2019年10月 5日 (土)

魯王孫覇は優秀だったか?

孫権の息子である魯王孫覇は優秀だったとする主張を見たことがある。論拠は是儀と楊竺の発言である。しかしながら、彼らの言葉をもって魯王孫覇の素質を論ずるのには疑義がある。


1.是儀の上疏
まずは是儀の発言について。

(『呉志』是儀伝)
南、魯二宮初立,儀以本職領魯王傅。儀嫌二宮相近切,乃上疏曰:"臣竊以魯王天挺懿德,兼資文武,當今之宜,宜鎮四方,為國藩輔。宣揚德美,廣耀威靈,乃國家之良規,海內所瞻望。但臣言辭鄙野,不能究盡其意。愚以二宮宜有降殺,正上下之序,明教化之本。"書三四上。

上に引いた是儀の上疏を見ればわかるが、是儀には太子と魯王について降殺(※1)があるべきで、上下の序を正したいという考えがあった。単に孫覇を買って出鎮させるよう求めるだけならば書く必要のない文言である。おそらく是儀の主張の本命はこちら「愚以二宮宜有降殺,正上下之序,明教化之本」の方なのだろう。
太子と魯王の上下を明確にする、そのための手段として孫覇を国の藩輔とする=出鎮させるように主張しているのがこの上疏なのである。

(※1)『廣漢和辞典』によると「降殺」とは、順さがりに減らすこと。太子と王が受けていた当時の待遇を指して、序列づけるように言っているのだろう。

是儀は太子と魯王のことで危機感を抱いた。だからこそ孫覇を外に出すことで火種を消そうと図ったのだ。彼にそうした目的があったと踏まえて考えると、是儀が本心から孫覇の才能を発揮できるように取り計らったととらえるのは早計である。
孫覇を中央から遠ざけるという目的を達成するために「孫覇は優秀だから」という建前を持ち出したというのが実際のところではないか。

これは孫慮のときに丞相・顧雍を初めとする臣下たちがとった行動と同じである。顧雍らも孫慮の才能を認めたというよりは、孫権の孫慮への偏愛や皇后問題などを勘案した結果として太子孫登の地位を守るために孫慮を中央から遠ざけたものと考えられ、是儀はそれにならったのかもしれない。
孫覇を中央から遠ざけることは、孫和の立場を守ると同時に孫覇の身を守ることにも繋がるのである。


2.楊竺の主張
もう一つは楊竺の発言だが、こちらは正史『呉志』ではなく裴松之注『呉録』に記される。

(『呉志』陸凱伝注引『呉録』)
権時見楊竺,辟左右而論霸之才,竺深述霸有文武英姿,宜為嫡嗣,於是権乃許立焉。

楊竺についても是儀と同様、目的のための発言であると考えられる。
楊竺には孫覇を嫡嗣にするという目的があった。その目的達成のために孫覇には才能があるとして孫権を説得しようとしたのであり、本当に才能があったかどうかはこの発言をもって断定することはできない。

またこの記事の孫権の様子からして、孫権自身が孫覇を優秀であると考えていたとは言い難いように思う。はっきりと息子の才能を見抜いて評価していたならば、なぜ他人と議論する必要があるのだろう? 孫慮のときは、孫権自ら息子に才能があるとして可愛がった。ところが『呉録』のこの話からはそうした主体性が感じられない。
孫権としては孫覇の才を評価しかねて迷っていたのだろう。だからこそ楊竺は「孫覇は優秀だから」と強く主張したのである。そう言わなければ孫権に決断してもらえないと思ったのではないか。


3.まとめ
以上のことから、是儀や楊竺の言葉をもって魯王孫覇が優秀であったと決めつけるのは安易であると考える。
みなそれぞれに目的があった上で、目的を達成するべく孫覇を持ち上げた。そしてそれに乗ったのは他でもない孫覇自身だったのだろう。

ついでなので孫覇について述べたもう一人の人物、裴松之の言葉を以下に引用する。

(『呉志』孫和伝裴松之注)
和旣正位,適庶分定,就使才德不殊,猶將義不黨庶,況霸實無聞,而和爲令嗣乎?

(下線部:ちくま訳では「ましてや孫覇にはなんの良い評判もなかった」とある)

裴松之は後世の人間であり孫覇本人と面識があるはずもない。とはいえ正史のみならず多数の野史にも目を通した人物による評価であるため、意見の一つとして付け加えておく。


関連記事:
時系列と孫覇の年齢


2019年9月23日 (月)

姚敷

呉の人物である姚信の父親の名を「姚敷」だとする出典はなんだろうと気になっていたんだけど『新唐書』かな。

(『新唐書』巻74下)

姚姓,虞舜生於姚墟,因以為姓。陳胡公裔孫敬仲仕齊為田氏,其後居魯,至田豐,王莽封為代睦侯,以奉舜後。子恢避莽亂,過江居吳郡,改姓為媯。五世孫敷,復改姓姚,居吳興武康。敷生信,吳選曹尚書。

維基文庫より引用


姚信の一族については姚察・姚思廉のことは知っていたが他にも名前のわかっている人がいるんだね。
「遜外生」が陸遜の姉妹の子を指すとすれば、陸遜の姉妹が嫁いだ相手はこの姚敷ということになる。陸遜や顧邵に近い年代の人なんだろうか? そうだとすれば、息子の姚信は顧譚・顧承兄弟と年が近かったとも考えられるかも。
また、『新唐書』のこの情報からは、姚敷が呉朝において官位を得ていたかどうかがわからない。仕えたけれど書かれていないのか、仕えていなかったのか、仕える前に亡くなったのか。

ところで姚信自身について、裴松之は姚信の集から陸鬱生のことは紹介しているのに姚信自身の情報は残していない。孫弘や袁夫人などは野史から僅かながらも補足しているのになぜだろう。
興味がなかったか、うっかり忘れたか、実はちゃんと注釈を入れていたのがどこかで抜け落ちたか。
姚信の子孫は続いていて、裴松之自身も姚信の集を史料として引っ張り出しているのに、姚信本人の情報は見つけられなかったというのはないように思うが。そして姚信は字いくつ持ってるんだ。



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時系列と姚信のこと
姚信と姚察と姚思廉
賀循+α


2019年9月17日 (火)

記事目次(二宮・夫人関連)

【取り扱い内容ごとのリスト】
関連記事の多いものを見やすいようにまとめた。
リストにあげたもの以外にも関連する記事はあるがそれらは各記事の内部リンクかサイドバーにあるカテゴリーから。


:二宮の変関係


二宮の変の太子派について
二宮についての雑感
陸氏は孫和を支持しなかった説
時系列と姚信のこと
全皇后と張妃
全氏のターゲットは顧譚ではなく張休
時系列と孫覇の年齢

 

:孫権の夫人たち関係

孫権夫人:謝氏、徐氏、潘氏、歩氏の記述について
孫権の本命は歩夫人ではなく袁夫人
瑯邪と南陽の王夫人

歩夫人は嫉妬しない
孫登、孫和、孫魯班の関係性
徐夫人は孫登の母

 

2019年9月16日 (月)

張春華と司馬榦

張春華は司馬懿の正室である。司馬懿の息子の中でも特に著名な司馬師・司馬昭は張春華が産んだ子だ。彼らほどの知名度はないものの、実は張春華は司馬懿との間にもう一人息子をもうけており、その名を司馬榦という。

司馬榦の生年は232年。長子である司馬師は208年生まれであるから24歳の時に誕生した弟ということになり、もはや息子といえるほどの年齢差である。
兄と弟の年齢が大きく離れているということは、生母の出産時の年齢も大きく離れているということ。
張春華の生年は189年。つまり、張春華が43歳のときに司馬榦は生まれたのである。

あの時代にこの年齢で無事(?)出産できた張春華はすごい。産後の様子が歴史書に記されるわけもなかろうが身体の負担は非常に大きく、相当大変だったろう。彼女の没年は247年だから一応産後の肥立ちが悪くて死去というわけではなさそうか。

三國無双や三国志大戦だと夫も恐れる冷酷な妻(暗黒微笑)なキャラ設定になっているけれど、個人的に張春華に対してそういうイメージはないな。若い妾を寵愛して妻を老者(おいぼれ)と面罵する司馬懿の方がインパクト強すぎて。でも張春華は43歳で出産しているわけだからなあ。何とも言えない。

その司馬榦の逸話として『晋書』に記される遺体に淫らな行いをしたという件。これは対象が愛妾であることと、亡骸が腐り始めたら葬ったことを考えると、屍に生前の面影が残るうちは恋慕を断ち切ることができなかったということじゃないかなあ。愛した人だから何度も顔を見に行った。未練があった。司馬榦にその手の性癖があったというわけではないかもしれない。


2019年8月21日 (水)

孫権夫人:謝氏、徐氏、潘氏、歩氏の記述について

『呉志』妃嬪伝にある徐夫人の記述が歩夫人と比較する形で書かれているのではないかという疑念については以前述べた
漠然とした疑念ではあったが、これについて考えを進めるうちに認識を少し改めたので、その点について自分の考えをまとめるためにも書いていきたいと思う。


1.謝夫人・徐夫人・潘夫人と歩夫人の記述

まずはじめに引っかかったのは、歩夫人の美点を「嫉妬をしない」とする点だった。聡明だとか礼節を弁えていたとかではないのかと、何となく不思議に思った。
古来より嫉妬から他の女性を害した皇后たちがいたことを鑑みれば、嫉妬せず他の女性を推進したという行動は良妻としてふさわしい描写のように思える。嫉妬しないという表現自体におかしな点はない。

ただ、歩夫人の記述のみならず『呉志』妃嬪伝全体、特に孫権の三人の正室たちの記述と比較してみると、歩夫人の「嫉妬しない」という書き方にはもっと深い意味があるように感じられるのだ。ここではその点について検討してみたい。

孫権には四人の正室がいる。
孫権の母・呉夫人が選んだ謝夫人。謝夫人の次に正室となった徐夫人。息子が太子となったことにより皇后に立てられた潘夫人。そして死後に皇后の位を追贈された歩夫人である。
以下に歩夫人以外の正室三人の記述を引用する。

『呉志』妃嬪伝

(謝夫人)

權母吳,為權聘以為妃,愛幸有寵。後權納姑孫徐氏,欲令謝下之,謝不肯,由是失志①,早卒。

(徐夫人)

權為討虜將軍在吳,聘以為妃,使母養子登。後權遷移,以夫人妬忌,廢處吳②。積十餘年,權為吳王及即尊號,登為太子,羣臣請立夫人為后,權意在步氏,卒不許。後以疾卒。

(潘夫人)

明年,立夫人為皇后。性險妬容媚③,自始至卒,譖害袁夫人等甚衆④。權不豫,夫人使問中書令孫弘呂后專制故事。侍疾疲勞,因以羸疾,諸宮人伺其昏卧,共縊殺之⑤,託言中惡。

 

・謝夫人は、孫権の母・呉夫人が選んで妃とした。後に孫権から徐夫人の下につくよう求められてそれを拒否し、志を失った①。(ちくま訳では「寵愛を失った」と解する。ここではそれにならう)
・徐夫人は、孫権が討虜将軍となり呉にいたときに妃とし、孫登を育てさせた。後に嫉妬を理由に孫権から廃されて遠ざけられた②。
・潘夫人は、息子が太子となり皇后となった。性格はよこしまで妬み深く③、袁夫人らを譖害し④、宮人に殺された⑤。

