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2018年10月14日 (日)

瑯邪と南陽の王夫人

242年に孫和が太子に立てられると、その母である瑯邪の王夫人が重んじられ、他の寵愛を受けた諸姫を外に居らせることにした件(『呉志』妃嬪伝王夫人(孫休母)の条」)について。
まず、これは孫権の意思で行われたことであると考える。理由は瑯邪の王夫人にそんな権限はないから。

『呉志』及び裴松之注にて確認できる孫権から寵愛を受けたであろう女性のうち242年時点存命していたと考えられるのは、南陽の王夫人、潘夫人、袁夫人、謝姫の四人(※1)。この四人のうち、外に出たことが確定しているのは南陽の王夫人のみである。

謝姫は孫晧の代まで外に居たような様子は見られず、潘夫人に中傷されたという袁夫人も後宮にいたからそうなったのであろうし、242年当時ちょうど寵愛を受けていたであろう潘夫人も宮中に留まったはずだ。
『呉志』妃嬪伝には「寵愛を受けた諸姫は皆外に居させることになった」と記されているが、どうも全員がそうなったとは思われないのである。

おそらくこのとき外に出された女性と後宮に残された女性にわかれたのだ。だとすると、その差異が生じた原因にはどんな要素が働いたのか。
理由はいくつか考えられるだろうが、可能性の一つを述べるためにまず謝夫人の話を参照したい。

『呉志』妃嬪伝謝夫人の条によると、謝夫人は孫権の母・呉夫人に選ばれて孫権の妃となった。こののち孫権は徐夫人を納れた。その際、彼は謝夫人に徐夫人の下につくことを求めたが謝夫人はこれを受け入れず、失意のうちに死去したという。

この謝夫人と徐夫人の一件は、孫権が自身の妻妾に対し実際にとった行動である。よって南陽の王夫人の件もこれに当てはめることができよう。

孫権から瑯邪の王夫人の下につくことを求められた南陽の王夫人はこれを拒否し、そのため孫権の意思によって後宮から出されることになったのである。


謝夫人については母・呉夫人の手前あからさまに追い出すことはできなかったかもしれないが、南陽の王夫人は孫権が選んで入れた女性であろうから、かつての妃・徐夫人同様に孫権の気持ち一つで遠ざけることなど容易にできただろう。

ではなぜ南陽の王夫人は孫権の要求を拒否したのか?
それは、彼女が男児を産んだ女性だからだと思う。

孫権の後宮は十年以上も皇后がいないというおかしな状態が続いていた上に、各夫人たちの記述を読んでも妃嬪の位がどうなっていたかはっきりせず、妻妾間の上下関係がどんな様子だったのか想像しにくい。
しかし、妃嬪の位が不明瞭とはいえ、ある程度待遇に差はあったと想像される。「後宮で最も寵された」「~に次いで寵された」といった記述が見られるからである。

待遇に差がつく要素は家柄だったり親族の官位であったり年齢であったり連れ添った時間の長さであったりだろうが、何よりも「母以子貴」というように子供、特に男児を産んだ女性が重んじられた可能性は十分にある。孫登が太子となるや養母の徐夫人を后にするようにとの意見が出たり、孫和が太子に立てられるとその母である瑯邪の王夫人も貴重されるようになったのが何よりの証だろう。

その点から言えば、南陽の王夫人は235年に皇子の孫休を産んでおり、これにより諸姫の中でも特に大事にされる立場になったと推測できる。同じく男児を産んだ瑯邪の王夫人にひけをとらない程度にだ。
特に孫休は、孫亮が生まれるまでは孫権にとっての末子であったと思われ、242年時点でも数え8歳という幼さであったことから、母子共に可愛がられていたのかもしれない。

今まで皇子を産んだ立場として大切にされてきたのに、孫和が太子となるやその母が特に貴ばれるようになり、彼女の下につくことを孫権から要求された。そんなことは南陽の王夫人のプライドが許さなかった。そのため要求を拒否し、これにより孫権は彼女を後宮から出す決定を下したのである。あるいは、当時末子であった孫休共々受けていた寵愛が潘夫人へと移ったことも南陽の王夫人の気持ちを損ねる原因の一つであったのだろうか。

ともあれ、こうして南陽の王夫人は公安へ赴くこととなった。
前述の宮中に残ったと思われる他の女性たちは、孫権の命令に従ったということだろう。



これまで孫権の後宮で存命の女性が皇后に立てられたことはなかった。十年以上皇后不在・妻妾の序列も不明瞭という奇妙な状態が続いた後宮で、初めて存命の誰かが皇后に立てられるかもしれない事態に直面したことによって、長い時間をかけて形成された歪みを清算する必要が出た。「諸姬有寵者,皆出居外」というのは清算の一つであったのだ。

また、孫権がすぐに瑯邪の王夫人を皇后に立てなかったのは、あるいは彼女の身の安全を考えてのことであったのかもしれない(※2)。
もしくは、王夫人が皇后になると困る全公主が「王夫人のためにも立后は焦らない方が良い」とでも言って阻止したか。皇后にしたくないからといって何も「あの女はダメです!皇后にふさわしくない!」なんてストレートに悪し様に言う必要はない。そんなのは孫権の不興を買うかもしれないし。
はたまた袁夫人同様に王夫人自ら辞退したという可能性もないとはいえないだろう。

とにかく孫権が帝位についてからずっと皇后問題を抱えていた後宮の混乱を、瑯邪の王夫人一人の問題としてとらえて断ずるなんてのは無茶だろうと思う。のだが、私が正史(ちくま訳)を読み始めたときから何故かそういう論調の意見(下手すりゃ悪口)をたびたび見かけて、そのわりに擁護は見たことなくて可哀想だなーとずっと思ってたんだよね。孫和もね。孫登だって色々言われてたし。なのでこういう考えもありえるんじゃない、と。

王夫人が立后されなかったのは彼女に問題があったからと見るなら、十年以上悩まれた歩夫人はその比じゃない。


(※1)孫奮の母・仲姫については判断できないためここでは除外する。
(※2)潘夫人殺害の件を参照。潘夫人は孫権が病の床に臥した時=孫権が夫人を庇護できない状況下で殺された。


(2019.10.8 わかりにくい文章の加筆修正)


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