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2018年8月26日 (日)

徐夫人は孫登の母

徐夫人は嫉妬深いとされているわりに自分の産んだ子でない孫登を養育したというのがちぐはぐに感じる。
嫉妬深いのに他の女性(=自分以外で寵愛を受けた女性)が産んだ子を育てたのか?という疑問が湧くし、そもそも彼女が他の女性と対立したといった逸話自体が史書に確認できない。
孫権の妃となった徐夫人の行動として『呉志』に記されるのは、孫登を育てたというものだけである。

おそらくだが孫登は幼くして徐夫人と離れ離れになった。にもかかわらず彼女を母として慕い続けたのは、養育当時の徐夫人を知る人々、たとえば孫登の乳母や女官たちが徐夫人を悪く言わなかったというのも理由の一つとしてあったのではないだろうか。
徐夫人が廃されたとはいえ、乳母や女官は引き続き孫登の面倒をみたと思われる。そういった人たちの徐夫人に対する評価が幼い孫登にも影響を与えたのだというのはありえなくはないと思う。

養育されたことで孫登は徐夫人の息子となった。
孫登が徐夫人を后にと主張したのはこの人こそが母であるからであり、それを口にしたのは彼がまだ太子となっていないときのことなので、それ以前から孫登は遠い地にいる徐夫人を思慕していたのだろう。
そもそも徐夫人は罪を犯して遠方へ流されたわけではないのだから、廃されて呉の地に留め置かれた後も孫登へ手紙を送るといった繋がりがあったのかもしれない。
徐夫人に子を産んだという記述はない。彼女にとっても孫登だけが自分の子供だったのだ。


その徐夫人に関する記述には気になる点がある。

 

(孫権徐夫人伝)
以夫人妒忌,廢處吳

(孫権歩夫人伝)
夫人性不妒忌,多所推進,故久見愛待

 

「徐夫人は嫉妬深いため孫権に廃された
「歩夫人は嫉妬をせず他の女性を推進したため孫権から長く大事にされた


どうも歩夫人との作為的な対比をされている節がある。

上記の例に留まらず、この二人の夫人の記述はどこか常に比較されているような印象だ。
歩夫人に関する「宮中では皆が皇后と呼んだ」「孫権は歩夫人を皇后にしたいと思っていた」といった記述を見るに、徐夫人は歩夫人を持ち上げる形で書かれているのではないかと思う。皇后にふさわしく、認められていたのは徐夫人ではなく歩夫人だ!という風に。
歩夫人の伝が書かれたのはどの時期のことか気になるところである。


(2019.9.7 文章の加筆修正)


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