上に引いた『呉志』妃嬪伝の記述は非常に簡素なものである。そんな簡潔な記事の中で、孫権の正室三人の女性たちはみな来歴とともに欠点が記されているという共通点があることがわかるだろう。いわく、「嫉妬する②③」「他の女性を立てられない①④」。謝夫人・徐夫人・潘夫人の三人は、この欠点により終わりをよくすることができなかった。
次に歩夫人の記述を見てみる。

(歩夫人)
夫人性不妬忌多所推進故久見愛待。權為王及帝,意欲以為后,而羣臣議在徐氏,權依違者十餘年,然宮內皆稱皇后,親戚上疏稱中宮。


歩夫人は、嫉妬せず、他の女性を推進し、故に長く大切にされた。孫権は彼女を皇后にしたいと思っており、宮内では皆が皇后と称し、親戚らは中宮と呼んだ。

これを正室三人の記述と並べて比較すると次のようになる。

歩夫人は嫉妬せず(②③との違い)、他の女性を立てたので(①④との違い)、孫権から長い間愛されることができた(①②との違い)。

このように歩夫人は謝夫人・徐夫人・潘夫人の欠点を見事にクリアしている。その結果、孫権から長く寵愛されることができた。彼女が三人の正室よりもいかに優れた女性であったかがよくわかる記述であろう。

そしてこれが、当初抱いた疑念の答えであるように思う。

歩夫人の美点を「嫉妬しない(ので他の女性を立てることができた)」とする書き方には大いに意味があったのだ。嫉妬から身を誤った孫権の正室三人と比較した上で、彼女たちよりも優れた女性であったと強調するために
宮内では皆が皇后と称したとされるのも、皇后候補であった徐夫人や後に皇后となった潘夫人との比較のために欠かせない要素だったのだろう(⑤との違い)。

正室三人が実際に問題のあった女性たちで、ただ歩夫人だけは欠点のないのが事実だからこうした記述になったのだという可能性は否定しない。だが、それだけとは思わない。
歩夫人は生前に正室になることはなかった。しかし、孫権や宮内の者からは認められ、嫉妬せず、他の女性を立てることのできる、正室三人の誰よりも皇后にふさわしい存在だったのだ。
謝夫人・徐夫人・潘夫人と歩夫人の記述からは、そうしたメッセージが強くこめられている印象を受けるのである。


2.孫登・徐夫人と歩夫人の記述

1では正室三人と歩夫人の記述を比較して、歩夫人を称揚する向きがあることについて述べた。それでは逆に、歩夫人に都合が悪いために妃嬪伝中に記されなかった事柄はあるだろうか。

この点については二点ほど思い当たる節がある。

(『呉志』孫登伝)
初,登所生庶賤,徐夫人少有母養之恩,後徐氏以妬廢處吳,而步夫人最寵。步氏有賜,登不敢辭,拜受而已。徐氏使至,所賜衣服,必沐浴服之。登將拜太子,辭曰:「本立而道生,欲立太子,宜先立后。」權曰:「卿母安在?」對曰:「在吳。」權嘿然。


まずは孫登に関する記述である。

孫登は徐夫人に養育された恩があり、徐夫人と歩夫人それぞれの対応に差をつけていた。これは見方を変えれば、歩夫人は他子を撫循することができなかった。太子から母として慕われることができなかったということである。
このことは皇后にふさわしい女性としての歩夫人像に傷をつけかねない。だから妃嬪伝には記されず、孫登伝にのみ取り上げられるに留まったのだろう。また、徐夫人について孫登を育てたことは書かれていても、太子となった彼から后として支持された件は記されないのも同様の理由からと思われる。

そしてもう一点は、徐夫人が嫉妬を理由に遠ざけられた件である。

謝夫人は徐夫人相手に、潘夫人は袁夫人ら相手に問題があったことはそれぞれ明記される。ところが、徐夫人に関してはどの女性と衝突したといった具体的な記述が見られない。潘夫人の場合などは、袁夫人の名が妃嬪伝に唐突に出されてまできちんと書かれているのを鑑みると、これは少し気になる部分だ。

徐夫人と関係のある女性として考えられるのは誰だろうか?

孫登伝は次のようにいう「後徐氏以妬廢處吳,而步夫人最寵」と。徐夫人が廃されたことで歩夫人は寵愛を得ることができたとも受け取れよう。
徐夫人が嫉妬したととられる行動を起こしたとすれば、その相手は歩夫人であった可能性がないとは言い切れまい。

後の歩夫人の行動を見るに、曹操の卞夫人が前妻の丁夫人に恭しく接したような様子は見られず(裴注『魏略』)、むしろ皇后の位を徐夫人に譲るつもりはなかった気配すら感じられる。
徐夫人と歩夫人は折り合いが悪く、徐夫人が廃されて遠ざけられた原因には歩夫人が絡んでいたのではなかったか。孫登が歩夫人に馴染まなかったのもそれが理由の一つとしてあったと、そんな風に考えることもできるかもしれない。

だが、それらを記せば嫉妬をせず他の女性を立てることのできる歩夫人像を損ねることになる。ゆえに徐夫人の嫉妬にまつわる事柄が謝・潘両氏のように詳らかに書かれることはなく、ただ嫉妬するの一言で済まされることとなったのである。


3.まとめ
当初抱いたのは、徐夫人についての記述は歩夫人称揚のための作為のあとがあるのではという疑いだった。

その件について妃嬪伝及び重要人物といえる太子孫登の伝を比較して考えを進めていくうちに、疑念は範囲を広げて徐夫人以外の孫権の正室たる謝夫人と潘夫人へも及ぶこととなった。

結論として、妃嬪伝にある歩夫人の記述は、孫権の正室だった三人の女性すなわち謝夫人・徐夫人・潘夫人との対比ありきで書かれたのではなかろうか

三人の正室はそれぞれ不名誉な点が自身の伝に明記されているにも関わらず、歩夫人については都合の悪い部分が自身の伝に書かれない。そして歩夫人の美点とされる部分は「嫉妬しない」「他の女性を立てた」という、正室三人の欠点を意識したような筆致で描写される。これら謝夫人・徐夫人・潘夫人の記述と歩夫人の記述とがまったく無関係に書かれたと考えるには、作為的な感触が拭えないのである。

歩夫人の評価は、本人が聡明で礼節を弁えたといった絶対評価ではなく、三人の女性の価値を低めることで成立する相対評価なのだろう。歩夫人のためにも謝夫人・徐夫人・潘夫人それぞれの伝は『呉志』に必要なものだったのだ。

『呉志』の編纂は孫権死後の孫亮の代になってから始められた。孫亮の即位時には謝夫人・徐夫人・歩夫人・潘夫人はみな死去していたのだから、個々人の情報さえ集めておけば、四人の夫人について初めから終わりまでを同時進行で書くことは可能である。
しかしながら、どんな理由があって妃嬪伝がそのような状態になったのか。それについては今後の課題としたい。


余談.
後漢の陰麗華や馬皇后は賢夫人として知られるが、三国時代の女性を二人に当てはめるなら、前者は子がいないからと皇后位を辞退した袁夫人(裴注『呉録』)、後者は自身が馬皇后を尊敬し皇后となってからも親族を戒めたという曹丕の郭皇后だろうか(『魏志』)。
皇后の位を辞退した様子もなく、親戚が皇后問題に干渉することを戒めた様子もない歩夫人は、賢夫人と称された二人の皇后とは正反対であるように思われる。


(2019.10.5 細部の加筆修正)


関連記事:
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歩夫人は嫉妬しない
孫登、孫和、孫魯班の関係性


2019年8月 6日 (火)

諸葛恪の妻

『江表伝』に諸葛恪の妻は陸遜の娘だと書いてある
という書きこみを中国の掲示板で見たことがあるんだが、もう十数年も前のことだからその掲示板がどこにあったのかわからなくなってしまった。

記憶にある範囲では、その書きこみの後に別の人物が 「『江表伝』はすでに失われている」と指摘していた。それに対する先述書き込み者の返信は、自分が確認した限りではなかった。

本当なのか嘘なのか気になり過ぎてもう十年以上朝か昼か夜にしか眠れていない。
もし本当ならさすがに話題になっていそうだし、あの書きこみ以外に同様の発言を見たことがないのでどうかなあと思いつつ絶対にあり得ないとも言い切れないのでもどかしい。だって張氏―諸葛氏―陸氏には一応姻戚関係があったわけだし。そしてさらに、陸遜には娘がいたと思われるので(ただし存在が確認できる陸遜の娘は西晋の時代まで生きていたと思われる)。

投稿者が嘘をついたわけではなくとも、何かの逸文を見て勘違いした可能性や、誰かの創作を信じたケースなども考えられる以上、「可能性は否定できないけれど記述が見つからない以上はわからない」としか言いようがない。
仮に諸葛恪の妻が陸遜の娘だとしたら、『捜神記』の諸葛恪誅殺時の逸話に出てくる妻が陸氏ということになるのでそれはそれで悲しいことになるな。

もし本当にどこかで見たなら私が朝昼夜以外も眠れるようになるために教えて欲しいっすねえ。


関連記事:
陸遜の娘=陸抗の姉妹

2019年7月26日 (金)

名無しの権兵衛

 

(『呉志』孫登伝)
江表傳曰:登使侍中胡綜作賔友目曰:「英才卓越,超踰倫匹,則諸葛恪。精識時機,達幽究微,則顧譚。凝辨宏達,言能釋結,則謝景。究學甄微,游夏同科,則范慎。」衜乃私駁綜曰:「元遜才而疏,子嘿精而狠,叔發辯而浮,孝敬深而狹。」所言皆有指趣。而衜卒以此言見咎,不為恪等所親。後四人皆敗,吳人謂衜之言有徵。

 

この記事すごく気に入らないな。
賓友目とやらは諸葛恪、顧譚、謝景、范慎らが自分で作ったわけじゃない。孫登の命令で胡綜が作ったものだ。その作品に乗じる形で、羊ドウは私(こっそり)駁(反論)し、彼らの欠点をとりあげた。指趣があったとはいうがそれはあくまで羊ドウ視点のものに過ぎない。悪口じゃん。こんなことをいきなり言われたらそりゃ不愉快にもなるよ。

しかし、羊ドウは彼らが生きている間に自分の考えを自身の言葉で述べた。発言の責任を自分で負って、結果を自分で受けた。だから羊ドウが気に入らないわけじゃない。
鬱陶しいのは四人が皆敗れた後、おそらく死後に羊ドウの言葉には兆しがあったのだと言ったらしい名無しの誰か。結果が出てから他人の悪口に便乗するな。あと諸葛恪、顧譚はともかく謝景、范慎は敗れてないだろう。

この記事に限らず名有りの発言を盾にして誰かを批判する名無しや外野から非難する名無しが散見されるけどこの人たち何? どこ住み? ていうか誰だよ。

2019年7月 9日 (火)

