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2008年5月17日 (土)

朱誕、字は永長

陸雲には「与平原書」の他に「与朱光禄書」がある。この「朱光禄」について、佐藤先生は『晋書』顧衆伝の「光禄朱誕器之」という記述を示して朱誕のことであろうかと指摘されている。朱誕なる人物のことは前々から気になっていたので、この機会に少し調べてみた。

朱誕の情報について比較的まとまっていると思われるのは『捜神記』と『世説新語』の注にある以下の記述。

『捜神記』
呉孫皓世,淮南内史朱誕,字永長,為建安太守。

孫晧の治世、淮南内史の朱誕、字永長は建安太守であったという。
淮南内史朱誕の名は『晋書』陸雲伝にも見える(「
大将軍参軍孫恵与淮南内史朱誕書」)。おそらく孫恵が書を送った朱誕は『捜神記』に出てくる朱誕(字永長)と同一人物だろう。

『世説新語』注引『蔡洪集』「与刺史周俊書」
朱誕字永長,呉郡人。…呉朝挙賢良,累遷議郎。

字永長と明記されているから、こちらの朱誕も先述の朱誕と同一人物だろう。蔡洪によれば、彼は呉郡出身で、呉のとき賢良に挙げられ議郎に累遷したという。朱誕が呉郡の人物であることは、『晋書』賀循伝にも「
惟循与呉郡朱誕」と見える通りである(※『呉志』賀邵伝の裴注では同郡朱誕となっている)。

ここまでの情報をまとめると、朱誕(字永長)は、呉朝では賢良に挙げられて議郎、建安太守となり、晋朝では淮南内史をつとめていた人物となる。
もう一つ手がかりになりそうな情報は『芸文類聚』にある「
呉録曰朱光為建安太守」という引用文。この記事は『太平御覧』にもあるようで、そちらは「朱光禄為建安郡」となっているらしい。私は御覧を持っていないため未確認であるが、そうだとすれば、建安郡とは建安太守と同じ意味と思われるので、『呉録』の記述は「朱光禄為建安太守」ということになる。さらに最初にあげた『晋書』顧衆伝の記事を見てみる。そこにある「光禄朱誕」という記述から、朱光禄は朱誕を指すのだと十分に考えられ得るだろう。『呉録』の逸文に出てくる建安太守であった朱光禄とは、『捜神記』に登場する孫晧のとき建安太守であった朱誕(字永長)のことと判断して良いと思う。
以上のことから、佐藤先生のご賢察の通り「与朱光禄書」の朱光禄とは朱誕の可能性が高いと考える。

以上、私が持っている朱永長に関する情報を基に推測してみた。

朱誕は呉郡呉県の出身なんだろうか?
朱光禄が朱誕なら、彼は陸雲と書簡のやりとりをする間柄だったということだ。別人であったとしても、孫恵がわざわざ陸機兄弟のことで書簡を送るくらいだから朱誕もまた兄弟と面識はあったのだと思う。朱誕が評価している顧衆もまた呉郡呉県の人。それだけじゃ判断はつかないけれどそうだったら面白いな。
呉県の朱氏でなくても、呉で郡太守・晋で内史になっていたり、陳敏から誘いを受けていたり、蔡洪が呉の人士として名を挙げているなどのことから、それなりの家柄だったんじゃなかろうか。あと、光禄(光禄大夫だよね)というのはたぶん朱誕の極官だと思うけど、東晋では呉の人がよく与えられていた官位っぽい。

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