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2018年9月19日 (水)

孫登、孫和、孫魯班の関係性

孫登と孫魯班は孫権の長男と長女。
徐夫人を母として支持する長男と、歩夫人を母に持ち支持していただろう長女。
太子として支持された長男と、後宮で皇后と呼ばれた夫人が生んだ長女。
彼らの仲は良かったのか気になるところだ。

孫登が歩夫人に礼をはらいつつも徐夫人との対応に差をつけていたのは『呉志』孫登伝に記される通りで、それは歩夫人を皇后として認めないという意思表示であったとも考えられる。
そんな孫登に対して歩夫人の実子である孫魯班は歯がゆい思いを抱いていたのかもしれない。孫登が首を縦に振らないせいで母は皇后になれないと。

おそらく孫登は歩夫人に親しんでいなかった。
養母であり孫権の正室でもあった徐夫人を后に立てることは、太子としての孫登の立場を固めるためにも重要な事柄だったはずだ。それを阻止したともいえる歩夫人とその親戚(※1)への孫登の感情はどのようなものであったろうか。
もし好意的なものでなかったとすれば、孫魯班へ向ける感情もそうであった可能性が考えられる。

一方で孫登は孫和と親しくしていた。孫和と親しいとなると、その母・王夫人との関係も悪くなかった可能性が出てくる。あるいは王夫人は、歩夫人を支持する者が多数いたという宮内にあっても、太子である孫登(の徐夫人を立てるべきという考え)を支持していたという線もあるだろう。


そのような彼らに対する孫魯班の心証はどのようなものであったか。

孫魯班の王夫人・孫和との不和は孫登との不和の延長線上にある。そういう風にも考えられると思う。
そしてこの三人とそれぞれの親族が、後の政争に深く関わってくる点は非常に興味深い。

孫登は死に際して孫和を後継者に推したが、立てられてからの孫和の立場としては、太子として立派な評判を備えていた兄と比較され、必要以上に厳しい目を向けられることがあった可能性がある。それに、今のものを批判するために、特に好きでもなかった昔のものを持ち出してそちらの方が良かったと言い出す輩はいつの時代もいるものだ。
そうなると、孫和は孫登と同じような行動をとろうと考えたこともあったろう。太子としての孫和の行動は孫登の影響が色濃く出ていたのかもしれない。


(※1)孫権歩夫人伝に出てくる「親戚」とは歩夫人の親族である歩氏一族を指すのだろう。さらに229年には孫魯班は全琮に嫁いだから、おそらく孫権即位後に歩夫人を「中宮」と呼んだ親戚には全琮らも含まれているのではないだろうか。

『漢字源』学研より引用
【親戚】①『親族(シンゾク)・親類(シンルイ)・親親(シンシン)』血縁関係のある人と、結婚で縁続きになった人との総称。


(2019.8.4 文章の加筆修正)

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