笑い上戸

陸雲の「笑疾」についてだが、陸雲は極度の笑い上戸だったのかもしれない。
なぜそう思うのかというと、私自身が笑い上戸なので思い当たる節があるからだ。自分の経験の中で最も性質の悪い笑いのパターンを挙げると、まったく笑う要素がないのにツボに入ってしまい、一度笑い出すと自分では止められないのでお腹が痛いのと呼吸が整えられない状態がずっと続き、それでも笑いがおさまらず、ガチの苦しさのあまりその場にうずくまる

文章だとわかりにくいし冗談のような話だけど真面目にきつくて笑いごとじゃない。笑ってるけど。
自分がこんなだから、陸雲の笑疾にまつわるエピソードは「あ~、あんな感じかな?」と想像しやすかったりする。
陸雲がこうした笑い上戸だったかはわからないし、理由はそれぞれ異なるかもしれないが、なぜか笑いが止まらなくなる人は実際にいるんだよと。
なので、笑疾の逸話を陸雲自身の人格に結び付けて問題があるのではという見方をするのにはなかなか頷き難いものがある。

おもしろエピソードを他人に話そうとするも思い出し笑いが止まらず結局話せないという厄介な現象も笑い上戸あるあるだと思う。陸雲もそういうことがあったかもしれない。
陸雲「この前おもしろいことがあったんです。実はwww士光がwwwwww」
陸機「…………」

2019年7月 4日 (木)

なんでや潘夫人かわええやろ

孫権が歩夫人を寵愛した話は美談のごとく称賛されるわりに、同じく孫権が潘夫人を寵愛した話はあまり関心を持たれていなさそうなのはなぜだろう。

彼女たちは容貌の美しさから孫権に愛され、本来ならば皇后に立てられる立場ではないながらも皇后になったという共通点がある。

両者に向ける孫権の愛情に格差があったわけではあるまい。どちらも孫権は愛していただろう。
しかるに後世の人間が片方を称賛し片方には関心を寄せない理由はどこにあるのか?

おそらく史書に記される二人の人柄が大きな要素を占めているのではなかろうか。

俗な言い方をすれば歩夫人は良い人潘夫人は悪い人という印象を『呉志』からは受けるだろう。

良い人を愛したなら「身分にとらわれず善良な人を愛した」と良い話風になる。

悪い人を愛したなら「顔だけで寵愛して分不相応な地位を与えた」と悪い話風になる。

みんな良い話風が好きなんだ。そういうことなんだなあ。

別の見方をするなら、孫権の評価に関わるからという理由もあるかもしれない。

孫権にとってはどちらも同じ愛した女性でも、後世の人間にとっては孫権の印象に関わる問題となる(と思っている)ため愛を取捨選択してしまうのだ。世知辛いね。


なんとなく思っただけなので実際どうなのかはわかりません。

2019年6月10日 (月)

時系列と姚信のこと

1.姚信のこと
『呉志』陸遜伝には「而遜外生顧譚、顧承、姚信,並以親附太子,枉見流徙。」とある。
顧譚と顧承については顧雍伝に詳細が記されているがそこに姚信の名は見られず、他の伝を見ても彼の具体的な行動については記されていない。
姚信はなぜ南方へ流されることになったのだろうか。

はじめは論功行賞問題に姚信は無関係として楊穆と同時期に流されたのではないかと漠然と考えた。しかしそれでは孫権の陸抗や陸胤らへの対処の違いに説明がつかない。また近頃は陸遜が全琮に書を送ったのは論功行賞問題が関係していると考えるようになったこともあり、姚信は顧譚らと共に流されたとする方が陸遜伝の書き方を見ても筋が通ると認識を改めた。

姚信は、顧譚と共に張休・顧承を弁護した。これが原因で彼らと流されたのではないだろうか。

顧雍伝注引『呉録』と『江表伝』の記述には異同があり、前者に書いてあることが後者にはなく、後者に書いてあることが前者にはない。このため両書の記述が同じ時系列の出来事であるかは断定できず、それぞれを鵜呑みにするのは避けたいところではあるのだが、その上で考えられるのは、顧譚は二人のために弁明しようとしたという可能性だろうか。(※1)

そんな顧譚と意を同じくして張休や顧承のために抗弁したのが姚信だったのではないか。

姚信が陸遜の姉妹の子だとすれば、顧譚と顧承は彼にとって血を分けた従兄弟だったから。後年、一人だけ生き残った姚信はどんな思いで故郷の地を踏んだのだろう。

 

2.時系列
以前から述べている通り、陸氏・顧氏が全氏と敵対したのは芍陂の役の論功行賞問題に端を発する。
この問題により顧譚、顧承、姚信が配流された結果、陸遜が全琮父子に不満を抱くこととなった。陸遜が全琮に手紙を送ったのもこれが原因だろう。甥が三人も流されたというのに果たして何も感じずにいられるだろうか?
陸遜と全琮の仲違いは太子派と魯王派というスタンスがきっかけではないのである。

時系列としてはまず孫権が次期外戚として張氏を厚遇したことに全氏が反発し、その過程で太子孫和との間にも亀裂が走った。このまま孫和が皇帝となるのはまずいとして保身に走った全氏が魯王につく。そして、全氏の行動により太子や張氏に不信感を抱いた孫権は、自分が死ぬ前に現太子とその外戚を排除し、全氏に重きを置いた新たな政権を立てようとした。その一歩として張休を処罰したのである。
ここで顧譚・姚信が張休たちを庇った。彼らの姿勢は全氏を中心とする新政権への敵対行為と見なされ排除されたのだろう。

後継者問題に火がついたのは、孫権が魯王についた全琮父子の言をいれて太子の外戚である張休を殺したことが影響したと思われる。

ところで、全氏に傾いた孫権がその全氏と対立した陸氏(陸遜)をそのままにしておくだろうか? すでに全氏のために顧氏を排斥した結果を出した以上は後戻りできたとは思えない。

楊竺が告発したという「遜二十事」が本当に楊竺の手によるものなのかも気になるところだ。実際に「遜二十事」で行動したのは楊竺ではなく孫権だからである。


(※1)『呉録』の記述について。

張休が投獄された状況と、投獄されていない状況とでは、顧譚の心境に与える影響はまったく異なる。彼の弟も張休と同じ理由で非難の対象とされていたからだ。顧譚とて、張休が投獄されていなければもっと冷静に対応できたかもしれない。だが状況はそうではなかったのである。顧譚に孫権の心の中を読み取れというのは無茶な話であって、このとき彼に認識できたのは張休が繋獄したという事実だけなのだ。どうにかしなければ張休や弟が殺されると焦りを抱き平静を欠いていたとしても何らおかしくはないだろう。ましてや顧譚には、丞相であった祖父の顧雍が呂壱によって処罰されかけた経験があるのだから(顧雍伝、潘濬伝)。


関連記事:
二宮についての雑感
全皇后と張妃
二宮の変の太子派について
ターゲットは顧譚ではなく張休

2019年5月18日 (土)

二宮についての雑感

『呉志』に太子派または魯王派として名前が挙げられる人物の共通点はその事件で命を落としたか追放されていること。呉安、孫奇、諸葛恪の息子なんて事件に関わっていたと突然名前が出てくる。そのことで殺されたからだ。
逆に言うと、事件に関わっても生き延びた、あるいは事件と関係なく死んだ者についてはほとんど触れられていないということではないか? このことが何を意味するかはわからない。


処罰された人物の記述を読むと、そうなった理由はおそらくこうだろう。
孫権が新政権樹立を急いで反対者を弾圧した結果であると。
殺されたり追放された人たちの行動のタイミングを見ると、そうなんじゃないかと思う。


張休や陸遜、吾粲、顧譚らは、孫覇の政権を立てるために排除した。
朱拠や屈晃、張純、陳正らは、孫亮の政権を立てるために排除した。
なぜなら彼らは太子廃嫡を反対したことによって新政権の反対者と見なされたから。だから弾圧された。

彼らの行動は孫和への支持と必ずしもイコールではないと思う。屈晃などは反対の理由として「この時期はまずい」と言っているのでそういうことだろう。
ところが孫晧が自分の正統性を主張するために、太子の変更に反対した者を孫和を認めて支持した者としてすり替えた。だから『呉志』はややこしくなってしまった。これまで考えてきた上でそんな印象を受けた。

私は『呉志』が孫和派とされる人物を守っているとは思わない。編纂の都合でやってもいないことをやったように書かれているのはこの人たちの方だからだ。名前の書かれていない者の方がよほど守られていると感じるね。

その名前の書かれていない者というのは主として『通語』に列挙された人物のことだが、これを「呉志に書いてないので通語の間違い」と簡単に切り捨てるのには賛成できない。『通語』の著者は当時のことを知っている(または聞かされている)と思われ、その記述には当時の人々の認識が反映されているかもしれないからだ。
そもそも『通語』には名前が挙げられてはいても具体的な行動は記されていない。そのため名前が挙げられるなら皆が皆吾粲や朱拠のようにわかりやすい行動をとったはずだという先入観が生まれ、彼らが行動した時期以外のエアポケットに動いた者がいることや、消極的支持者がいたかもといった可能性を潰してしまっているのでは。


私見では顧譚は「太子と王を同じ宮殿で生活させるのは後々面倒なことになると思う」という上疏以外の行動はしていない。ただここから孫和が太子である状況を肯定しているとは受け取れる。殷基はそれを孫和支持と見なして『呉志』同様に顧譚を太子派として分けたのかもしれない。
たとえば是儀や羊ドウなども、彼らの上疏から孫和が太子である状況を維持する向きが見られることから、どちらかに分けるなら孫和支持者として私も書く。顧譚も、また他にもそういうパターンで名前が出ている人物がいる可能性は考えられるわけだ。
滕胤などは伝自体が未完成の状態なので、実は行動を書こうと思っていたが間に合わなかったなんてこともあるかも。


先に述べたように、『呉志』に行動が記されている人物は大きな局面で行動して損害を受けた者がほとんどで、それ以外の者たちについては省略されたのではと考えられる。それとは別に、孫晧が自身の正統性を主張するために孫和についた者として陸遜や顧譚といった名望のある人物の名前を挙げたのだとしたら、孫覇についた者の名は逆に伏せるだろう。歩騭といった名望のある人から父は支持されなかったなどと書く理由がないからだ。

嫡庶を長幼とするのは研究者の論文にでも書いてあるんだろうか? 仮に嫡庶に長幼の意味があるとしても当時長幼について述べた人物は見当たらないし、わざわざ嫡庶を長幼という言葉に置き換える必要性がまるで感じられないんだが。


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2019年5月14日 (火)

陸氏は孫和を支持しなかった説

諸葛恪誅殺に関する記述や孫亮の鼠の話は複数の文献から引用されているため、『呉録』や『呉歴』、『江表伝』の記述に他との異同があることがわかる。
しかし、一つの史料のみに見られる記述については、他の史書との内容の比較ができない。

 

(陸凱伝注引『呉録』)
太子自懼黜廢,而魯王覬覦益甚。權時見楊竺,辟左右而論霸之才,竺深述霸有文武英姿,宜為嫡嗣,於是權乃許立焉。有給使伏于牀下,具聞之,以告太子。胤當至武昌,往辭太子。太子不見,而微服至其車上,與共密議,欲令陸遜表諫。既而遜有表極諫,權疑竺泄之,竺辭不服。權使竺出尋其由,竺白頃惟胤西行,必其所道。又遣問遜何由知之,遜言胤所述。召胤考問,胤為太子隱曰:「楊竺向臣道之。」遂共為獄。竺不勝痛毒,服是所道。初權疑竺泄之,及服,以為果然,乃斬竺。


上記の記述はその一つである。

他の史書との比較検討ができないため、この『呉録』の記述だけを見た上で気になる点を挙げてみる。

この記述について最も気になるのは、陸胤が孫和からどの程度の情報を与えられたかという点である。
『呉録』がいうには、孫権と楊竺の密談を聞いた給使が孫和に情報を伝え、恐れた孫和は人目につかないよう陸胤の元へ行き、ともに密議して、陸遜に止めてもらおうという話になったという。
これを見ると、陸胤は孫和からすべての事情を知らされたようにも受け取れる。
しかしそうすると、その後の陸胤の行動が不自然に感じる。相当な用心をしている孫和と比べて、陸胤はあまりにも警戒心が薄いように見えるのだ。

この一件で陸胤が生き延びたのはただの僥倖だった。
楊竺が嘘の自供をしたのは結果としてそうなっただけであって、それより先に陸胤が死んでいたかもしれないし、二人揃って殺される可能性もあった。たとえ釈放されたとしても、傷が原因で死んでいたかもしれない。陸胤は運良く助かったに過ぎず、はっきりと言えば死ぬ確率の方が高かった。
陸遜に諌止するよう伝えた陸胤は、その行動の結果、自分や陸遜が罪に問われることを予想していなかったのだろうか?

