったとするならば、直接的に魯王を外に出すよう主張した魯王傅の是儀とは険悪な関係になっていそうなものだが、是儀伝にはそのような記述は見られない。陸遜についても同様である。



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↓この件について考えてて派生した『呉録』の孫権、楊竺、陸遜に関する記述についての妄想。

『呉録』の記述を採るとして、引っかかってたことについて考えたからメモする。

孫権が楊竺と魯王のことで議論をしたのは、たった一回で決定するような内容でもないので以前から行われていたことだろう。
太子を変えるにあたり無視できないのは新しい太子の素質以上に、孫和を廃嫡するとなったときに必ず反対する者が現れることである。
想定される中で最も対処が難しいのはおそらく陸遜。もし孫権が太子を変えることを考えていたとしたら陸遜のことを考慮しなかったとは思いにくい。
ではどうするか?
張休を論功行賞問題に託けて潰したように、陸遜についても同様に対処するつもりであった可能性。すなわち過去の言行を取り上げて罰すると。楊竺の「遜二十事」とやらはそのために用意されたものなのではないか、という考え。

孫権と楊竺の密議が漏れた後の調査目的はあくまで情報漏洩の元を探ることだった。孫権は楊竺を疑っていたというから彼に怒りを向けていただろう。また、慎重に事を運ばなくてはならない陸遜潰しの一端が当の本人に予想外の形で漏れてしまった焦りもあり早急な調査を求めたと想像される。
そのような状況の中で楊竺は下手な行動をとれなかったろう。陸遜の身辺調査をするような余裕は時間的にも精神的にもなかったんじゃないかな。しかも一個や二個じゃなく二十個もある。なので、遜二十事は以前から作られていたものであると考える。

孫権が孫覇の資質を気にしていたのは、名家を潰して立てた太子が自分の死後やっていけるか不安視したからだ。潰した一族の反発を受けて政権を安定させられるか?と。それに対して楊竺が魯王は優れているから大丈夫と背中を押した。
当時の孫覇はまだ年若く、素質があるかどうかわからなかったのではないか。そのことに孫権は不安を覚えていたのかもしれない。→時系列と孫覇の年齢
それでも孫覇が候補に挙げられたのは他の息子たちが幼すぎたためだろう。

陸抗に遜二十事について孤立させた状態で詰問したのは父親のことに託けて陸抗自身を潰す意思があったから。なぜなら陸抗は、陸遜や張休のことで新政権の禍根となる可能性を持つ存在だからである。
そのときの陸抗はうまくやり過ごして事なきを得た。が、いつ何を言われるかわからない状況ゆえ、以降身の回りのことについて神経質になったとしてもおかしくない。それが諸葛恪との一件に現れているとか。
もっとも、立ち回りについて考えざるを得ないのは諸葛恪も同様である。張休と陸遜がああなった以上、彼らと同じく妃の親族である諸葛恪が何の行動も起こさなかったとは考えにくい。

後年、当初の予定とは状況が大きく変わり、幼い孫亮に名家を抑えるのは無理だとして孫権は「陸抗に」謝罪し、手打ちを求めた。詰問の書を処分するように命じたのは陸氏に禍の元が残るのを阻止するためだった。

陸遜伝に唐突に姚信の名前が挙がるのは、二十事に彼のことも書かれていたからかもしれない。陸遜が陸胤の報告を信じたのも、張休の死が計画的なものであると察し、太子廃嫡の話が真実であると判断したゆえだろうか。

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