もしかすると陸胤は、孫和の情報が孫権と楊竺の密談を盗み聞きしたものだとは知らされていなかった、という可能性があるのではないか。
その可能性について考えてみたい。

『呉録』では、陸遜に諌止してもらうという話になったのは武昌に向かう陸胤の車上でとなっている。
陸胤の武昌行きは以前から予定されていたことであり、諌止の件はこの車上で決まった副次的な理由だったのだろう。
これから
都を離れてしまう陸胤に、なぜ孫和はリスクをおかしてまで会いに行く必要があったのか。

陸胤を通して陸遜を動かそうと考えていたからではないかと思われる。

つまり、陸胤と協議した結果陸遜に諌止してもらう結論になったのではなく、孫和ははじめから陸遜に諌止させるつもりだった。だから、武昌に行こうとする陸胤に微服してまで会いに行き話を持ちかけたのである。
こう考えると、このときの孫和の注意深さも腑に落ちる。彼は人前で陸胤に見えることをせず、その車上に赴く際も微服して細心の注意を払っている。すべての事情を知っている孫和は、自分の情報によってなされるであろう陸遜の諌止という行動と自身を結びつける要素を出来る限り取り除いておきたかったのだろう。

これから武昌に行く陸胤には情報収集をする時間はなかったろうから、孫和の情報をそのまま西へ運んだはずだが、問題なのは孫和が陸胤にどこまで話したかである。
切羽詰まっていたであろう孫和はどうにかして陸遜に動いてもらいたかったに違いない。孫権が孫覇を立てるのを許したと聞き、窮地に立たされた孫和は、孫権を止めるにはどうすればいいか、誰なら止められるかを考えたはずである。そうして考えた末に陸遜を頼みの綱としたのだ。

しかし、もし情報の出所も含めてすべての事情を説明したならば、警戒して動いてくれない可能性も考えられた。それは崖っぷちに立った孫和にとって非常にまずい。
そのために孫和は、どういう経緯で知ったのかは伏せた上で陸胤を説得した という風にも考えることができるのである。

孫和としては太子を変えることを止めてくれさえすれば良いのだから、ひょっとしたら孫権の存在は伏せて、楊竺の名前くらいしか出さなかったかもしれない。
肝心の『呉録』は陸遜が極諫したと記すも実際の上表文は引用しておらず、どんな内容であったかを知ることはできない。そのため内容は想像するしかないのだが、もし仮に「魯王が太子になるのではないかという噂が流れているようですが」くらいの触れ方であったとしても、”孫覇を”嫡嗣とする意思を楊竺との密談以外で示したことがなければ、孫権は楊竺が情報を漏らしたのではないかと疑ってもおかしくはないのである。

陸胤は召されて考問される事態となって初めてまずいものを掴まされたと察したのだろう。自身が考問を受けた時点で、孫和の名を出せば事態がかなり厄介なことになる想像はできたはずである。楊竺の名前を出したのは、孫和から楊竺の動きについては聞かされていたからで、孫和の名前を出すことはできなかったため、咄嗟に名前を出してしまったのだろう。事情を把握していなかったとすれば陸胤も相当混乱したに違いない。

 

(陸凱伝附陸胤伝)
會全寄、楊竺等阿附魯王霸,與和分爭,陰相譖搆,胤坐收下獄,楚毒備至,終無他辭。

 

廃嫡を懼れて情報を漏らしたのは、孫和である。陸胤は経緯を知らなかったにも関わらず犯人として捕らわれたが、孫和が漏らしたのだとは一切口にしなかった。ゆえに、他言なし、と。

陸遜や陸胤が被害を受ける事態は孫和としても予想外だったかもしれない。孫権の決定を聞いた上で陸遜に頼ろうという発想になる孫和であるから、孫権が陸遜らにああ出るとは思ってもみなかったのではないか。陸遜が止めれば孫権も考え直すかもと期待しての孫和の行動であろうから。

また、孫和が人目につかないように動いたのは、陸遜らの行動に自分が関わっていることを知られたくなかったのもあるだろうが、そのほかにも以前、全公主から讒言されたのを鑑みて警戒するようになったのだとも思える。
給使から話を聞いてかなり動揺しただろうし、どうにかしなければという焦りも相当あっただろう。孫権の子供同士で貶め合う状況の中、藁にも縋る思いで行動していたのかもしれない。

ともあれ、結果的に孫和は陸氏を騙して利用する形となってしまった。

陸胤が孫和としっかり情報共有した上で行動した場合と、陸胤が孫和から正しい情報を与えられないまま行動した場合に違いはあるかというと、あると思う。
陸胤が生き延びたことによって、一連の出来事が彼の口から一族内に共有されることとなった。陸氏視点では、孫和はひとまず窮地を免れたかもしれないが、こちらは相当なダメージを負わされたと感じていたとしても不思議ではない。何しろ陸遜が亡くなってしまったので。
仮に陸胤自身は己の失態であると納得したとしても、はたして親族は同じ心境になれただろうか。

後年、孫和が廃嫡されることになると多くの人が反対した。
例として同郷出身者の名を挙げるならば、朱拠、張純(顧悌も?)などが廃嫡に反対したという。ところが、陸遜の死後、後継者問題に関する陸氏の動きは史書に一切確認できない。

あの事件があったため下手に動けなかったというのもあるだろう。中央から外されていたからというのも考えられるかもしれない。
ただ陸氏には、他家とは異なり、孫和個人を積極的に支持しない理由があったのかもしれない、ということである。


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2019年5月 5日 (日)

全皇后と張妃

『呉志』を読むと、後継者争いが起きた結果として芍陂の役の論功行賞問題が生じたという書き方になっているが、因果関係が逆ではないだろうか。
論功行賞で生まれた不満がきっかけとなって、後継者問題に発展していったのだと思う。

芍陂の役は241年のこと。この論功行賞で張休は全琮の息子たちよりも高く評価された。
そして翌年242年には孫和が太子に立てられて、その妃に張承の娘が迎えられた。

張昭伝附張承伝によると、孫権は孫和に命じて張承に対し子婿の礼をしばしばとらせたという。このように、この時期の孫権は張氏一族を尊重する動きを見せている。

全氏としては面白くなかっただろう。先の論功行賞で全氏は張氏の下に置かれ、さらに彼らは次期皇帝の外戚というポジションに迎えられた。
同時期の後宮へ視点を移すと、こちらにも不満の種となりそうな事態が見られる。

孫権の張承への配慮を踏まえると、寵姫を外に出すという後宮の女性たちを序列づけるような彼の行動も、張承の娘が孫和の妃に納れられ、瑯邪の王夫人と縁戚関係を結んだことが理由の一つとしてあったのかもしれない。
その孫権の後宮には歩夫人を皇后とする派閥があったと推測され、歩夫人の死後だれも皇后に立てられることがなかったためにその派閥が席巻し続けた可能性がある。そうであれば、張氏一族の娘が太子の妃となった結果それまでの序列にメスが入れられることとなった状況に対して、歩夫人の娘である全公主が不快感を抱いたとしても何らおかしくはないのである。

また先に述べたように、孫権は孫和に張承を尊重させた。こうしたことから、その母である王夫人にも張妃への接し方について何らかの指示を出したと考えることはできるだろう。王夫人は全公主よりも張妃を優先したかもしれない、ということである。王夫人と全公主の仲違いもこうしたことがきっかけで生じた可能性があるのではないか(以前から二人の仲が悪かったとしたら、ますます溝が深まっただけのことだ)。
とはいえ、孫和や王夫人は孫権の意向を受けて言いつけを守ったに過ぎない。

全公主は孫家の出だが全琮との間に息子をもうけており、この息子は当然全氏一族に属するので、その母として全氏一族の立場に立ちその利害のために動いていたのだろう。

このように全氏一族の不満は着実に蓄積されていった。

劉繇伝には次のような記述がある。

(『呉志』劉繇伝附劉基伝)
後權為子霸納基女,賜第一區,四時寵賜,與全、張比。


全氏と張氏が同列に遇されていた様子が窺われる。

全氏は全琮が孫権の娘(全公主)を娶ったことで重んじられたが、次代では張氏がその立場になろうとしていた。これまでの序列がまさに張氏に傾く形で変わろうとしていたのである。
その大きな流れに対して全氏は反感を覚えたのではないだろうか。


孫権末期の一連の事件のきっかけは、皇帝の代替わりにより変化しようとする環境に全氏が不満を抱いたことにあった。

不幸なのは、孫権が太子と魯王を同等に遇するという状況を作っていたことである。
張氏を敵視する全氏が彼らを擁する太子につかず魯王に接近したのは当然の動きであり、当初から若い魯王を利用して事態を動かす意図があったのだろう。全氏ほどの家柄の人間が魯王に近づいたことは周囲に大きな影響を与えたに違いない。
こうして火種は後継者の問題まで広がり、孫権が強引に鎮火させるまで燃え続けることとなったのである。


騒動の結果、孫亮が次代の皇帝となりその皇后には全氏の娘が立てられた。全氏一族は外戚の立場を変わらず保つことに成功したわけだ。
太子であった孫和は廃されて藩臣となり、
次代の皇后となるはずだった張妃は臣下の妻として全氏の娘――全皇后に上疏する立場となってしまったのだった。

この流れに沿って孫和伝に記される諸葛恪の張妃への言葉を見ると、何とも意味深い発言に思えてくるのである。


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2019年4月 5日 (金)

薛瑩の『條列呉事』

『世説新語』にある孫休と雉の話 の注に出てくる『條列呉事』について。
あまり聞かない名前なので気になっていたが、どうも薛瑩が書いたものらしい。
『太平御覧』巻二百二十に『薛瑩條列呉事』からの引用がある。内容は胡沖についてのこと。

《薛瑩條列吳事》曰︰胡沖意性調美,心趣解暢,有刀筆才,閑于時事。爲中書令,雖不能匡矯,亦自守不苟求容媚。

維基文庫より引用


薛瑩は諸葛恪に命じられて韋昭らと共に『呉書』の編纂にあたった人だ。そのときに集めた資料が手元に残っており、後年それらをまとめて私的に作ったとかなのかな。
確認できた二つの引用が、孫休・胡沖と後期の人物に関するものである点も気になる。

それから、同書巻三百二十八に薛瑩の「答華永先詩」が引かれている。永先は華覈の字。先に華覈が薛瑩に詩を贈ったんだろうね。仲良いね。『呉志』の評で華覈について「文賦の才は韋昭以上」と書かれていることを思い出した。


2019年2月17日 (日)

二宮の変の太子派について

『呉志』が記す二宮の変の太子派とされる人物と、その記述について考えたいと思う。


【太子派と”嫡庶之分”】

まず、『呉志』及び陳寿が参考にしたという韋昭『呉書』(裴松之注)で確認できる二宮の変において孫和を擁護したとされる人物は、陸遜、顧譚、吾粲、朱拠、屈晃、顧悌、陳正、陳象である。行動を起こした時期は必ずしも一致しないが、『呉志』及び裴注『呉書』に書かれる彼らの行動には共通点がある。

(孫和伝)
魯王霸覬覦滋甚,陸遜、吾粲、顧譚等數陳適庶之義,理不可奪,全寄、楊竺為魯王霸支黨,譖愬日興。

(顧雍伝注引『呉書』)
權末年,嫡庶不分,悌數與驃騎將軍朱據共陳禍福,言辭切直,朝廷憚之。

(吾粲伝)
遭二宮之變,抗言執正,明嫡庶之分,欲使魯王霸出駐夏口,遣楊竺不得令在都邑。

(陸遜伝)

及太子有不安之議,遜上疏陳:「太子正統,宜有盤石之固,魯王藩臣,當使寵秩有差,彼此得所,上下獲安。謹叩頭流血以聞。」書三四上,及求詣都,欲口論適庶之分,以匡得失。


このように、嫡庶の分について論じたとされる点である。
ところが、『呉志』にも裴注にも嫡庶の分を論じた際の彼らの言葉が見当たらない。

(朱拠伝注引『通語』)
殷基通語載據爭曰:「臣聞太子國之本根,雅性仁孝,天下歸心,今卒責之,將有一朝之慮。昔晉獻用驪姬而申生不存,漢武信江充而戾太子寃死。臣竊懼太子不堪其憂,雖立思子之宮,無所復及矣。」

(孫和伝注引『呉歴』)
吳歷曰:晃入,口諫曰:「太子仁明,顯聞四海。今三方鼎跱,實不宜搖動太子,以生眾心。願陛下少垂聖慮,老臣雖死,猶生之年。」


嫡庶を分けないことの禍福を顧悌と共にしばしば論じたという朱拠と、彼と行動を同じくした屈晃の言葉は、太子は仁徳を備えた人物で皆が心を寄せているので廃嫡すべきでないという孫和個人について述べたものであり、嫡庶の分を説いたものではない。肝心の顧悌、吾粲にいたっては具体的にどんな言葉を述べたのかさえわからない。

彼ら以外で嫡庶の分を論じていると解釈できるものとしては陸遜と顧譚の上疏が該当するだろう。しかし、二人の上疏が本来は「太子と王が同じ宮殿に住んでいたときの群公の議」であった可能性については以前述べたところである。→陸遜、顧譚、是儀の行動について
その可能性について改めて考えてみたい。

(孫和伝注引『通語』)
殷基通語曰:初權既立和為太子,而封霸為魯王,初拜猶同宮室,禮秩未分。羣公之議,以為太子、國王上下有序禮秩宜異,於是分宮別僚,而隙端開矣。

(陸遜伝)
遜上疏陳:「太子正統,宜有盤石之固,魯王藩臣當使寵秩有差,彼此得所,上下獲安。謹叩頭流血以聞。」

(顧譚伝)
祖父雍卒數月,拜太常,代雍平尚書事。是時魯王霸有盛寵,與太子和齊衡,譚上疏曰:「臣聞有國有家者,必明嫡庶之端,異尊卑之禮,使高下有差,階級踰邈,如此則骨肉之恩生,覬覦之望絕。昔賈誼陳治安之計,論諸侯之勢,以為勢重,雖親必有逆節之累,勢輕,雖疎必有保全之祚。故淮南親弟,不終饗國,失之於勢重也;吳芮疎臣,傳祚長沙,得之於勢輕也。昔漢文帝使慎夫人與皇后同席,袁盎退夫人之座,帝有怒色,及盎辨上下之儀,陳人彘之戒,帝既悅懌,夫人亦悟。今臣所陳,非有所偏,誠欲以安太子而便魯王也。」


わかりやすいのは陸遜の上疏で、語句も含めて「群公の議」とかなり近い内容である。顧譚の方は故事を引用して説いているため長くなっているが要約すれば「以為太子、國王上下有序,禮秩宜異」という主張だろう。このように、彼らの上疏と『通語』のいう「群公の議」はその内容、主張せんとするところが極めて近しい。

また、上疏がされた時期については顧譚伝によると「是時魯王霸有盛寵,與太子和齊衡」という背景があったためとあり、これが太子と魯王が同じ宮室に住んでいた時期を指すと考えられる。
つまり、顧譚は孫権により身分の違いが定められたにも関わらず、宮室を同じくする状況をよろしくないとして「礼秩を宜しく異にするべし」という内容の上疏をしたのである。同様に「群公の議」の内容と酷似した陸遜の上疏も本来はこの時期のもので、おそらく彼が意見をとりまとめた形だろう。

すでに述べたように、嫡庶の分について論じていると見なすことができる上疏等が確認できるのは陸遜と顧譚の二人だけである。朱拠や屈晃の言葉として残されるのは、孫和の資質について述べたものであって、嫡庶の区別をつけるべしという内容のものではない。
彼らがしばしば嫡庶の分を論じたのは本当で、『呉志』でも裴松之の注でもその内容のものはたまたま引用されなかっただけなのだろうか? おそらくそうではないのだろう。彼らは嫡庶の分を論じていなかった。だから、『呉志』にも裴松之の注にも該当する言葉が記されていないのだ。

では、逆になぜ陸遜と顧譚は太子と王の身分の差について論じたのか。
それが必要だと感じる状況が彼らの生存中に起きていたからだ。そして、彼ら以外に同様の上疏をした者が確認できないのは、彼らの上疏によりその状況が解消されたためと考えられる。
要するにこうである。「太子と王が同じ宮殿に住んでいることについて丞相の陸遜と太常の顧譚が代表して上疏し、宮室を同じくする状況自体は解消されたため、それ以降太子と王の身分の差について論じる必要がなくなった」。

以上のことから、陸遜と顧譚の太子と王に関する上疏は『通語』のいう「群公の議」であり、『呉志』が言うような孫和廃嫡の阻止を目的としたものではないと考える。
吾粲や朱拠、顧悌といった人たちの嫡庶の分について説いた・あるいはそうと見なせる言葉が『呉志』をはじめとする史書に記されていない理由も、彼らが嫡庶の分を論じていなかったためと推測される。
裴松之が引用する朱拠や屈晃の言葉が『呉志』に記されなかったのは、嫡庶の分について説き孫和を擁護したという『呉志』の記述と矛盾するためだったのだ。
『通語』が記す「初拜猶同宮室,禮秩未分」という状況が『呉志』に見られないのも、陸遜・顧譚が上疏をした背景を伏せる目的があったのだろう。
そうなると、顧譚には孫和の廃嫡に関する具体的行動が見られないことになる。

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【太子派とされる人物の伝に見られる全寄と楊竺の記述について】

太子についた者として孫和伝にまとめて名前が挙げられるのは陸遜・顧譚・吾粲であり、魯王についた者としては全寄・楊竺の名が挙げられている。彼らの間にはどのような出来事があったのだろうか。全寄と楊竺に関する記述は、陸遜・顧譚・吾粲それぞれの伝では次のような状態となっている。

・全寄に触れられている→顧譚伝、陸遜伝
・楊竺に触れられている→吾粲伝、陸遜伝

魯王派とされる人物への言及が三つの伝でばらつきがあることがわかる。顧譚伝は全寄のみ、吾粲伝は楊竺のみ、陸遜伝は全寄と楊竺どちらもだ。
これの意味するところはこうだろう。

・その人物が全寄が関わる出来事に関係しているから全寄に触れられている。
・その人物が楊竺が関わる出来事に関係しているから楊竺に触れられている。

単純な理由ではあるがこれに関して熟考する機会がなかったためここで検討を加えてみたい。
重要なのは全寄・楊竺の関わる出来事とは何かということだが、わかりやすいのは全寄の方で、『呉志』及び『呉録』の記述からして芍陂の役の論功行賞問題である。
楊竺に関しては『呉志』には見られない代わりに『呉録』に記される。孫権に孫覇を立てるようにすすめたという一件である。

1.全寄、顧譚、陸遜

顧譚は芍陂の役の論功行賞問題に関係しているため、顧譚伝に全寄の名が出てくるのは当然といえる。
それに対して、同じく伝に全寄の名が出てくる陸遜はこの問題の当事者ではない。にもかかわらず全寄に言及しているのは、彼が魯王についたこと自体を陸遜が非難したからだと決めつけるのは早計であり、太子派と魯王派という対立構造ありきの捉え方であろう。

陸遜は論功行賞問題の当事者ではないが当事者の親族なのである。彼がこの騒動に関して発言した可能性は十分に考えられることなのだ。そもそも、全寄からしてもとは論功行賞の当事者ではなく当事者の親族に過ぎない。
陸遜が全琮に書を送り、全寄のみならず全琮の行動についても言及している理由は、論功行賞問題に全琮が関わっているためだ。『呉志』顧譚伝及びその注に引く『呉録』にそれぞれ「寄父子」「全琮父子」とある以上、全寄単独の行動とは思われない。逆に言えば「父子」両方に言及していることが、この書が論功行賞問題について述べたものだという裏付けとなるのである。

陸遜伝に芍陂の役の論功行賞問題という語句が見られないのは、すでに張休伝・顧譚伝で語られているため省略されたからだろう。この問題に関する経緯が陸遜伝で省略されていることは、顧譚顧承兄弟の書かれ方を見ればわかる。「論功行賞問題は魯王派の企てである」という説明もすでになされているのだから、わざわざ陸遜伝にまで詳細を書く必要はなく、そのため「甥が太子についていたことから(魯王派の策略による論功行賞問題で)流された」と簡略化されたのだ。そうでなければ、陸遜が魯王派を批判する立場=太子派であったと印象付けるために伏せられたのであろうか。

以上のことから、顧譚と陸遜は芍陂の役の論功行賞問題に関係しているため伝の中で全寄への言及があるのだと考える。彼らとは異なり、吾粲はこの問題の当事者でも親族でもないため、吾粲伝には全寄への言及が見られないのである。

2.楊竺、吾粲、陸遜
次に楊竺だが、彼について言及があるのは陸遜伝と吾粲伝である。
吾粲が投獄された理由について陸遜へしばしば手紙を送っていたことが関係しているとされるが、丞相であった陸遜に手紙を送っていたのが吾粲だけとは考えにくい。実際に全琮も陸遜へ都の状況報告をしていたのだから、都近辺にいた百官は武昌駐在の陸遜へ書状を送ることがしばしばあったのだろう。
その中でなぜ吾粲が投獄されたかといえば、吾粲自身が諫言したことにより孫権と楊竺の密談を知っていることが明らかとなったからだ。これにより、陸遜に情報を漏らした人物を調査していた楊竺の目に留まり、孫権に報告したことで獄に下されることとなったのである。
『呉録』に吾粲の名は出ていないとはいえ、彼は当時太子太傅であったのだから情報が耳に入っていても不思議ではない。

陸遜伝では楊竺への言及が後継者問題の記述から外れた箇所に書かれているため、関係があるか否かについて考えてみたい。
まず、楊竺の記述と並記されるキエン・諸葛恪に関する内容は、本人の行動に対して本人宛てに直接意見を述べたものである。一方、楊竺については彼が身を滅ぼすことを踏まえた上でその兄に宛てて身を守るための具体的提案をしており、他の事例とは性質が異なる。
兄弟に族を別とするようすすめるというのは、夫婦に置き換えるならば害が及ばないように離縁をすすめるといったところであろうか。そうしたことは害が及ぶ事態に直面してから対応を促すものなのだから、陸遜が楊穆にこの発言をした時点で楊竺の身に何かが起きていたはずである。すでに事が起きていたから楊竺本人に言うことができなかったのだ。そしてその事態とは、『呉録』の事件以外に該当する出来事は見当たらない(注1)。陸遜自身とその事件の関わりは言うまでもないことだろう。

以上のことから、『呉録』が記す事件に関わりのあることが陸遜伝と吾粲伝に楊竺への言及がある理由と考える。
時期は『呉録』と陸遜伝の記述から判断するに陸遜が死去する頃であり、ゆえに失脚していた顧譚の伝には楊竺への言及がないのである。

2-1.吾粲伝、陸遜伝に見られる形跡
『呉志』には『呉録』の出来事が記されていないものの、陸胤伝に近い記述があるのを鑑みるに、二人の伝にも形跡が見られる可能性がある。
そこで吾粲伝を見てみると、彼が楊竺と孫覇の処遇について意見を述べたのは「遭二宮之變」の時だという。おそらくはこの「遭二宮之變」が『呉録』の出来事に該当するものであり、陸遜伝でこれに該当するとすれば、太子のことで上疏をしたという行動からみて「及太子有不安之議」の時であろう。

そう判断した上で二人の行動について考えてみると、吾粲の行動はわかりやすい。「魯王が立太子に意欲を持っており、楊竺が魯王を立てるようにすすめている」と聞いたから「魯王を夏口に出鎮させ、楊竺を都にいさせないで欲しい」と求めたのである。

ここで気になるのは「孫権が魯王を立てることを許した」ことについての具体的な言及がない点である。これは言い換えれば「孫和を廃嫡することを許した」ということだ。孫覇と楊竺への措置に関して忌憚ない発言をしている吾粲がその点については遠回しな言い方をしたとは考えにくく、にも関わらず伝には「明嫡庶之分」と書かれるに過ぎないのである。

しかし、太子派とされる人々が嫡庶の分を理由に孫和を擁護したというのには疑義があることはすでに述べた。このことから、孫和廃嫡に対する吾粲の本来の言葉も伏せられた可能性が考えられる。
では、なぜ伏せられたのか。「孫権が孫和を廃嫡して孫覇を立てることを許した」と受け取れる文言であったため、『呉志』の性質上載せることができなかったのだ。(後述)「”嫡庶の分”を明らかにしてください」という主張は、代替の言葉として記されたものだろう。

これと同様の対処が陸遜伝にもなされている。情報を受けた陸遜が『呉録』に書かれる通り諌止したならば、孫権が孫和の廃嫡を認めたことについて触れていないはずがない。しかしそれは吾粲の発言同様に載せることはできない。代わりに引用されたのが、前に太子と王の身分の差=”嫡庶の分”について述べた「群公の議」なのである。

看過できないのは、陸遜らが受け取った情報は「孫権が孫和を廃嫡することを決めた」ではなく「楊竺が孫覇を立てるようにすすめてそれを孫権が許した」ものであることだ。この違いは、情報を受け取った陸遜らの行動するに至った事情に関わる部分であろう。

(注1)孫覇伝に楊竺のみ全寄らと区別して書かれているのは彼だけ死亡時期が異なるからだろう。また、楊穆が南方へうつされたのは弟が処刑されたのと連動しているはずだから、楊穆への処置は『呉録』の事件が関係していると思われる。

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【『呉書』と孫晧の意図】

二宮の変の太子派とされる人物について検討を加えてみたところ、『呉志』の記述と実際の行動に齟齬が見られることが確認できた。
『呉志』の記述を読むと、

・後継者問題は嫡庶の分をおろそかにしたから起きた
・孫和を守ろうとした人たちは嫡庶の分をつけるべきという主張をした

これらの点が基調とされているように感じられる。
しかし、これまで見てきた通り嫡庶の分を理由として孫和を擁護した者がいたとする記述には疑義がある。にも関わらず『呉志』にそう書かれる理由・意味は何なのだろうか。

陳寿が参考にしたという『呉書』編纂に携わった人物として真っ先に挙げられるのは韋昭だろう。気になるのは、即位した孫晧が父・孫和の本紀を作るよう韋昭に要求したという話である(韋昭伝)。
この孫晧の行動を踏まえて考えると、上記の疑問に対する一つの結論が見えてくる。
あれらは孫晧が自らを正統な後継者であると主張するための記述なのである。

嫡庶を明確にしなかった結果後継者争いが起きた→廃嫡は不当。正嫡の孫和が皇帝となるのが正しいあり方→孫和の子である孫晧が帝位につくのは正統である。

孫晧はその即位の経緯からか、実弟や孫休の子をはじめとして自身の地位を脅かす人物を多く排除している。一方で当時高官にあった陸凱や丁奉、丁固らは孫晧を廃そうと企てていたことがまことしやかに記される。
難しい立場に置かれた孫晧にとって、己の正統性を確立させることは非常に重要な意味があっただろう。父の本紀を作るように求めた動機もそこに起因するのではないか。

また彼は即位後に、生母である何姫を皇后とし後に皇太后とした。問題は孫和の正室である張氏には皇后位を追贈していない点である。孫晧としては、 孫和の嫡妻は何姫である→その息子の自分が嫡子である という体裁を整える意図があったと思われる。本来の嫡母であり実子を持つ張氏に皇后の位を贈ることは、その体裁上できなかったのだろう。

このように孫晧自身を大皇帝から連なる正統な世継ぎと主張するためには、孫権が孫和の廃嫡を許可したという『呉録』の出来事など『呉書』に書けるべくもない(後に孫和が廃嫡されたこと自体は避けようのない事実なので別)。
同時に、孫和を擁護した者が嫡庶の分について論じたことになった理由も見えてくる。孫晧は正統性を主張するために嫡庶の分を基軸としたかった。その願望を『呉書』の中の太子派に代弁させたのだろう。

先帝の嫡子でもなく名望のある人物からの支持も得られていない孫晧の立場と、『呉志』が記す太子孫和の姿は実に対照的である。『呉志』の記述から浮かび上がるのは、大皇帝に愛され陸遜や顧譚といった名望のある人たちから支持された正統な嫡子たる父と、その後を継いで即位するべき孫晧の姿である。

なお、孫和を擁護するために嫡庶の分について論じたというのはともかく、後継者問題の原因を嫡庶の分を明らかにしなかった点に見出しているのは、数ある原因の中で孫晧の正統性を主張するのに最も都合が良いことから強調されたに過ぎず、後付けのものでもないだろう。諸葛恪が孫奮に送った手紙を読むに、当時の人々からすでにそういう認識が持たれていた節があるからである。



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2019年1月18日 (金)

孫権の本命は歩夫人ではなく袁夫人

孫権には歩夫人を皇后にする積極的な意思はなかった可能性がある。
理由は、歩夫人存命中に彼女を立后するための積極的な行動が孫権に見られないからだ。
皇后候補となった他の女性たちにはそれがある。袁夫人は、本人が辞退したということは孫権が皇后に立てる考えをはっきりと表明したということだろう(『呉録』)。潘夫人は言うまでもなく存命中に皇后に立てられた。また、息子が太子に立てられたことで皇后の位につく可能性があった王夫人についても、孫権は彼女を尊重しようとする動きを見せている。その行動については以前考えを述べた。→「諸姫有寵者,皆出居外」について

ところが、歩夫人に関しては死後に皇后位を追贈された以外、その存命中に孫権が何かしらアクションを起こした様子がないのである。
あるとすれば、「群臣は皇后には徐夫人をという意見だったのに対し孫権は歩夫人を皇后に立てたいと思っていた」という記述が該当するだろうか。

『呉志』妃嬪伝

(徐夫人)
積十餘年,權為吳王及即尊號,登為太子,群臣請立夫人為后,權意在步氏,卒不許。

(歩夫人)
權為王及帝,意欲以為后,而群臣議在徐氏,權依違者十餘年(後略)


しかし、この記述が「孫権は積極的に歩夫人を選んで皇后にしたいと思っていた」ことを示すとは限らない。「孫権は徐夫人を皇后に立てるのを回避するために歩夫人を立てようと考えた」という風に捉えることもできるからだ。
言い換えれば、歩夫人を皇后にしたかったのではなく、徐夫人を皇后にしたくなかったと。孫権に歩夫人立后の積極的な動きが見られないのはこの点にあるのではないか。

最初に后の話が浮上したのは孫権が王位についたころで、孫登の主張等からその母である徐夫人が王后候補に挙げられたが、孫権は彼女を立てることに消極的だった。この当時、妻妾がどれくらいいたかはわからないが、徐夫人を廃してからは歩夫人を寵愛したと記されることから、対抗馬となる女性は歩夫人しかいなかったと推測される。そのため孫権の中で彼女が第一候補となった。とはいえあくまで徐夫人の対抗馬としての候補であるため、歩夫人の擁立にも積極的な意思はなかったのだろう。

こうして后が空位のまま孫権は皇帝となる。帝位についてからも徐夫人を立てる気はない一方、歩夫人を立てることにもそれを断行するほどの意欲はないため状況は変わらなかった。
孫権自身の考えはともかく、周囲からは徐夫人が立てられない以上対抗馬と目される歩夫人が選ばれる可能性もあると見られていたのかもしれない。これにより彼女を支持する層が現れてもおかしくない下地が作られた。

二人の皇后候補者がいてどちらが立つかわからない状況の中、群臣の議は徐夫人のまま変わらず(※1)、後宮では歩夫人が派閥を形成・彼女の親族も中宮と呼んで支持するようになっていった。後者について、孫権は徐夫人を立てるのは避けたいのでそうなるよりはという消極的な判断から黙認したものと思われる。

このように五年十年と月日を経ていく内に、孫権の中にはっきりとした皇后候補が現れた可能性は十分に考えられることである。
それが袁夫人だった。袁夫人は諸姫が産んだ子供の養育を何度も任されるほど孫権に信頼されていたようだし、何より『呉録』によれば孫権から擁立の話を受けている。

『呉志』妃嬪伝

(潘夫人伝注引『呉録』)
袁夫人者,袁術女也,有節行而無子。權數以諸姬子與養之,輒不育。及步夫人薨,權欲立之。夫人自以無子,固辭不受。


これがどの時期のことか具体的な数字は記されていないが、「及歩夫人薨,權欲立之」とあることから歩夫人の死後それほど経ってはいないだろう。
徐夫人と歩夫人の時には十年以上もの年月思い悩んだとされる孫権が、袁夫人擁立に関しては迅速に明確な行動に出ているのである。
歩夫人存命中にすでに、孫権の中で袁夫人は皇后の有力候補者となっていたのではないだろうか。

ところが、後宮では歩夫人の党派が形成され彼女の親族も明確に後押ししている。当初は徐夫人を立てるよりはとそれらを黙認した結果、徐夫人ですらない別の女性を皇后にするとは口に出せない状況となっていたのである。
こうしたことから、明確な皇后候補が現れたにも関わらず膠着状態が続くこととなり、長年続いた皇后問題に何の決着もつかず火種だけを残した状況の中で歩夫人は死去した。

袁夫人を皇后に立てるためには、後宮内に浸透する徐夫人VS歩夫人の構造を清算しなければならないと考えた孫権は、死去した歩夫人の方に皇后位を追贈することで決着とし、そうして改めて袁夫人に立后の意思を表明したのである。

結局、袁夫人は固辞して皇后にならなかった。子供がいないからという理由だったが、それがすべてではなかったのかもしれない。
数年後、息子が太子となったことで白羽の矢を立てられたのが王夫人、そして潘夫人であり、譖害されたのが袁夫人、讒言されたのが王夫人、殺害されたのが潘夫人である。

なお、私見を述べると歩夫人自身は皇后となることに意欲を持っていたと考える。曹操の卞夫人は離縁した前妻の丁夫人を丁重にもてなしたというが歩夫人が徐夫人を尊重していたとする記述は見られない。それどころか徐夫人の行動に対抗しているような節がある(※2)。さらに、親戚が自分を中宮と呼ぶことをたしなめた様子もないので、彼らの行動を受け入れていたのだろう。

(※1)群臣は、孫権が歩夫人を皇后にしたいと思っていたことを認識していたのだろうか? 曹丕の郭皇后とは異なり、歩夫人の場合は君主の表明に対して臣下から反対を受けたわけではないように読める。そもそも、孫権が歩夫人を皇后にしたいと思っていたという記述自体が、策命に書かれた内容を遡って適用した結果のものであるように感じられる。
(※2)孫登伝に記される贈り物の件。


(2019.8.22 引用文追加)


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2018年12月26日 (水)

時系列と孫覇の年齢

孫和は224年生まれ、孫休は235年生まれ。孫休の上に孫奮がいるが、ここでははっきりしている孫休の生年を上限とする。
二人の生年を基準にすると、孫覇の生年はおおよそ225~234。年齢にすると王となった242年時点で数え9~18歳。
これ以上年齢を絞るのは難しいが、兄弟たちの記述を基に推測してみる。

孫覇が王に立てられた当初は孫和と同じ宮殿に住んでいたこともあり(『通語』)、孫和と同じくカン沢が学問を授けることになった(カン沢伝)。
もしもそれ以前に別の誰かがついていたら、その人物が魯王となった後も継続してついていたと思う。なので、王となる前の242年以前に孫覇に専属の教育係はいなかったのだろう。
孫和にカン沢がついたのは孫和が14歳のときで、孫休に射慈、盛冲がついたのは孫休が13歳のとき。孫慮、孫奮は不明で孫登の場合は立太子という背景もあるが、一応こちらも13歳のときだ。
他の兄弟の状況を見ると、大体13歳を過ぎたあたりで後見役がつけられているように思われる。
例外はあるかもしれないが、仮にそうだとすると、242年時点の孫覇は13歳に届くか届かないかという年齢だった可能性が出てくる。
だからそれまで専属の教育係がおらず、王となったのをきっかけとして、カン沢が孫覇も兼任することになったのではないか。

もちろんこれだけでは断定できないが、孫覇がその程度に年若かったとすればなんとなく腑に落ちることがある。
まず、王となった時点でそれなりに長じていれば、孫慮のときのように顧雍らが軍権を持たせ外を守らせるよう主張していてもおかしくないはずだが、顧雍はそうしていない。
孫慮は数え19歳で開府したが、このときの孫覇はその年齢よりも年少だったことが顧雍がそうしなかった理由なのではないか。
もっと言えば、当初太子と同じ宮殿に住んでいてもみな表立って何も言わなかったのはそれほど孫覇が幼かったからでは、という考え。

私は顧雍伝と陸遜伝にある顧譚と陸遜の上疏は『通語』のいう「群公の議」であると考えているが、それをここでは顧雍死後のものと仮定する。
理由は顧雍の存命中ならば彼がやっていたと思うから。が、そうでないのは彼が没していたためだろう。顧雍は243年11月に死去したのでそれ以降。おそらく244年に入ってからじゃないかと思う。
244年といえば242年から2年経っており、その分孫覇も年を重ねている。
仮に242年時点で13歳としたら15歳になる。体も成長しているだろう。それなりに大きくなっていたかもしれない。
大きくなった孫覇が、変わらず太子と同じ宮殿に住んでいて、等しい待遇を受けている。そのため、当時大臣だった顧譚や陸遜が代表して「(魯王も成長したしそろそろ)待遇を変えても良いのではないか」と上疏するに至ったのだ。
しかし、顧譚と陸遜は上疏の中で太子と王には待遇に差があるべきとは言っているが、孫慮のときに顧雍たちが主張したように軍権を持たせて出鎮するのがよいとまでは言っていない。
思うに、この時点で孫覇は成長はしたが軍権を持たせて外に出すとするには若過ぎたのだろう。だから、同じ宮殿に住んでいる状況についてのみ言及されるに留まった。

とはいえ孫慮の前例もあるので、はっきり言っていないだけでいずれは彼のようになるだろうしそうするべきという認識が臣下間にはあったのかもしれない。
だから、宮を分けはしたものの近接していたことから両宮間に摩擦が生じる事態になると、羊ドウは「嫡庶をはっきりわけて、子弟を封建し、国の守りとするのが先例」とさりげなく主張し、また魯王傅となった是儀は率直に魯王を外の守りにあたらせるようにとの意見を述べたのだ。
孫覇が昔の孫慮ほど長じていたならば、顧譚や陸遜も軍権を与えて国の守りにあたらせるようにという主張を最初からしていたことだろう。

なお、吾粲が魯王を夏口に駐屯させるよう主張したのは、楊竺の名も上げていることから孫権と楊竺の密議(『呉録』)を耳に入れた後のことと推測する。楊竺への言及をした吾粲と陸遜には『呉録』のいう密議を孫和から聞かされたという共通点があるためである。(当時の吾粲は太子太傅なので報告を受けただろう)


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2018年12月15日 (土)

全氏のターゲットは顧譚ではなく張休

この記事は、顧譚の太子と魯王に関する上疏は二人が同じ宮殿に住んでいた時の群公の議(『呉志』孫和伝注引『通語』)であり、当時対立していたのは全寄というよりも全琮をはじめとした全氏一族という考えを前提に書いています。

(『呉志』張昭伝附張休伝)
為魯王霸友黨所譖,與顧譚、承俱以芍陂論功事,休、承與典軍陳恂通情,詐增其伐,並徙交州。

張昭伝には張休について、「芍陂の役の論功行賞問題で魯王派から讒訴され交州にうつされることになった」とある。
一見、顛末がしっかり記されているように見えるが、なぜ讒訴されるに至ったかの経緯が書かれていない。そのいきさつと思われる説明は、張昭伝の後に続く顧雍伝に詳細な記述がなされている。

(『呉志』顧雍伝附顧譚伝)
…由是霸與譚有隙。時長公主壻衞將軍全琮子寄為霸賓客,寄素傾邪,譚所不納。先是,譚弟承與張休俱北征壽春,全琮時為大都督,…(中略)…時論功行賞,以為駐敵之功大,退敵之功小,休、承並為雜號將軍,緒、端偏裨而已。寄父子益恨,共搆會譚。譚坐徙交州

それによると、顧譚が太子と王の待遇について上疏した結果魯王と不仲となり、さらに魯王の賓客となっていた全寄とも不仲で、芍陂の役の論功行賞のこともあってますます憎まれ、陥れられた顧譚は交州にうつされることになったというのである。

この記述を見る限り、一連の事件の主体は顧譚であるような印象を受ける。太子派である顧譚が魯王派と対立した結果として論功行賞の件で讒訴され張休は巻き添えをくった、という感じだ。
本来、芍陂の役に密接な関わりを持つのは顧譚よりも張休(と顧承)のはずだが、当該戦役について顧雍伝にその詳細が書かれ、前にある張昭伝で語られないのは、顧譚が主として魯王派と対立したことが事件の発端だからという視点に立てば一応の納得はできる。

しかし、顧譚が擁護したという太子・孫和の伝の記述を見ると、どうも事情が異なるように思われる。
理由は、孫和・王夫人母子と対立していたという全公主が行った讒言の対象には孫和・王夫人のみならず妃の実家も含まれているからである。
太子妃の実家とは張氏一族のことを指す。その張氏一族の人物として具体的に名前を挙げられたのがおそらく張休だった(孫和を出迎えたのは張休だから)。つまり、全公主は張休をも貶めているのである。

妃の実父である張承ではなく叔父の張休が対象とされたのは、張承はすでに死去していたためと想像される。張休が全公主から讒言を受けたのは244年以降の出来事と考えられるのだ。
そして、芍陂の役の論功行賞問題が起きた時期も『呉志』陸遜伝の記述や張休・顧譚らの享年から推測するに244年以降のことと思われる。
要するに、そう離れていない期間に張休は全氏一族から内(全公主)からも外(全父子)からもやり玉にあげられているのである。
こうしたことから張休がただ巻き込まれただけとは思われない。むしろ、主としてターゲットにされたのは張休だったのではという気さえしてくる。

全氏一族は連動して内外から張休(=張氏一族)を失脚させようと画策した。孫和・王夫人のみならず張休(張氏一族)にも不信感を抱いた孫権はそれに便乗した。
最終的に張休は孫権から死を賜ったことや、張休だけが獄に繋がれたという『呉録』の記述が孫権の意思を物語っているように思われる。

やっぱ張休なんすわ。
顧雍伝の「寄父子益恨,共搆會」は顧譚ではなく張休のことやったんや。

ところが、『呉志』(あるいは韋昭『呉書』)ではそうとせず顧譚を主体として事件の経緯を書こうとした。本来は顧譚(と顧承)が巻き込まれた側=副であるところを主とするためには顧譚個人が魯王派から狙われる理由付けが必要となる。そのために顧譚が魯王・全寄と不仲だったということにされたのではないか。(※1)

そしてさらに、張昭伝に結末(=論功行賞問題で交州行き)が書かれ、続く顧雍伝に発端と経緯(=芍陂の役の詳細と論功行賞及び魯王派との関係)が書いてあれば、張休がああなったのは顧譚がこうなったからなのねと読んでしまえるわけで、意図的にそう誘導されているのではないかという考え。
張昭伝に張休が讒訴された理由を書かなかったのは誘導の一環であり、騒動が起きたのは顧譚に端を発するという印象を強めるためだったのだ。

ではなぜ張休がメインで狙われたのではなく顧譚に巻き込まれたという形にする必要があったのか。
孫権を導いた孫呉の超名臣・俺たちの張昭さんの家を孫権が潰そうとしたとは臣下筆頭として張昭が立伝される『呉志』には書けなかったからかも。特に張昭伝はやばやばのやばだったのかも。『呉録』にあるように張休だけ繋獄したくだりも『呉志』は記さない。これも同様の理由。
顧譚についてはあれこれ理由をつけて罰するのを避けた節があるのとは対照的に、流放するだけに留まらず賜死という形で確実に命を奪う方法をとっていることからして、孫権は張休に関しては明確な意思をもって排除するつもりだったのだろう。

孫権が張氏一族を積極的に潰そうとしたとするのがまずいのかもしれない。張休の賜死については孫権の判断だろうが、そのまま記すのを回避した結果、詔書を起草したと思われる中書令・孫弘(別族)の仕業という書き方になったのでは。(そうなると朱拠や諸葛恪も?)

顧雍伝に顧雍の孫の問題みたく書くのはいいのかよって話だが張昭伝よりはマシだったんじゃないすかね(テキトー)
顧承ではなく顧譚にした理由は、顧譚は重職にあったり上疏の件もあったりで色々と都合が良かったため?


(2019.9.24追記)
(※1)もし、例の上疏が原因で魯王孫覇が顧譚を憎むようになったとするならば、直接的に魯王を外に出すよう主張した魯王傅の是儀とは険悪な関係になっていそうなものだが、是儀伝にはそのような記述は見られない。陸遜についても同様である。



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↓この件について考えてて派生した『呉録』の孫権、楊竺、陸遜に関する記述についての妄想。

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2018年10月14日 (日)

瑯邪と南陽の王夫人

242年に孫和が太子に立てられると、その母である瑯邪の王夫人が重んじられ、他の寵愛を受けた諸姫を外に居らせることにした件(『呉志』妃嬪伝王夫人(孫休母)の条」)について。
まず、これは孫権の意思で行われたことであると考える。理由は瑯邪の王夫人にそんな権限はないから。

『呉志』及び裴松之注にて確認できる孫権から寵愛を受けたであろう女性のうち242年時点存命していたと考えられるのは、南陽の王夫人、潘夫人、袁夫人、謝姫の四人(※1)。この四人のうち、外に出たことが確定しているのは南陽の王夫人のみである。

謝姫は孫晧の代まで外に居たような様子は見られず、潘夫人に中傷されたという袁夫人も後宮にいたからそうなったのであろうし、242年当時ちょうど寵愛を受けていたであろう潘夫人も宮中に留まったはずだ。
『呉志』妃嬪伝には「寵愛を受けた諸姫は皆外に居させることになった」と記されているが、どうも全員がそうなったとは思われないのである。

おそらくこのとき外に出された女性と後宮に残された女性にわかれたのだ。だとすると、その差異が生じた原因にはどんな要素が働いたのか。
理由はいくつか考えられるだろうが、可能性の一つを述べるためにまず謝夫人の話を参照したい。

『呉志』妃嬪伝謝夫人の条によると、謝夫人は孫権の母・呉夫人に選ばれて孫権の妃となった。こののち孫権は徐夫人を納れた。その際、彼は謝夫人に徐夫人の下につくことを求めたが謝夫人はこれを受け入れず、失意のうちに死去したという。

この謝夫人と徐夫人の一件は、孫権が自身の妻妾に対し実際にとった行動である。よって南陽の王夫人の件もこれに当てはめることができよう。

孫権から瑯邪の王夫人の下につくことを求められた南陽の王夫人はこれを拒否し、そのため孫権の意思によって後宮から出されることになったのである。


謝夫人については母・呉夫人の手前あからさまに追い出すことはできなかったかもしれないが、南陽の王夫人は孫権が選んで入れた女性であろうから、かつての妃・徐夫人同様に孫権の気持ち一つで遠ざけることなど容易にできただろう。

ではなぜ南陽の王夫人は孫権の要求を拒否したのか?
それは、彼女が男児を産んだ女性だからだと思う。

孫権の後宮は十年以上も皇后がいないというおかしな状態が続いていた上に、各夫人たちの記述を読んでも妃嬪の位がどうなっていたかはっきりせず、妻妾間の上下関係がどんな様子だったのか想像しにくい。
しかし、妃嬪の位が不明瞭とはいえ、ある程度待遇に差はあったと想像される。「後宮で最も寵された」「~に次いで寵された」といった記述が見られるからである。

待遇に差がつく要素は家柄だったり親族の官位であったり年齢であったり連れ添った時間の長さであったりだろうが、何よりも「母以子貴」というように子供、特に男児を産んだ女性が重んじられた可能性は十分にある。孫登が太子となるや養母の徐夫人を后にするようにとの意見が出たり、孫和が太子に立てられるとその母である瑯邪の王夫人も貴重されるようになったのが何よりの証だろう。

その点から言えば、南陽の王夫人は235年に皇子の孫休を産んでおり、これにより諸姫の中でも特に大事にされる立場になったと推測できる。同じく男児を産んだ瑯邪の王夫人にひけをとらない程度にだ。
特に孫休は、孫亮が生まれるまでは孫権にとっての末子であったと思われ、242年時点でも数え8歳という幼さであったことから、母子共に可愛がられていたのかもしれない。

今まで皇子を産んだ立場として大切にされてきたのに、孫和が太子となるやその母が特に貴ばれるようになり、彼女の下につくことを孫権から要求された。そんなことは南陽の王夫人のプライドが許さなかった。そのため要求を拒否し、これにより孫権は彼女を後宮から出す決定を下したのである。あるいは、当時末子であった孫休共々受けていた寵愛が潘夫人へと移ったことも南陽の王夫人の気持ちを損ねる原因の一つであったのだろうか。

ともあれ、こうして南陽の王夫人は公安へ赴くこととなった。
前述の宮中に残ったと思われる他の女性たちは、孫権の命令に従ったということだろう。



これまで孫権の後宮で存命の女性が皇后に立てられたことはなかった。十年以上皇后不在・妻妾の序列も不明瞭という奇妙な状態が続いた後宮で、初めて存命の誰かが皇后に立てられるかもしれない事態に直面したことによって、長い時間をかけて形成された歪みを清算する必要が出た。「諸姬有寵者,皆出居外」というのは清算の一つであったのだ。

また、孫権がすぐに瑯邪の王夫人を皇后に立てなかったのは、あるいは彼女の身の安全を考えてのことであったのかもしれない(※2)。
もしくは、王夫人が皇后になると困る全公主が「王夫人のためにも立后は焦らない方が良い」とでも言って阻止したか。皇后にしたくないからといって何も「あの女はダメです!皇后にふさわしくない!」なんてストレートに悪し様に言う必要はない。そんなのは孫権の不興を買うかもしれないし。
はたまた袁夫人同様に王夫人自ら辞退したという可能性もないとはいえないだろう。

とにかく孫権が帝位についてからずっと皇后問題を抱えていた後宮の混乱を、瑯邪の王夫人一人の問題としてとらえて断ずるなんてのは無茶だろうと思う。のだが、私が正史(ちくま訳)を読み始めたときから何故かそういう論調の意見(下手すりゃ悪口)をたびたび見かけて、そのわりに擁護は見たことなくて可哀想だなーとずっと思ってたんだよね。孫和もね。孫登だって色々言われてたし。なのでこういう考えもありえるんじゃない、と。

王夫人が立后されなかったのは彼女に問題があったからと見るなら、十年以上悩まれた歩夫人はその比じゃない。


(※1)孫奮の母・仲姫については判断できないためここでは除外する。
(※2)潘夫人殺害の件を参照。潘夫人は孫権が病の床に臥した時=孫権が夫人を庇護できない状況下で殺された。


(2019.10.8 わかりにくい文章の加筆修正)


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2018年10月 2日 (火)

陸遜の娘=陸抗の姉妹

陸雲の「歳暮賦」という作品には姉と並んで姑という言葉が出てくる。これが姑(おば)=父親の姉妹を指すとすると、陸抗には姉か妹がいたことになる。

この「歳暮賦」は、序に永寧2年(302年)とあるためそれ以降の作と推測されるらしい。さらに故郷を離れてから6年経ったこと・姑と姉が亡くなったことが書いてあるそう。6年の間に2人が亡くなったということなのかな。
わからないが、とりあえずそう仮定すると、翌303年には陸雲自身が…なので、姑が亡くなった時期はさかのぼっても298年がギリギリのラインか。陸抗の生年226年を基準にすると298年時点で72歳。
それを考えると、どちらかというと妹かもしれない。同じ陸氏一族の陸凱や陸曄の享年が70歳代であることを見れば長命な姉の可能性もあるけども。
詳しいことは他の史料でも見つからない限り知りようもないが、陸抗と同母の姉妹だったら面白いね。

陸抗の姉妹ということは当然、陸遜の娘ということになる。
仮に陸抗の妹だとすると、陸遜死去時の年齢は、陸抗が19歳だったためそれより下の最高18歳。娘が当時ある程度長じていたとすれば、陸遜存命中に嫁いだ可能性ありだ。

気になるのはその嫁ぎ先だが、顧氏、張氏、姚氏といった土着の豪族かもしれないし、陸抗が張承の娘を娶った例からして呉朝の有力人士の子弟かもしれない。
もし陸抗が張承の娘を娶ったのと同時期に娘も嫁いだのだとしたら、張承周辺の誰かの妻となったと考えることもできるやも。
詳しいことは史料でも見つからない限り(略)


「歳暮賦」に姑と一緒に出てくる姉は”伯姉”と書かれている。一番上のお姉ちゃん=陸抗の長女という意味かな。顧栄の妻は何女だったんだろう。
それにしても、陸機も陸雲も親兄弟をはじめ親族に関する作品を残しているあたり仲が良かったんだろうな。姑も陸雲に慕われていたからこそ姉と共に死を嘆かれたのだと思うし。
陸遜と陸瑁なんて『呉志』陸瑁伝に陸遜の弟と書かれていなければ兄弟なのかもわからないレベルだからたまに自分の中で疎遠疑惑が浮上しかけるけど、子孫が親しいのを見るにまあこの二人も普通に(?)兄弟やってたんだろう。同じ行動をとってたりするし。兄ちゃんは西からやるからお前は東からやるんやで弟よというやりとりがあったのかもしれない。

とにかく二陸のおかげで史書ではわからない情報の一片を知れるのはありがたい。特に女性に関しては書かれないことの方が多いだろうが、姻戚関係が事件の重要な鍵であるケースも多々あるのだから、断片的にでも娘や姉妹の存在を掴めるのは大変に有用だ。持つべきものは優秀な子孫なんだなあ。



参考文献:
劉運好『陸士龍文集校注』鳳凰出版社,2010.


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